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薄汚れた娘が、すっと一人の貴族的な身なりの男の脇を通り抜けた。
人の多い大通りではよくある光景で、誰も気にしない。
娘は急いでいるのか、ずっと小走りで走っており、誰も気にしない。
彼女はそして何人もの人間のあいだを通り抜け、そして路地裏に抜けて行った。
「ボス! どうだった?」
路地裏では数人の子供が待ち構えていて、チィはにやりと笑って懐から、彼女の見た目にそぐわない立派な財布を取り出した。
「ああ、いいカモがいたぜ! 今日はこれで飯が食えるな!」
「やったあ!」
「ほかのやつらはどうしてる?」
「半分はお金を探してて、半分は家を整えてます」
「上々」
チィはまたにやりと笑い、子供の一人二人の頭を、ぐしゃぐしゃと撫でまわした。
「さて、売り上げをとられる前に、さっさと行くぞ」
「はい!」
チィはそう言うと、子供たちを引き連れて、人通りの少ない場所を抜けて行った。
何処かで、財布がない! と叫んでいる声も聞こえて来ていたが、知った事ではない。
チィは、数日ぶりに子供たちに、腹いっぱい食事を食べさせられると思うと、陽気な気分になっていた。
「まてこのドブネズミ!!!」
「待ちやがれ、この泥棒猫!」
「ただで済むと思っているのか! ウジ虫!」
怒号が響いている。
屈強な、それなりの身分の人間に仕えている兵士たちが、血相を変えて怒鳴っている。
そして、目を皿のようにして、一人の娘を探している。
「甘く見ちまった……」
だから失敗したのだ。チィは懐の重たい財布を抱きかかえるように、走っていた。
いつも通りのスリ。
ただ違ったのは、相手がすぐに勘づいたという事だ。
そして、スリだ! と叫び、追手をかけてきた事である。
チィは必死に路地裏を迷路のように駆け回った。
本当に駆け回ったのだ。
行きつ戻りつ、ループをし、時に逆走し、場合によっては市場を突っ切った。
しかし相手も執念深く、いくらでも追いかけてくる。
そしてそう言うやつらを足止めしてくれるような、人間はいない。
チィのミスだったのだ。
まさか相手が、護衛付きの生粋のほにゃららだったという事に、気付けなかった自分のミスである。
生粋のほにゃららは、金持ちの癖にけちで、がめついと相場が決まっているのだ。
チィはこれまでのスリ人生の中で、相手を見誤った事は十歳くらいまでである。
それ以上大きくなると、観察眼が発達し、大丈夫な人間と、そうでない人間を見分けられるようになったのだ。
そのためチィは油断していた。自分が相手を間違うわけがないと、高をくくっていた部分があった。
「くっそ……」
チィは自分の馬鹿さ加減に、心の中で悪態をつきつつ、この財布の中身だけはなんとかして、子供たちに渡さなければと思っていた。
チィが稼ぎ頭なのだ。
貧乏で、親や肉親からも見放され、捨てられ、死別し、学を身につける事が出来ない環境でしか生きられない、そう言う子供たち。
その子供たちの間で、悪は悪ではなくなる時がある。
飢えて凍えて、暴力の嵐におびえる生活が。弱者の生活だ。
少なくとも、この一大都市ローゼリア……都市の形がバラの花びらのように分かれているからついた名前、バラなどチィは見た事がないのだが……で、孤児院にすら入れない、決定的な弱者たちが生き延びるためには、悪に手を染めなくてはいけない。
盗み、かっぱらい、置き引き、スリ……チィはあらゆる盗みをして生きてきた。
その代わりに、自分と同じような立場の子供たちをまとめて、一気に面倒を見てきた。
顔を見られる悪はするな、サインをする悪をするな、人を傷つけてまで盗みをするな、人殺しなどもってのほか、それは最低限の人間としての心得だ。
チィはそうやって子供たちに教え続け、その姿勢を維持し続けた。
そのために、稼げなかった事もあったし、子供たちに食べ物を与えるために、自分はすっからかんの胃袋を抱えて二、三日夜を明かした事もある。
そして気付けば、チィはそう言った子供たちの、ボスになっていた。
どれだけ学が欲しくても、金貨一枚分の授業料も支払えなければ、教会に何かお金を支払えるわけもない、底辺の弱者たち。
貯金をするくらいなら、一日分のパンを買う。
そう言った心でしか生きられない子供たちは、チィを頼ってくる。
だからこそ、チィは生きぎたなく、諦めが悪く、そして自分を頼る子供たちを愛していた。
幼い頃の自分に、非道な事は出来ない。だからこその、チィだったが。
チィは走りながら、どこまで行けば、子供の一人と合流できるか、と真剣に考えた。
自分が捕まってしまうのは、ほぼ確定だ。
だが。
チィはきっと、強い光をたたえた瞳をバラに例えられる、幾重にもある城壁に向けた。
最後の最後、子供たちに、このお金を。
もう、一週間もまともな食事をしていない、あの子たちに。
この、例年にない寒さと長さの、冬のせいで弱い子供たちは風邪をひいたりしたのだ。
たちの悪い風邪で、何人も死んだ。
そして、せめて天国に行けるように、教会で葬ってもらうために、スリで必死にかき集めたお金はほとんど持っていかれた。
チィは神など信じていないが、子供たちは信じていて、仲間に天国に行ってもらいたいと、ぼろぼろ泣きじゃくる子供たちの意思を尊重したのだ。
風邪をひいた子供たちが悪いのではないし、死んでしまった子供たちが悪いわけもない。
ただ、そう言った事の処理に使ったお金が、チィたちには痛い金額だったという事実があるだけだ。
「くっそ……」
せめて。
生き残ってくれた十人の子供たちには、食べ物を。そのためのお金を。
走っていると、前方から回り込まれたらしい。
追っかけてきたらしい男たちの、加虐的な表情に、チィはひっと喉を鳴らした。
そして後ろに駆け戻ろうとすれば、また現れる同じような男たち。
あの、生粋のほにゃららは、よほどの金持ちだったらしい。
こんなに追手が来るなんて! 想定外以外の何物でもない。
チィはさらに別の道を頭に思い描き、そこを走り抜けた。