*44* 安寧となるもの
――燃える、燃える。なにもかも。
光でもなく、闇でもなく。
灼熱の紅蓮が、産魂まれてはじめて目にしたものだった。
* * *
此処なるは天上界。貴なる神々の住まう高天原。
「お願い? アマテラスちゃんから、僕に? ……はぁ、またスサノヲくんがやらかしたの。やんちゃな弟を持つのも、困りもんだね……」
かぐわしく咲きにおう桃林にて、少年の姿をした天津神が一柱、これ見よがしに肩を竦めてみせた。
右手には桃。着物の裾をたくし上げ、両の素足を清流にあそばせては、心穏やかに憩うている最中と見えた。
それも、ひとときの夢に終わったのだが。
「えーっと、オオゲツヒメさん、だっけ? それはお気の毒としか……あーはいはい。わかったわかった、わかりました。行けばいいんでしょ、まったく……」
みなまで言うなと言外に遮る声音には、自棄の色が混じる。
弾みをつけて立ち上がった拍子に、細かな水飛沫と、緋色の髪が舞い踊った。
悩みの種は、摘んでも摘んでも芽を出す。
頭を抱える知恵の神に、「いつもお疲れさまでーす」とかけていた言葉も、いまとなっては口が裂けても言えない。
明日は我が身とは、一体誰が言い出したのか。
「好きで雷落としたいわけじゃないんだけど……一向に学習しない箱入り坊っちゃんに、伝えといて」
アマテラスの治める高天原において、太陽が落ちることはない。
しかしながら、少年を取り巻く空気に限っては、にわかにその様子を一変させる。
「逆ギレして、うっかり殺しちゃいましただぁ? 調子乗るのも大概にしろよ、若造が」
事前予告をするだけ、ありがたく思ってほしいものである。
厳かに燻る言の葉を聴き届けた小鳥が、ひとつ囀ずり、淡く澄み渡る空の彼方へと飛び去ってゆく。
かの荒神を凌ぎ、鉄拳制裁を下すことが可能であるのは、少年――高天原最強の軍神と謳われるタケミカヅチ以外には、ついぞ存在し得ない。
* * *
「というわけで、泣き喚いて言うことを聞きやしないお子ちゃまは、とりあえずぶっ飛ばしてきましたんで。いまごろ、出雲辺りの地面にでも埋まってるんじゃないかな。でもまぁ、あそこ根の国に近いじゃないですか。お母さんに会いたがってたし、むしろ本望なんじゃないですかね。あー仕事した仕事したー」
今日も今日とて書簡の山に埋もれ、繰り返し嘆息をこぼしていたオモイカネは、嵐のようにやってきた少年による怒濤の報告を、一方的に聞かされていた。
「……茶でも飲むか?」
「お構いなくー」
「そのほうが良さそうだな」
にこにこと頬笑んでいるタケミカヅチから、ひとたび視線を外した窓の向こう側は、轟々と吹き荒ぶ嵐。
止むことのない雷雨が、かの神の帰還と共にやってきたのだ。
武神にしては珍しく、一応は温厚な部類に入るタケミカヅチである。
それを、一体どうすればここまで激怒させるってんだよ、スサノヲのやつ、と甚だ疑問に思いながらも、終わったことを掘り返す無粋はおかさない主義だ。
多くを訊かず、さっさと踵を返す少年を、ただ見送るに留まった。
かくして通常の執務に戻ったオモイカネではあったが、〝それ〟は、程なくして起こる。
「――どういうことですか、オモイカネさんっ!」
開け放たれた扉を反射的に捕捉する。
鼈甲の双眸には少なくない驚愕の色がにじみ、平生より冷静沈着な知恵の神らしからぬ表情をかたち作らせていた。
それもそのはず。淡々と受け答えをし、食ったような態度で接することすらある少年、いましがた退室したばかりのタケミカヅチが、混乱を隠せない様子で執務室へと舞い戻ったのだから。
「どうかしたか」
「どうしたもなにも、扉の前になんか珍妙な生き物が転がってたんですけど!」
珍妙、と復唱したとき、ふと、声を荒らげるタケミカヅチの右の小脇に、なにかが抱えられていることに気づく。
いや、なにかというか、あれは間違えようもなく。
「珍妙で悪かったな。俺の姪だ」
「姪……!?」
「おじさま~」
「お兄さま」
「おにいさま!」
「よしいい子だ。で、どうしたんだ、ニニギ」
「おしごと、まだですか?」
「……あぁ、もう八ツ時か。ちょうどいい、一息つくとするか。ニニギ、こっち来い。茶を淹れてやろうな」
「やった~!」
すとん。とてとて、ぽふり。珍妙な生き物もといニニギが、腕から抜け出し、オモイカネへ駆け寄る。
本人に自覚はないようだが、あの強靭な仏頂面がしまりなく緩む光景に、流石のタケミカヅチも戦慄した。
「姪……オモイカネさんの、姪……ぜんっぜん似てない……」
「どういう意味だコラ」
「だってこれ、ホントあり得ないって……」
予想外の衝撃は、目眩をも引き起こすらしい。
「わぁ! おつかれですか? おにいさんも、おやつ、たべますか?」
ふらつき、壁へもたれかるタケミカヅチ。
ぎょっと飛び跳ねて駆け寄ってきた幼子は、潤む瞳で少年を案じていた。
その純粋な輝きに、タケミカヅチの中の崩れてはいけないなにかが崩壊する。
「超かわいすぎるんですけどぉ~っ!」
「ふぎゅっ!」
「はぁぁ……手足短い、ほっぺふにふに……ねぇきみ、マジでなんなの……かわいいかわいいかわいい……」
「おいタケミカヅチ! ニニギが潰れる、離せ!」
