*39* きみは花丸
あの一件があって、真知の言葉は念頭に置くよう努めている。とはいえ、自慢じゃないが穂花はあまりコミュニケーション能力が高くはない。
上手いあしらい方なんて知らなければ、突然素っ気なくなるのもどうかという思いもあり、結局は現状維持におさまっている。
もし、先日のことがきっかけで、変化したことがあるとするならば。
「ねぇ」
「……はっ、はい!」
「さっきからチラチラ見てるけど、暇なの?」
「あっいや、そんなつもりは……雨宮くんの邪魔になることは、したくないし……」
「邪魔ではないけど。お昼は?」
「ちょっと、人を待ってて」
「ふぅん」
……変化したことが、あるとするならば。
「それじゃあ、おしゃべりしようか。お迎えが来るまで」
綺羅のほうから踏み込んでくることが多くなったこと、だろうか。皮肉なことに、こちらが距離を置きたい、いまになって。
不躾に見つめていた自覚はないのだが、こうなってしまっては、言い訳でしかない。内心泣きたくてたまらない穂花へ、本を閉じた綺羅は、頬杖をついて視線を寄越す。
ここだけの話だが、こう見えてパニックに陥っていた。綺羅の言うおしゃべりの準備は万端だ。そもそも、「さぁ、やるぞ!」と意気込んで始めるものなのか、という疑問はあるが。
話題の提供は一体誰が。ふたりしかいない。綺羅がこちらを見ている。……私? 私がお送りしなきゃいけないの? せめて協賛を……と、穂花の脳内は思考のスクランブル交差点で事故が多発している。収拾がつかない。
「えぇ~っと、その……」
「うん」
「雨宮くん、いつも読書してるけど、なに読んでるのかなぁ……って」
交通整理の最中に返答をするのは、なかなかに骨が折れるものだ。なんとか、当たり障りのない話題を絞り出すことができた。
「なに、ねぇ。歴史ものとか」
「歴史もの……好きなの?」
「まぁ、読んでると、いつの時代もみんななにやってんだろって、うんざりできるよ」
「あはは……」
駄目だ。無理だ。綺羅の相手は時期尚早、難易度が高すぎた。普通の斜め上もいいところの発言に、曖昧な笑みしか返せない。
対する綺羅はなにを思ったか。一度手元の本へ視線を落とし、口を開く。
「突然現れた偉そうなやつが、ここは自分の国だから大人しく寄越せ、そう言ってきたら、きみはどうする?」
「え……?」
もしかして、綺羅が読んでいる本に関連する話だろうか。歴史ものとはいえ、いつの時代、どこの国のことかは、わからないが。
「ちなみに、きみはその国を治める偉いひとの子供、そうだな、お姫さまだとしようか。自分の国が危ういとき、きみならどうする?」
試されているのだろう。なんとなく窺い知れたけれども、ごく普通の一般庶民として育った穂花には、ありきたりな方法しか思いつかない。
「まずは、話し合う、かな」
「話し合う?」
「そのひとにも、事情があるんだろうし……和解の道があるなら、そっちを選びたいです」
「無理だね。その話し合いで長年膠着が続いたからこそ、相手は国境を越えて乗り込んできた。武力行使もほのめかしている。きみの兄である王子は、そいつとの〝話し合い〟に恐れをなして逃げ出した。国の命運が懸かっているとき、きみはどうするの」
「私は……それでも話し合いを、します。暴力は、よくないと思うから」
畳みかけられながらも、やっと口にした。
反撃できるだけの戦力も、度胸も、おそらくないだろうから、だけれど。
「そう。……残念だ」
品定めするかのような藍の双眸。やがて聞こえた言葉は、単調だった。
「結局その国はね、勇ましい2番目の王子が相手に一騎討ちを挑んだけど、こてんぱんにやられたよ。当然国も奪われた。惨めだよね。国のために闘って、負けて、追われて」
「…………」
「そんな顔しないでよ。たかが昔話でしょ。よくある権力争いだよ、こんなの」
