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たまゆらの花篝り  作者: はーこ
47/49

*45* 天界に注ぐ雨

 さぁさぁと、霧雨が霞を滲ませている。

 摩訶不思議なことだ。太陽の落ちない高天原(たかまがはら)にも、雨は降るのか。

 否。この雨の原因は、己のみにある。


「……どうして、こうなっちゃったかなぁ」


 独りごちったところで、意味などない。わかりきったことだった。

 おかまいなく座り込んだ泥濘に、赤黒い斑模様が音もなく渦を巻く。

 冷たい雨が、疲労に包まれたタケミカヅチの身へ容赦なく打ちつける。


「……フツ兄様……」


 雫を滴らせる毛先の間から、タケミカヅチはちらと視線を上げる。

 少女がひとり、傘も差さずに佇んで、自分を見下ろしていた。

 曇天下の薄暗い中では、悲しんでいるようにも、憐れんでいるようにも取れるまなざしだった。

 もしかすれば、嫌悪が混じっていたかもしれない。ここは、鉄錆のにおいが酷いから。


「〝仕事〟があるって、言ったよね」

「申し訳、ありません」

「まぁ……いいよ。起きちゃったもんは仕方ないんだし」


 見渡す限りの森の中、ふたりきり。

 稲妻の気配はなく、雨だけが止まない。

 この状況を、目前の少女はどのように判断するだろう。


「久々に嫌なもん斬っちゃったな……みそぎしたほうがいいか。血は、穢れが強い。きみもおいで」


 タケミカヅチは立ち上がり様、剣を濡らしていた血糊を振り払う。

 抑揚に乏しい声音で告げたタケミカヅチの背に、はい、と消え入りそうな呟きがぶつかった。



  *  *  *



 神のみが住まう天界、それが高天原だ。

 しかしごく稀に、妖が入り込んで来ることがある。

 中でも厄介な悪鬼のたぐいは、災害や飢饉、流行り病などが起こった際に爆発的な増殖を見せ、下界ではおさまりきらなくなった群れがこちらまで侵入する。


 タケミカヅチは命じられるまでもなく、真っ先に討伐へ赴いた。

 数多の異形を斬り伏せ、ほふり――そんな折だ。いるはずのない少女の姿を認めたのは。


 すぐさまタケミカヅチは自身の邸にニニギを連れ帰り、身を清めさせた。


 生憎、それなりに頭を悩ませて見繕った着物は駄目にしてしまったため、男物の夜着で我慢してもらうほかない。

 男神の中では華奢な域にあるタケミカヅチではあったが、しずしずと部屋を訪れたニニギの纏う紺青の裾は、少しばかり引きずっているようであった。


「フツ兄様、私はなにか、ご気分を害することでもしましたか」


 禊の合間に、ニニギも思うところがあったのだろう。

 勧めた長椅子に座ることなく、単刀直入にタケミカヅチへ問うた。


「どうして?」

「私が嫌だと駄々をこねても、まるで聞かないふりで連日押しかけていたあなたが、ぱたりといらっしゃらなくなったからです」

「ニニギちゃんってば、僕がいなくて寂しかったの?」

「誤魔化さないでください」


 あえなく遮られ、タケミカヅチのはりつけたような笑みが剥がれ落ちる。


「フツ兄様。私はもう、幼子ではないのですよ」


 追い討ちのひと言。諦めにも似た嘆息が、タケミカヅチの口からこぼれ出た。


「……僕の生まれについて、少しは聞いてるでしょ」


 タケミカヅチは組んだ腕で頬杖をつきながら、ねずみ色の窓を見やる。

 雨足は弱まったものの、依然として晴れ間は覗かない。


「私と同じ、イザナギ様の系譜であらせられますね」

「厳密には違うよ。とはいえ、イザナミ様の系譜であるかというと、それも微妙」


 男神イザナギ。女神イザナミ。かの二柱が世界をつくり、多くの神々を産んだ。

 力を持つ天津神(あまつかみ)の神産みに、性別は関係ない。

 アマテラスはイザナギが産んだ太陽神であり、その孫であるニニギは、イザナギの直系に当たる。


「あるとき、イザナミ様がカグツチという神をお産みになった。火を司る神だ。けれど、カグツチを産んだ際に負ってしまった大火傷が原因で、イザナミ様は亡くなられてしまう。愛する妻を奪われたと激怒したイザナギ様は、カグツチを斬り殺した。その飛び血から産まれたのが――タケミカヅチ。僕だよ」


