*40* 絡繰蝋人形
大混乱のまま、屋上へ爆走した昼休み。
そこで一足先に惣菜パンを齧っていたらしい真知は、阿修羅のごとき形相で扉を開け放った穂花と、腕を引っ掴まれ「我が細君は、積極的ですなぁ……」とご満悦な神の姿を認め、察したのだろう。
「あー、俺が説明するわ」
もたれていた手すりから向き直り、挙手の最中このように口を開いたのだった。
「早急に、迅速に、お願いします! なんで紅がこんな格好してるのか!」
「はいはい、順を追って話すから、まずは落ち着け。おい、茶」
「言われずとも、ご用意しておりますとも」
指図は受けないとばかりに、紅はつんとすました様子で、陽当たりのよい場所に手際よくレジャーシートを広げ、弁当を置き、水筒から注ぎたてのあたたかいお茶を、手招きした穂花へにっこりと差し出した。
そのあからさまな対応の差異に、いっそさすがだな感心しつつ、渋る穂花が「はやく、はやくー!」と太陽がごとき笑みを浮かべた蒼に背中を押されて腰を下ろす光景を見つめる。
同時に、説明を求められたということは、自分も関与していた事実を知らされたか、ならば話は早いと、真知は口火を切る。
「穂花を連れ戻しに殴り込みに来た後だったか、高天原から戻ってきて、そこの慇懃無礼小僧に泣きつかれたんだよ。〝わたしも穂花をおそばで守りたいのです~!〟ってな」
「泣きついてはおりませぬ。誤解を招く言い方は慎んで頂きたい」
「ほら、俺もサクヤも、学生や教師としてここにいるだろ? 誓約を受けている中で自分だけ仲間外れにされたみたいで、寂しかったんだと」
「オモイカネ殿、それ以上虚言を申されるのであれば、わたしにも考えがありますぞ」
「なにをどうするつもりなんだか。その姿じゃ、術も使えんだろ」
「くっ……なんと歯痒いことじゃ……!」
「なるほど、ちょっとよくわかんない!」
自分をそばで守りたいのだという、紅の気持ちはわかった。けれどもそれが、何故この状況に結びついたかを理解するのには、あまりに情報が断片的すぎた。
「なんで紅は、〝見えてる〟の?」
真知が関与している以上、彼の術などによるものであることは明らか。ゆえに穂花の問いは、〝どのようにしたのか〟という事の仔細を聞き出すもの。当然だ。紅が人の目にふれることは、これまで一切なかったのだから。
「穂花も知ってる通り、自力で人の目に見える神ってのは、ほんのひと握りだ。それも、俺やおまえみたいな、古株だったりアマテラスの直系に当たる神に限る。生半可な神格しか持ってないんじゃあ、天津神つっても実体化はできん。天津神より下位の国津神なら、言わずもがなだな」
「それはなんとなく。神体のままだと駄目だから、さくは朔馬先生の身体を借りてるんだよね」
不安定な魂の依代として、サクヤが朔馬の肉体を礎にその神気を留めていることは、穂花でさえも知るところだ。
では、こうして紅が実体化できているのは? 魂依代の人間を見つけ出したとでも言うのか。
「こいつの場合はちょっと違う。そもそも、神気に耐えられる人間自体が希少でな。朔馬みたいに血族なら望みはあったんだが、イワナガヒメに子孫はいないからな。闇雲に探してたんじゃ、あと何百年かけても、見つかるかどうかさえわからん」
「ですから、オモイカネ殿にお願いして、わたしの神体の器を作って頂いたのです」
「器を、作った……?」
「俺の邸にいたときのこと、覚えてるか? 穂花の世話を任せてた使用人がいただろ」
「あっ……あの土人形さん!」
みな一様に仮面をつけた、下男や下女たちを思い出す。自立して、雑務や穂花の世話をそつなくこなしていた。話してくれないのが寂しいねとぼやき、土だからな、と返してきた真知の言葉に、どれだけの衝撃を受けたことか。
「土人形の応用だ。さすがに土だと防水性に難があるし、木じゃ風化するしで、色々頭使って、蝋に落ち着いた」
「蝋人形……だからこんなにそっくりなんだね。っていうか、紅本人」
「型取ったり、彫ったり、術で肌の感触をそれっぽくしたり、手間に手間を重ねたんだ。体温だってあるぞ。俺の涙ぐましい努力に感謝してほしいもんだ」
「まちくん、すごい……」
改めて、そばで行儀よく膝を揃えている紅を見やる。
翠の髪も、紅玉の瞳も、少女と見まごう繊細な顔立ちも、見慣れた神のものと寸分違わない。
異なる点があるとすれば、華やかな着物が真知と同じ男子生徒用ブレザーになったこと。そして、平生は顔の右半分を覆う狐面の代わりに、色を違えた右の瞳が、ガーゼ生地の白い眼帯で隠されていたこと。
「お面は、やっぱりつけてないんだね」