綺羅の言う通り、平和主義を掲げた日本国という温室で育った穂花には、現実味のない話なのかもしれない。
「こうして果敢な王子の国は、力ある隣国の王子に奪われたのでした。めでたしめでたし。理想論じゃ生きてけないって教訓をありがとう、なんてね」
言葉が紡がれるごとに、首が重くなる。
現実を、突きつけられた気がした。
「――だまって」
窓の閉ざされて教室で、ふわり、風がそよぐ。次いで、背後に揺らめく影の気配。
「ねーさまを、イジメないで」
振り返る必要はなかった。椅子でうなだれる穂花の首へ腕を回し、綺羅を睨みつける常磐色の双眸と、天色の長髪を、ガラス越しに認めることができたから。
「蒼……」
ふいに、いつかのことが蘇った。しかし穂花を慕ってやまない妖は、燻っているであろう妖気をその身に留めたまま。
綺羅を射殺さんばかりのまなざしだけれども、蒼は、我慢していた。
胸にじんわりとぬくもりが灯る。自分を庇う細い腕に、そっと手を添えた。
見えるわけがない。聞こえるわけがない。そんな綺羅の藍の双眸は、何故だかこのとき、穂花から少しばかり外されたような気がした。
「雨宮くん、訊いてもいいかな」
酸素を吸って、吐き出した声は、思ったより震えなかった。
はたと、藍の双眸に捉えられる。煌々と浮かぶ月の虹彩は、すべてを見透かしたよう。
「どうぞ?」
「隣国の王子さまは、2番目の王子さまを、どうしたの?」
「言ったでしょ。反撃もできないくらい、こてんぱんにしたんだ」
「その後」
「後……?」
初めて、藍と月が揺らぐ。
そこに言及されるとは、夢にも思わなかったのだろうか。
「力の差を思い知らせて、満身創痍になるまで追い詰めて、人もろくに住んでいないような辺境に追いやった」
「命は、奪わなかったんだよね」
「誇り高い王子なら、国を守れなかった罪悪感に苛まれたことだろうよ。地獄に落とされたほうが、いっそ楽だったかもね。そういうのを見越して、あえて生かしたのかもしれない。ホントいい性格してるよね、隣国の王子さまは」
すらすらと紡ぐ綺羅が、反論の余地をなくそうとしているのはわかった。
だけれど、わからないのだ。
「その国は、どんな国になったの?」
傲慢な王子の悪政に翻弄されて、おしまい。そんなよくある悲劇なら、穂花も納得できた。
「別に……取り立ててよくも、悪くもないよ。それなりの平穏が続いたかと思えば、災害や疫病に見舞われる。時代が変われば、権力者も変わる。その度にいくさが起こった。疑心暗鬼になって、他国との交流を断絶したときもある」
幸か不幸かで言えば、圧倒的に不幸な出来事のほうが多かっただろう。
そういうものだ。時代の転機は。
言葉にしながら、綺羅も、その瞳に、諦観ではない色を灯し始める。
「いくさや、災害や、疫病に家族を失って……それでも、図太く生にすがって……独自の文化を花開かせた。そんなこともあったなって過去のことにしてしまえるくらい、のんきで、おめでたくて、平和な国になったかも……ね」
最後の言葉を聞き届けてなお、穂花にはわからなかった。
「雨宮くんは、隣国の王子さまが、あんまり好きじゃないのかな」
「へぇ。そう感じた理由を訊こうか」
「偉そうなやつとか、いい性格してるとか、言葉に棘があるっていうか。まるで、悪者みたい」
「そりゃあ、他国の領土を奪ったわけだし」
「それも、2番目の王子さまとの一騎討ちで勝ったから、だよね?」
正々堂々と受けて、必要以上に傷つけなかった。
問答無用で攻め入ることもできただろうに、国境を越えたとしても、はじめに選んだ手段は話し合いだった。
それほど思慮深い隣国の王子が、私欲のために国を侵略しようとしていたとは、到底思えなかった。
国のことだって、国民に貧しい暮らしを強いていたわけじゃない。むしろ、豊かにしようと願ってのことだったのでは。
「その国のことが、好きだったんだね」