 燃える、燃える、紅蓮の炎。響き渡る怒号。

 それが、産まれて初めてタケミカヅチが目の当たりにしたものだった。

 それから初めて鏡を目にしたとき、己の持つ緋色の髪にぞっとした。炎のようで。血のようで。


「斬撃を受けた影響からか、イザナギ様の神気と、剣の才には恵まれたみたいだけど、経緯が経緯だし。あんまり歓迎された出自じゃないんだよね」

「……そうでしょうか」

「そうなの。おまけに僕はきみみたいに、男神と女神が交わって産まれた神じゃない。呼吸を始めた瞬間から、この姿だ。僕自身には、子供時代なんてなかった。だから……ね、幼い子って新鮮で、すごく可愛いんだって気づいちゃったんだよなぁ。きみに会ってから」


 奪うか、与えるか。二分するならば、タケミカヅチは間違いなく前者だ。

 責務は果たす。けれど成果を上げられたとすれども、歓喜はしない。してはならない。

 己の使命は、他者へ武力を行使することによって成されるもの。時には命を奪うことであるためだ。


 血の甘露に溺れず、己に驕らず、ただ粛々と役目を全うするのみ。

 それ以外に意義などありはしない、はずだった。


 だが、タケミカヅチこ淡々とした日々の繰り返しに、いとけない少女が彩りを加えたのだ。

 笑っていたかと思えば泣いていて、拗ねたかと思えば菓子ひとつで機嫌を直して。

 加減をして遊び相手になっているというのに、こちらより先に力尽きて、日も高いうちから眠りこけて。

 くるくる変わる鮮やかな毎日は、万華鏡のようだった。


「子供は可愛いよ。……だけど違う。違うんだ」


 そのことをタケミカヅチがようやっと理解したのは、つい最近。

 滑稽な話だ。彼女の祖母より長く生きていて、経験したことのない胸の痛みに、どれだけ苦しんだことか。


「ねぇ、ニニギちゃん……綺麗に、なったね」


 可愛くて可愛くて仕方がなかった。

 そんな少女を目にする度、いまは切なさと、どうしようもない感情が込み上げる。


「――滅茶苦茶にしてやりたい」


 それがすべてだった。けれど愛欲のままに身を任せれば、必ず壊してしまう。

 そうとわかっていたからこそ、タケミカヅチは距離を置いたのだ。なにかいけなかっただろうか。

 己の本質は軍神。荒ぶる神。誰かを愛することは、向いていない。


「では、思し召されるがままになさればよろしい」


 それなのに、ニニギがあっけらかんと言ってのけるのだから、もう。

 これにはタケミカヅチも堪りかねて、佇む少女の手首を引っ掴む。

 ギシリ、と長椅子がふたり分の体重を受け止めて、艶やかな射干玉(ぬばたま)の髪が散らばった。


「……意味、わかってる? 抱きつぶしたいって言ってるの」

「えぇ、そうでしょうとも」

「なんなら、孕ませてもいいんだよ」

「構いません」

「あのねぇ、ニニギちゃん……」

「構いません。だってフツ兄様には、その覚悟がおありなのでしょう」

「――!」


 ……やめてくれ。


 組み敷かれておいて、何故そんなにも、凛と上を向く?


