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たまゆらの花篝り  作者: はーこ
44/49

*42* 其は泡沫の逢瀬なれや

 ほのは気づいた。それは日常の最中、なんの脈絡もなく、かつ、必然的に。


「お空がきれい……」


 穂花は気づいてしまったのだ。悟りの境地とも言える薄笑いを浮かべ、天を仰いでしまうほどの、己が境遇の鮮烈さに。


 存在が淡くなりかけていたそもそもの原因は、近頃送る1日1日が濃密すぎた反動による。あえて詳細は省くものの、中心人物の名のみ挙げておこう。べに以外に誰がいる。


 紆余曲折あり、人の身に準じる肉体を得たかの神は、張り切って主のお供とやらに臨んだ。登下校や昼食の給仕はもちろんのこと、雑用の代理まで。


 授業に参加していない生徒が、さも当然のごとく廊下を闊歩する様が、何故容認されているのか。

 真知まちの術によるものらしい。本人の口から聞いた。

 加えていま現在の紅は、〝どこかで見たことがあるような気がするけど、特別気にはならない存在〟として認識されるようになっているのだ、とも。「そっかぁ……」と、視線を明後日の方角へ飛ばしたのも、いまは昔。


 注目されたのは初日の騒ぎのみに留まり、面白がって絡んでいた男子も、いまや隣のクラスのカワイコちゃんの話に夢中だ。

 真知の術は、たしかに効力を行き渡らせているらしかった。もう、この学校を乗っ取れるのではないだろうか。


 閑話休題。

 諸々の経緯があり、影同然に付き従っていた紅が、余計にくっついて離れなくなった。最早コアラの子供である。


「もしかして私、プライベートない?」


 自覚は突然だった。雷に撃たれたかのように。

 とたん、恐怖にも似た焦燥が込み上げる。これはゆゆしき事態である。いや、穂花に尽くしたいという紅の心意気はありがたいのだが、年頃の乙女としては複雑な心境でもあり。


 こうして色々色々あって、冒頭の独り言だ。にわかには信じがたいのだが、影もコアラも伴わないひとりきりの状況を生み出すことに、見事成功している。「ちょっとお花摘みに行ってきます」が魔法の言葉だ。気を遣ってか、あおの姿もない。


 屋上からの階段をひとたび下りたなら、そこは談笑する善良な生徒たちの楽園。なんでもないように歩を進めながら、内心幸せを噛みしめる。ありがとう日常、ありがとう普通。

 紅の淹れるお茶は専門店並みに美味しい一級品だが、たまには気負わずオレンジジュースを飲みたい日だってある。少しくらいの寄り道なら構わないだろう。そうして、購買のある1階へと向かう穂花の足取りは、少なからず軽かった。


「……あれ?」


 考え事をしていたのがまずかっただろうか。気づけば、思い描いていた景色とは違う場所へたどり着いていた。

 そよ風の吹く渡り廊下。喧騒とはかけ離れた静かな空間。滅多に購買を利用しなければ棟も違うのだが、これはやってしまったか。通い慣れた校舎で迷子など、悲しすぎるお話である。


 人知れず肩を落とし、きびすを返したところで、鮮やかな色彩が視界をかすめた、ような気がした。

 普段は通路としての認識のみしかない渡り廊下から、視線を外す。そこでかすかな違和感は、たしかな実感へと姿を変えるのだ。


「あれって……雨宮あめみやくん、だよね」


 夕焼けのような緋色の猫っ毛。野ざらしのベンチに腰かける後ろ姿は、ミステリアスで掴み所のない少年のものに間違いない。

 クラスメイトと言えど、所詮は他人。なにをしていようと当人の勝手なのだが、見過ごせない理由が、このときばかりの穂花にはあった。

 脳裏をよぎるのは、朝から空虚だった隣の席。深く考えるまでもなく、歩み出していた。


 ガクン、と不自然に膝の力が抜けたのは、その直後。


「わっと! ……え?」


 すんでのところで踏み留まるも、なにが起こったのか、すぐには理解が追いつかない。

 そろりと足許へ視線をやると、どうにも上履きのまま草を踏みしめていたようだが、つまずいてしまったか? だとすると、物凄く恥ずかしい。軽い咳払いで両頬の熱を誤魔化す。