自分はお姫さまじゃない。王子さまたちの心境なんて、推し量ろうとすることのほうが、おこがましいのかもしれないけれど。
「2番目の王子さまは、国のこと、どう思ってたんだろう」
「……さぁね。罪悪感で卑屈になって、それっきり森の奥から出てこようとしなかったから」
「そっか……ちょっと、寂しいね。見せたかったなぁ……新しい景色を。私が隣国の王子さまだったら、そう思うよ」
あくまでこれは、なにも知らない小娘の、理想に理想を散りばめた戯れ言。だからこれから言う言葉を、聞き流してくれてもいい。
「悪者じゃないよ、惨めじゃないよ。国をよりよくしようとした隣国の王子さまも、必死に守ろうと闘った2番目の王子さまも」
その場を支配するのは、談笑を遠くに追いやった沈黙。針の落ちる音さえ拾えるだろう静けさの中で、藍の双眸は、穂花へと一心に注がれていた。ガラス越しの、常磐色の瞳も。
「言うよね。まぁ……きみらしい、かな。理想論だけど、悪くない答えだよ」
ふ……と微かにこぼれた声。
錯覚でなければ、ほころぶような頬笑みを浮かべているのは、目前にいる綺羅その人だろうか。
「さて、僕はこの辺でお邪魔させてもらおうかな。もっと景気のいい本でも借りてくるよ」
いちいち穂花に知らせる必要はないのだが、綺羅はそう断って、本を手に席を立つ。
「あぁ、そうそう」
それから、思い出したようにブレザーの懐を探っては、穂花へと差し出した。
「あげる」
「わっ! あ、ありがとう?」
「ご褒美だからね」
思わず両手で受け取ってしまったものだから、続く綺羅の行動に、とっさの反応ができなかった。
「大変よくできました」
頭上を往復する手のひら。もしかして、頭を撫でられたのだろうか。よく聞く決まり文句も相まって、さながら、先生に花丸評価をもらう生徒の気分だった。
マイペースにも程があるのでは。そんな苦し紛れを言ったって、やけにご満悦な彼には、おそらく届かないだろう。
言いたいだけ言って、やりたいだけやって、綺羅は教室を後にしてしまった。
改めて、お椀をかたち作る自分の手を見下ろせば、キャンディがころり。いちご、オレンジ、ぶどう味の、みっつも。
「雨宮くんって……結構、太っ腹?」
そう考えたら、そうとしか思えなくなってくるから不思議だ。幼い子供が好きな彼のことだ、飴玉のひとつやふたつ、懐に忍ばせておいても、なんらおかしくはない。
「飴。雨宮くんだけに。……ごめん蒼、聞かなかったことにして」
自分で言って寒気がした。蒼がぎゅうと抱きついて依然離れないのは、突如として襲った大寒波のせいだろう。
「……ううん」
即座に謝ったものの、穂花の首筋へ鼻先を埋めたままの蒼は、かぶりを振る。
いつもの甘えん坊、にしては、くぐもった声音がしおらしい。
「蒼? どうかした?」
「んーとね、ねーさま」
「うん」
「ありがと……だいすき」
「もー、改まってどうしちゃったの、この子は。私も大好きだよー!」
「えへへ!」
正面から抱きしめてあげられない分、ぎゅむと強まる抱擁に、手を握り返して応える。校内で紅や蒼たちと会話するときは、努めて声を潜めるものだけれど、今日くらいは、なにやら独り言を呟いている変な人認定をされても、まぁいいかな、と思えた。
「あ、そだ! あのねあのね、もうすぐぬしさまがくるよ」
「おっ、待ってました! もうお腹ペコペコでさ~」
時折、紅が登下校の供を弟や使い魔へ譲るようになったのは、いつからだったか。
以前まで影のごとく後をついて回られていた分、どことなく物寂しくはあったものの、いや、いままでが頼りすぎていたのだ、自分が学校に行っている間、少しでも自由な時間を取れていたらいいと、納得してもいた。最近は部屋にこもって、なにやら打ち込んでいることがあるようだし。
「今日のメニューはなにかなぁ」
