*5* 狂乱の花宴
無人の屋上に独り残された付喪神は、すぐに主を追うことはしなかった。
「いけませぬなぁ……何事も、御身体が資本でしょうに」
咎める口調でありながら、手元へ返された重箱の重みに、くつくつと笑みがこぼされる。
この分ならば、半分も減っていないだろう。蓋を開けずとも見てとれる事実は、紅へ熱を与えた。
「わたし好みの身体になっておる……手ずから躾けた甲斐があるというもの」
愉悦の声音と共に陽光へ差し出された重箱が、ぼう、と紅蓮の烈火に包まれる。
「もう、用済みであろう」
爆ぜることも、煙を残すことも赦されず、木の箱であったモノは、まばたきの刹那に消し炭と成り果てる。
散った桜のようだ――と、華奢な右手のひらを掲げた紅は、春風にさらわれるソレを恍惚とした紅玉に焼きつけた。
振りあおいだ視界は蒼。雲ひとつない天道を見据えれば、天界までも捉えることができるのではと、妙に浮き足立つ。
「――昼は過ぎました。万物は流転し、陰気に満ち充つる。貴方様の舞台ですね」
柘榴の実が弾けたかのごとく、紅蓮の瞳が人影を捉える。
金網へもたれた己の正面に、金属扉を背にした白衣の男が佇んでいる。その菫の瞳が、失笑した姿をしかと映し込んでいた。
「……貴様、人くさいが、人ではないな」
視えているという時点で否定されることだ。とはいえ妖とも違う。いまの世に、これほど完璧に人の姿を模し得る大妖は存在しない。
「誰そ」
果たして、天の者か、国の者か――
どちらにせよ、紅の取るべき行動はひとつに決まっていたが。
「それは、貴方様がよくご存知のはず」
――しかしながら、この返答によって、新たな選択肢が見出だされる。
紅は男――朔馬の頬笑みに釘付けとなった。
信じられぬ。だが、滲み出る神気には覚えがある。忘れられるはずがない。
全てを悟った紅の身体は、憤怒に燃えたぎった。
「よくものうのうと姿を現しおって……この愚弟が……っ!」
とたん、周囲の水分濃度が急降下する。
激昂した紅を取り巻く烈火の神気に、干上がってしまったのだ。
いまにも自身を焼き殺さんとする熱気に中てられながらも、しかし朔馬は慌てない。それどころか、柳眉を八の字に下げ、口角を上げ、薄く頬笑むではないか。
「まだ、弟でいさせて頂けるのですね……嬉しいです」
すぐさま失言に気づいた紅は、弁解ではなく舌打ちを返す。
「魂依代を手に入れたか……殺しても殺しても、貴様はわたしの前へ現れる。黄泉の女王はなにをしているのだ……」
「お待ちください、兄上。私は貴方様を貶めるつもりなどございません」
「黙れ! 貴様に兄などと喚ばれたくないわ! わたしからあの方を奪っておきながら……この痴れ者めが!」
草笛の声色は嫉妬の焔に燻り、澄み渡った空に暗雲を喚ぶ。
「渡さぬ……あの方はわたしのものだ。邪魔立てするというなら、この場で焼き殺してやろうぞ……っ!」
「兄上、どうかお待ちを」
「命乞いは聞かぬ!!」
「兄上! ……あの方をお慕いしておりますのは、我らのみになりません」
刹那、嫉妬の炎が鳴りをひそめる。
はたと気づかされた脳裏に、たしかに思い当たる節を見つけた為だ。
「やはりあの男……彼の天津神であったか」
よぎる飴色を、この手で直ちに燃やしてしまいたい。さすれば跡形もなく溶け去るだろうに。
「ふふ……はははっ! わたしというものがありながら、あの方もおひとが悪い。些かお優し過ぎるのです。騒がしい羽虫は、わたしが叩き潰して差し上げましょう……」
「兄上……」
「よかろう。貴様の望み通り、誓約を執り行おうではないか」
ゆらり――……
頬笑みを刻んだ紅蓮の宝石は、妖しく、危うく翳り、燻っている。
「あの方は、必ずやわたしをお選びになる……」
うっとりと甘やかに紡がれる盲目的な言の葉を、朔馬は息をのんで聴きとどめる。
「貴女様を愛でるも散らすも、わたしの、わたしだけの自由でございましょう? ふふ……今宵が愉しみでありますな、細君――我が妻の君よ」
しゃらり、しゃらり。
可笑しげに震える肩、転がる鈴が、愉悦を唄う。
「貴女様に、至高の花篝りを――」
狐の面から覗くは、 昏き愛憎の頬笑み。
一介の付喪神には過ぎた瘴気が、静寂の屋上に立ち込める。
時は満ちる。
狂乱の花宴が始まらんとすることを、純真な乙女のみが与り知らぬ。