「――来ないほうがいいよ」


 静かな声音は、名を呼ぶよりも先に発せられた。相変わらず背を向けたままではあるけれど、そこに誰がいるのか、彼はお見通しなのだろう。


「……おはよう、雨宮くん」

「おそよう」

「久しぶり」

「そうかもね」


 簡潔な返答が綺羅きららしい。こうしたやり取りが懐かしくも感じるのは、気のせいではない。


「あの……体調は大丈夫? 最近休みがちだったけど」


 身体の強くないクラスメイトが、連日欠席であることのみを担任から告げられたなら、普通は察するものだ。

 こんなところで、どうしたのかな? 体調が悪いとか? 保健室にも行けなくて、困ってるのかも。

 コミュニケーションこそ上手くはないものの、少なくとも普通ではないクラスメイトに素知らぬふりを決め込めるほど、穂花は無関心ではないし、薄情でもなかった。


「私に、なにかできることはある?」

「いますぐこの場を離れること」


 お節介は承知の上だった。しかしながら、今日に限っては、不思議と引き下がる気になれない。素っ気ないが、冷たく追い払うことはしない。

 そんな綺羅が、こうもあからさまに遠ざけようと語気を強める理由が、気になって。


「……それで、大丈夫?」

「は?」

「わ、私がいなくなることで、雨宮くんが楽になるんだったら、すぐに退散しますので!」


 なんとなくだが。いまの綺羅には、いつもの余裕がないように感じられた。体調が思わしくないときはそうなってしまう。安直な考えだ。

 だから自分がいなくなったところで状況は改善されないだろうと、言外の大口を叩いたのだ。


「……馬鹿じゃないの」


 唸るような低音に一蹴されて、首をすぼめていれば、世話ないのだけれど。畏縮しきった直後に、それは起こった。


「きみって子は……本当に、お馬鹿さん」

「え? ……きゃっ!」


 ぐるりと回る視界、身体が浮いた感覚。わけもわからないうちに、今度は締めつけられるような追い討ちが襲う。


「いまに後悔するよ。僕の言うことを、ちゃんと聞いておけばよかったってさ」


 とっさにきつく瞑っていたまぶたを持ち上げたとき、視界に飛び込むのは鮮やかな緋色。そして、呆ける少女を映し込む瞳だ。

 しかし頭上から綺羅の顔を覗き込む構図になっているのは、何故なのか。答えは至極単純。自分が、綺羅の膝の上に、乗っているから。


「…………えっ? ちょっ、えぇっ!!」

「はーい、暴れない暴れない」


 慌てて飛び退こうとするも、肝心の綺羅がそれをさせない。まるで幼い子供の相手でもしているかのように、たしなめる口調は軽い。

 にも関わらず、身をよじる穂花の腰を絡め取った腕の力は強く、びくともしない。


「忠告はした。耳を貸さなかったのはきみ。いまさら文句なんて言える立場じゃないよね」

「あの……これは一体、なんの苦行で……?」

「なんだと思う?」


 それがわかったら苦労はしない。いっそ叫んでしまいたい衝動に駆られたが、口にするより早く、ぞわり、と戦慄が走る。

 綺羅が、あの綺羅が、にやりと口角を上げ、微笑んでいるのだ。その様は、舌なめずりでもしているようで。目の前にいるのは、自分。


「これでも、我慢してたんだけど。今回は仕方ないよね。そう、タイミングが悪かった」

「な、なんの話……ですか?」

「月のもの、思ったより早く来ちゃったから」

「つき……?」

「月経」

「げっ……!?」

「みたいなもの。あくまでたとえ話ね。僕は男だし。出血とか排卵をするわけじゃない。ただまぁ、似たようなもの。月に一度、体調の不安定な時期が1週間あるってだけ。生きるために必要な生理的現象だから仕方ないとはいえ……陽の気とか、五行の流れとかが全部こんがらがっちゃって、波が引いたり、押し寄せたりしてさ、怠いのなんのって」