「覚悟ができていないのだとしたら、それは、私のほうです」


 ……違う。


 これは、見せしめだ。自分より先にオモイカネに肌を赦したニニギへの報復。傲慢。正当化されるはずのないもの。

 赦さなくていい。いや、この先ずっと赦さないでくれ。

 そうでなければ、自分は。


「私……意地を張りすぎたみたいです。言わなきゃいけないこと、たくさんあったのに」


 ……やめてくれ。


「我儘言って、ごめんなさい。いっぱい遊んでくれて、ありがとう…………私、フツ兄様のこと、結構、大好きでした」


 嗚呼……


「……ばかだよね……きみ……」


 タケミカヅチがなんとか絞り出した声は、震えを隠せない。

 たとえばこれが夢だとするなら、一生覚めなくていい。こんな幸福は、そうそうない。

 だけれど。はらりと頬を伝うものを、そっと拭う指先は、あたたかい。


「まるで今生の別れみたいにさ……言い逃げは、赦さない」

「フツにい……」

「逃がさない」


 逃げおおせようなど、ニニギがつゆすらも考えていないことは、わかりきっていたのだけれど。


「そばにいて。……そばにいるから」


 それ相応の対価は、払ってもらわねば。


 雨を、天界に降り注ぐべきではないものを、目にしたのだから。



  *  *  *



 これ程まで心地よく夜を明かすことができたのは、幼子に寄り添って眠っていたとき以来だ。

 ふわり、ふわりと浮いたような心地の中、そっとぬくもりが離れる。

 タケミカヅチは追いすがるように目を覚まし、そして、安堵した。

 伸ばした指先に、さらり、射干玉の絹糸がふれる。


「もう行くの」

「流石に朝は、肌寒いですもの」


 ニニギが眉尻を下げて振り返る。琥珀のまなざしは、間近な椅子の背に引っ掛けられた紺青の夜着を捉えていただろうか。


「もっとゆっくりしてなよ」

「きゃ!」


 上体を起こし、いまにも寝台を降りようとしていたニニギは、腕を引かれ、あえなく後戻りを余儀なくされる。


「はー……やわらかい」

「フツ兄様ったら……朝からやめてくださいね」

「んん、どうしようかなぁ」

「もう……」


 不満を呟きながらも抜け出そうとしない辺り、ニニギはよくタケミカヅチという神の性分を理解していた。させられたというほうが正しいのだろうが。


「行くんでしょ。オモイカネさんと、中津国(なかつくに)に」


 ふいの問いかけ。ニニギはタケミカヅチの顔を仰ごうとするも、胸許にきつく抱きしめられていて、叶わない。


「えぇ、参ります。私がゆかなければ、ならないのです」


 ぎゅ、と、腕の束縛が強まった。

 ニニギが反射的に言い募ろうとすれば、先手を打たれる。


「止めないよ」

「…………え」

「止めない。だから、僕も行く」

「あの、フツ兄様」


 不思議なものだ。昨日はあれほど荒ぶっていたのに。

 いまは狼狽するニニギを宥めることができるほど、タケミカヅチの心は凪いでいる。


「僕が先に行く。大国主(オオクニヌシ)との交渉を任せてほしい」

「っ! いけません、それは……!」


 ニニギの血相が変わる。それもそうだ。幾度となく失敗し、アメノワカヒコは、その果てに命を落とした。

 十二分に理解している。だからこそ。


「きみの作る国が見てみたい。だから、きみの道は、僕が作る」


 やわらに響くタケミカヅチの声音が、ニニギの意識をくらりと遠退かせる。

 雨上がりの朝陽は、とても眩しかった。



  *  *  *



「――穂花(ほのか)っ!」


 懐古に至る意識を、引き戻す声があった。


 あれ、と綺羅(きら)は小首をかしげる。

 真知(まち)までとは行かずとも、それなりの術は扱える身。

 人の世との境界として張り巡らせた結界をすり抜ける者が、腕の中の少女のほかにあろうとは。


 無愛想な知恵の神のものではない。桜の神の依代となった青年のものとも違う。

 けれど焦燥を滲ませた草笛の音色には、覚えがあった。やがて視界に映り込む、翠の髪にも。


「あらら、これはこれは」


 わざとらしく言ってのけた綺羅を前に、駆け寄ってきた少年――(べに)は酷く身じろぐ。

 急停止した足取りが、地面に縫いつけられたまま、再び踏み出せそうにない。

 極限まで丸みを帯びた紅玉が、驚愕の色で綺羅を映し出していた。


「やぁ。ちょっと来るのが遅かったね。相手が僕だからよかったけど、減点対象だよ」


 紅へ告げる声音は、言葉とは裏腹にやわらかい。

 膝に抱きかかえた少女の髪を梳きながら、綺羅はそういえば、と思い返す。

 ここでは真知やサクヤと言葉を交わしていたが、この子とは、まだだった。


「……失礼。気配が異なっておりましたので。よもや下界においでとは、知らなんだ」


 しばしの沈黙を経て、ある程度の理解には至ったのだろう。

 背筋を張り、身体の前で両手をそろえた紅は、深々と頭を垂れる。


「この麗しき日和にて、ご挨拶が遅れましたこと、どうかご寛恕くださいますよう――(せんせい)

「はい、よくできました。礼儀正しくていい子だねぇ、チルヒメは」


 綺羅は笑む。まるで、幼い子供を褒めるかのように。


 炎を思わせる緋色の髪。雷を宿した深藍の双眸。

 かの少年こそが、高天原最強の軍神であり、紅の師、タケミカヅチノカミである。

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