滅多なことでは取り乱さない。そんな神が我を忘れたとき、どうなるのか。答えは簡単。止められない。
無我夢中でニニギを掻き抱くタケミカヅチが、力ずくで引き剥がしにかかったオモイカネの説教を食らうことになるのは、すぐ後の話。
* * *
タケミカヅチは上機嫌だった。かの神を見知った者が、目を疑うほどに。
件の軍神は、今日も勝手知ったる我が家のごとく、オモイカネの邸を闊歩する。
「ニーニーギちゃん、みーっけ」
「きゃあ~!」
「あはは! 見つかっちゃったねぇ。ざーんねん」
物言わぬ土人形のみが行き交う回廊にて、柱の影に小柄な身を忍ばせ、きょろきょろと見当違いの方角を警戒する幼子の、なんといじらしいことだろうか。
気配を消すことは得意中の得意分野とはいえ、得も言われぬ感情が燃え上がり、暴れ回る。
まるで、胸中に龍でも飼っているかのよう。
けれども、力加減を見誤ってはならない。
知恵の神でこそないが、タケミカヅチにも学習能力は充分に備わっていた。
歩み寄る足取りは性急に。包み込む腕は羽根のように。
そうして待ちわびた少女との対面に、歓喜に、全身の震えを抑えられない。
「フツにいさまの、ばかぁ!」
「あれ、言うようになったね。お仕置きをしなきゃいけないのは、この口かな」
「だんこ、きょぜつします! じょせいには、やさしくすべきです! みくびらないでください!」
「難しい言葉知ってるんだねぇ。お勉強したの? えらいねぇ」
「すぐいじわるするぅ! フツにいさまは、おやつぬきです!」
「あはは、ごめんごめん」
きゃいきゃいと短い手足をばたつかせるニニギに、悪びれもなく謝りながら、それでも腕の中から逃がしてはやらない。
豊布都、建布都――様々な名称を持って久しいが、肝心な建御雷の名で呼んではくれない。
このひねくれ具合、オモイカネさんの影響かなぁ、とちょっぴり寂しく思うのは、秘密である。
ただ、純粋なニニギが素直でなくなるのは、自分相手に限ったこと。自分だけなのだ。
そう考えると特別になれたようで、嬉しくもある。
「今日は一段とご機嫌斜めだね。寂しかった?」
「…………」
「今夜は僕のところへおいで。いっぱい遊んで、一緒にご飯を食べて、隣で寝てあげる。大丈夫、僕はそばにいるからね」
答えはない。それが、答えだった。
ちら、と邸の奥、執務室のほうを一瞥したのみで、タケミカヅチはニニギを危うげなく抱え上げた。
胸許に顔を埋める幼子の丸い背を軽く叩きながら、踵を返す。
「どうして、フツにいさまは……そんなに、いじわるで、おやさしいのですか?」
ニニギは顔を上げない。ただ、問うだけだ。
「優しくなんかないよ。ただまぁ……そうだな。きみが、可愛くて可愛くてしょうがないから。ちいさい子は、特別可愛いね」
遊び相手を買って出ているのは、己の傲慢だ。
このところオモイカネの執務が立て続き、なにかを堪えるように虚空を見つめる幼子の傷心に、漬け込んでいるだけ。
「そうですか。こどもはみんな、かわいいんですね」
なにも知らない箱入り娘の、何気ない呟きだった。
けれど、どうしてだろう。なにかを見透かされたような気がするのは。
――子供は、みんな?
胸の中で反芻するも、自問に対する返答を持ち合わせてはいなかった。導き出すことも叶わなかった。
たしかな困惑が、ただただ己の中に在った。
* * *
上等な茶葉や菓子が手に入った。土産には充分な代物だろう。
近頃は稀に見る忙しさで足が遠退いていただけに、久方ぶりの邸へと向かう足取りは軽かった。
あぁそうだ。着物や簪も忘れないようにしなければ。
そうして意気揚々と訪れた邸にて、なにもかもが崩れ落ちる。
青天の霹靂。雷に撃たれたかのよう……などと、仮にも雷を司る神が、情けない。
「ご安心くださいませ、お兄様。私が、お力になりますから……」
愛しの少女は、美しい頬笑みを浮かべて、そこにいた。
しかしながら、それを向けられるのは自分ではない。
しばし思考停止し、にわかな衝撃を受けていた事実に、再度胸がざわめく。
逃げるように身を滑り込ませた柱の影で、漏れ聞こえた会話の断片を掻き集める。
アメノワカヒコが討たれたらしい。ほかでもない、この高天原に反旗を翻した罪を問われて。
特別親しい仲でもなかった。馬鹿なことをする。
聞き分けよく命に従っていれば、平穏に暮らせただろうに。
出る涙もなく、所詮他人事でしかなかった。
けれども、オモイカネはどうだろうか。
かの神を信頼し、故にこそ中津国へ送り出した当人は。
寄り添う男女が、脳裏に焼きついて離れない。
ニニギは美しくなった。だからこそ、着物と簪を見繕ってきたというのに……また一段と、美しくなっていたのだ。点と点が繋がる。
オモイカネのことは嫌いではない。だがいまは無性に、妬ましく思う。
無意識に胸を掻きむしっていて、衣一枚を隔てた向こう側に燻る、仄暗い感情の存在に、そのとき初めて気がついた。
「ははっ……そっかぁ……そうなんだ」
なんと滑稽なのだろう。かつてたどり着けなかった答えを、いまになって導き出すことになろうとは。
可笑しくて可笑しくて、嗤いが止まらなかった。
嘲笑に呼応するかのように、手中でばちりばちりと火花が爆ぜ、華やかな着物や簪をたちまち炭へと変えた。