 どうしよう、まったくわからない。詳細に語ってくれているはずなのに、頭に内容がとんと入ってこない。

 綺羅の体調不良は、生理的現象? 月経のような現象が、彼にも起こっている? そして、ヨウノキ、ゴギョウノナガレとは、なんぞや。


「……とりあえず、保健室行きます?」


 逃げたと言ってはいけない。具合が悪いなら保健室へ。当然の提案をしたまでだ。適切な処置はサクヤが施してくれるはず。同じ男性だし。間違っても、他力本願だと言ってはいけない。


「ねぇ……まだわからないの? それとも、わかってて焦らしてる?」

「えーと、なにを……近い近い近いです!」


 年頃の女子が男子の膝の上に乗っているだけでも大変な事案であるのに、なにを血迷って顔と顔を近づけなければならないのか。

 これではTPOを弁えずイチャついているカップルと変わらない。念のため断っておく。綺羅とは付き合っていない。一切、だ。


「あのっ、急にどうしたのかな、雨宮くん!」

「僕が豹変したみたいな言い方やめてくれる? これは生理的現象。きみも似たようなことあるでしょ」

「似たようなこと」

「生理前になると性欲が増す」

「あーあーあー! 聞きたくなかったー!」


 聞きたくなかった。ともすれば少女のごとく華奢な綺羅の口から赤裸々な性事情など、切実に聞きたくなかった。

 待ってほしい、これはわりと立派なセクハラでは。ちなみに依然として膝の上で退路を絶たれている。


「雨宮くん、この話はやめましょう。もっと有意義な話題はたくさんあるよ」

「きみさぁ……なんのために、こんなこと言い出したと思ってるの」

「いやいや、私なんかにはサッパリ」

「少なくとも僕は増してる、性欲」

「きーこーえーなーいー!」


 これで綺羅の言わんとすること、己の置かれた状況が理解できないほど、穂花は子供ではなかった。


「雨宮くんっ、お気をたしかに! 私みたいなの相手にしても辛いだけだよ、もっと自分を大切に!」


 仮に穂花の貞操が危機にさらされたとする。そのとき命の危機にさらされるのは、綺羅のほうだ。彼とはまだ友好関係を築いていたい。だからこその説得であったのだが。


「……へぇ? この期に及んで僕の心配? 随分余裕だね」


 にこりと笑う少年に、背筋の悪寒しか感じない。


「――その余裕、崩してあげる」

「ひぃ……っ」


 囁くような宣戦布告は、吐息と共に耳朶へ吹き込まれた。



  *  *  *



「んっ……や……ふぅ……」

「あはは、手足ふにゃふにゃ。おいで。僕に寄りかかっていいよ。……んっ」

「ひゃあっ……!」


 普段は長い射干玉の髪に隠された耳を探り当てられ、あまつさえ好き放題に弄られている。やわやわと感触を楽しむように食んでいたかと思えば、かり、と歯を立てられ、甲高い声を響かせてしまう。


 四肢にまるで力が入らない。弛緩しきった身体は、逃げ出してしまいたい意思に反し、華奢ながらも力強い腕に絡め取られ、綺羅にされるがまま。


「ね、雨宮、くん……もう……やめ、よ?」


 余裕など、最初からあるはずもない。しなだれかかる肩口で、すがるように紺パーカーの裾を握りしめる仕草は、翻弄する少年をぴくりと身じろがせた。


「……癪だなぁ」

「ふ、ぇ……?」


 愉悦に弾んでいたはずの声音は、感情を読み取れないほどに低い。沈黙が流れ、おもむろに、綺羅が密着していた身体に隙間を生む。


「僕が離したら、一体誰のところへ行くつもりなんだろうね。そんな顔してさ」


 しかれども、その先に待ち受けていたのは、解放感とは程遠いもの。夜空に浮かぶふたご月が、爛々と激情をたぎらせていて、ひゅ、と喉が空吹く。

 間違いない。綺羅が欲情している。ほかの誰でもない自分に。ようやっと理解が追いついた穂花はしかし、わからなかった。熱を帯びた視線は、情欲的で、知性的だったからだ。


「逃がしてあげない」


 ブチ、と何かが破れる音に、意識を引き戻される。ひときわ低く唸った綺羅が、己が右手の親指を口に含んでいた。その思いのほか鋭い犬歯が、皮膚を破り、ぷくりと赤い玉を膨らませていて。