「えぇ。この面に限っては人の目にふれませんが、肌身離さず持ち歩いております。面なくして、神体へ戻ることは叶いませぬから」
「お面は、見えない……どういうこと……?」
紅がおもむろに手を伸ばす先は、紺青のカーディガン。その右ポケットから取り出された小振りの面こそ、件の狐だ。紅玉のまなざしが落とされたそこへ、穂花も釘付けとなる。
「蝋人形の身体が、人目にふれる現世のモノ。対して、狐の面が、こいつの神気を宿した隠世のモノだ。面をつける、つまり再び神気の刺激を受けることで、元の姿に戻れる仕組みになってる。言わばスイッチみたいなもんか」
「へぇ、すごいね!」
「そうでもないぞ。生物でもなんでもない蝋人形に、魂を突っ込んだんだ。この姿だと人目にふれることは可能だが、できることにかなりの制約がある」
「制約……お人形だから、ご飯が食べられない、とか?」
「あぁ。その点については、元々こいつが食事を必要としない神だし、重要視はしていない。特に不便なのは、神気を扱えないことか。お得意の癇癪を起こしたところで、ご自慢の炎をぶっ放すなんてことができない」
「心外ですな。神気ばかりに頼るわたしではございません。なんのために、血反吐を吐く思いで武術を心得たとお思いか。たとえ人の身以下に成り下がったとて、我が偉大なる師に手解き頂いた剣の腕は、微塵も鈍ってはおりませぬ」
「おまえの剣がどれだけ優れてようが、現代日本の銃刀法って法律の壁には、太刀打ちできねぇから」
真知の言葉はにべもないが、真理である。
当然ながら未だ神としての意識の強い紅であるから、己の心の平穏のためにも、ごく一般的な人間の感覚を学んでもらわなければならない。そうだな、まずは、おまわりさんのご厄介にならない程度に。
「成程、承知致しました。鞘で殴るのはよろしいと」
「駄目だっつってんだろ脳筋」
道のりは、果てしなく困難のようだが。
「えーっと、なんとなくわかってきたところで悪いんだけど、そもそもの質問いいかな?」
「勿論ですとも。なんなりと」
「紅がここまでする理由が、わかんないなぁ……って。術が使えないのもそうだし、話聞いてると、神様のときより、圧倒的にできないことのほうが多いみたいだから……不便じゃない?」
そろりと右手を挙手して問う穂花に、顔を見合わせる紅と真知。三拍の後、二者二様に破顔した。
「えっ、なに? いまの笑い所? 真面目な質問だったのに!」
「いや、穂花らしいと思ってな」
「えぇ、えぇ。わたしの問題であるのに、まるでご自分のことのようにお考えなさって、ほんにお優しい御方です」
つい先程まで口喧嘩をしていたかと思えば、互いに心得たように同意を示して。こうして紅と真知が頬笑みかけてくるときは、決まって居たたまれなくなる。
「〝そばでお守りしたい〟というのは、実に綺麗な表現です」
「綺麗……?」
「然り。言葉が届かぬのは、術を行使できぬこと以上に歯痒い。この身を得て、わたしは人と目を合わせられるようになった。言葉を交わせるようになった。これで気兼ねなく、貴女様がわたしのものであると、声高に主張できるというもの」
「へっ!?」
「気に入った人の子を神隠ししてしまうように、神とは本来、高慢で強欲なものなのです。人目にふれてこそ成せるのであれば、そこに至るまでの不利益など、取るに足りませぬ」
「え……えぇと、つまり」
「〝朔馬の弟〟であり、〝幼なじみのひとりである高千穂 紅〟が、貴女様を取り巻く一切の緩衝材となりましょう。わたしにお任せくださいまし」
「紅……!」
「ふふ……覚悟致せ、人間共。うぬらの独擅場はしまいじゃ。これより我が細君に仇なす不届き者は、わたしが葬ってくれようぞ……はははは!」
「その一言がなければ、最高だった」
どこの悪者よ、とツッコミたくなる紅の高ら笑いに、穂花は新たなる悟りを開く。言ってることはともかく、やってることはありがたい。手綱を握れば、大丈夫。たぶん。そうやって自分を落ち着かせる。
そのうちに、紅が手際よく食事の支度をととのえ、弁当箱の蓋を開けては、「なにをお召し上がりになりますか?」と小首を傾げた。いや、あの、まずはお箸……と喉のそこまで出かかったところで、やめた。不気味なほどにこにこと笑みを浮かべた紅が、そう簡単に右手の箸を手離すなど、考えられないためだ。
色々と悟った末に「……卵焼きください」と絞り出す。甲斐甲斐しい神が、手ずから口に運んでくれた絶妙なひとくちサイズの切れ端は、苦々しい口内で、悔しいかな、ふんわり、ほんのり、甘く香るのだった。