「……んぁっ!?」


 それから綺羅の行動に、一切の躊躇はなかった。呆然とする穂花の後頭部を鷲掴み、薄く開いた口に親指をねじ込む。


「やっ……!」

「舐めて」

「んむぅ……ふっ……」


 半狂乱で手足をばたつかせようとする穂花を歯牙にもかけず、たったひと言だけ発した綺羅は、はくはくと力なく開閉する口内へさらに親指を侵入させる。言葉を紡ごうと動く舌を、ぐ、ぐ、と押さえつけられたなら、鉄錆の香りが広がった。


「っふ……や、ら……くる、ひ……」

「いいから」


 己の血をなすりつける、自分本位な行動に違いない。なのに。


「すぐに……あまくなる。僕にも、あまいきみを食べさせて?」


 右の耳許へ寄せた唇は、酷く優しい音色を奏でるのだ。飢えた男が、欲求のままに女を食らうならば、とっくに組み敷かれて貞操を失っていたはず。翻弄はすれども、蹂躙はしない。先ほどからそうだ。綺羅のそれは、まるで――


「そう……いいこだね。力を抜いて。痛くしないよ」


 あまいあまい声音にあてられ、思考回路に靄がかかる。双眸を爛々と輝かせた少年を視認できても、抵抗する気にはなれなかった。何故なら、その光景を目にするのが、不思議と初めてではない感覚を覚えて。


「は……んん」


 気づけば、親指に舌を這わせていた。こちらが折れれば、少なくともこれ以上の意地悪はされないかもしれない。必死だった。穂花の願い通り、舌を圧迫していた動きは止まる。ぎこちないながらも、皮膚の輪郭を舌の腹でなぞった。他人の血液の味なんて、美味しいものではないから。


「んっ……ん、んっ……」


 美味しいものではない、はずなのに。どうして……舌の動きは加速するのか。舐めれば舐めるほど、何故とろりとした液体をあまいと感じてしまうのか。花の蜜を吸うように、夢中で傷口にむしゃぶりついた。


「あぁ、その顔……たまんない。……はぁっ」

「ひゃうッ!」


 綺羅がなにを言ったのかを処理しないうちに、身体を電流が駆け巡る。


「ちょっと見ないうちにさ、そんなに可愛くなっちゃって。誰に仕込まれたの? 金丸かなまる先輩? たか千穂ちほ先生? それとも……」

「あっ、うぅ……」

「おかしいなぁ。僕としてたときより可愛くなってる。おかしい、可笑しいなぁ。可愛がり方が足りなかったのかなぁ」

「ひゃあああっ……!」


 うわ言のような呟きを拾った右耳を、再度刺激が襲う。綺羅が食らいついてきたのだ。食む、なんてものではない。唾液を纏わせた舌先を尖らせ、軟骨をなぞり、鼓膜を犯した。

 すでに親指を引き抜かれた口からは、あられもない悲鳴が上がるしかない。

 じゅぶり、じゅぶ。見せしめのような水音が、こびりついて離れない。


「んっ、はぁっ……ねぇ」

「あっ……あっ」

「ねぇ…………」


 それは、あの少年が紡いでいるとは信じがたいほどの、あまく、掠れた声音で。


「すき、だよ」


 簡潔で、だからこそ飾りようのないひと言が、単純に胸を高鳴らせる。


「だから、ね……おねがい?」


 衣擦れすらもどかしいと、きつくきつく抱きすくめられて。

 まるで恋仲の相手にでもするかのように、熱っぽく唇を重ねてくるなんて、卑怯だ。

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