いつも通り屋上へ向かうべくして席を立った穂花には、予想などつくはずもない。
いつもなら忘れずにお弁当を持たせてくれる紅が、何故今日に限っては、直接届けると言い出したのかなど。
「なぁなぁ、誰か探してんのー?」
「お構いなく」
「まぁそう遠慮すんなって!」
「おわかりにならないか。貴殿には関係のないことだ、と申し上げている」
「き・で・ん! 一体いつの時代の人間かっての、ぷくくっ!」
「……人の子とは、ほんに怖いもの知らずよな……」
いままさに足を向けようとした教室の出入り口にて、人影あり。昼休みではよくある光景だ。男子がつるんでふざけていたり、女子が輪になっておしゃべりしていたり。
ドアを塞ぐのはやめてほしいんだけどな……と内心思いつつも、小心者の穂花は、もうひとつある、教室前方の出入り口のほうへと向かうことにした。
「それにしてもちっせーな。女子みたいな顔してるし、何組?」
向かうことにしたまでは、よかったのだけれども。
「――無礼者っ!」
目についてしまったものは、仕方がないというか。
「我が身は只おひとりの為のもの。邪心抱きてふれなば、天誅もやむなしと思え!」
お調子者で有名な男子生徒の手を叩き払い、金切り声をあげる面影に、思考が停止した。
見覚えがある。ありすぎる。あってはならないものにも関わらず。
「……いや、待って。落ち着くのよ私。気のせい、気のせい……」
意味もなく咳払いをこぼし、そそくさとこの場を後にしようとするも。
「あ! ぬしさま~!」
「あぁ、蒼か」
連れだっていた蒼が、うさぎよろしく飛び跳ねては、ブンブンと右手を振る。こっちこっち! と持ち前の天真爛漫を発揮して。
「これはこれは、そちらにおいででしたか」
先程の威嚇はいずこへ。目前の人影など最早眼中になしとでもいうかのように、ころりと口調を変えた〝彼〟が、次いでふにゃりと破顔する。
「おや、どちらへ行かれるのです、穂花?」
人違いであってほしかった。
しかし、ピンポイントで名前を呼ばれてしまっては、否定しようがない。
「べっ……べべべ……っ!?」
「えぇ、貴女様の紅にございます。さぁ、おいでくださいませ。昼餉と致しましょう」
弁当らしき包みを抱えた渦中の人物が、一直線に歩み寄ってきては、空いたほうの手で穂花の手を取った。
「マジか、まさかの……」
「葦原さん…」
男子生徒だけでない、クラスメイトの大半が自分たちに注目し、複雑な面持ちで声を潜め合う。
どうして。なんで。穂花の脳内は混乱真っ只中だ。
「あお、ひなたぼっこしたいー」と腕を引く蒼については、誰ひとり言及しない。当然だ。妖なのだから。
同様に、人の目には見えない。見えないはずではなかったか、〝彼〟は。
「みなさん、どうかしましたか? やけに静かですけれど……」
そんなときだった。白衣の美青年が、ひょっこりと顔を覗かせたのは。普段は騒がしい教室の異様な静けさを、不思議に思ってのことだろう。さすがである。その英断に、いまは感謝しかない。
「高千穂先生!」
通りすがりの、唯一にして最大の救世主に、視線で訴えかける。
――助けて。超、助けて。
穂花の訴えを敏感に捉えた救世主……サクヤは、ちょうど振り返った〝彼〟に気づき、わずかながら菫の双眸を見開く。
しかし、穂花程の衝撃は受けなかったようで、腕の中の資料だか掲示物だかを、苦笑混じりに抱え直すのだった。
「あに――紅、さん。葦原さんも、ご飯はまだなのですよね。お昼休みが終わらないうちに、行ってらっしゃい」
「……あぁ、わたしとしたことが。ふむ、この場合は……はい、わかりました。お気遣いありがとうございます、朔馬兄様!」
「朔馬兄様!?」
「そういう設定ですので」
思わず聞き返してしまった穂花に、やたらまぶしい笑みを寄越した眉目秀麗な少年は、疑うまでもない、紅に相違なかった。
何故か見慣れた紺青の着物を脱ぎ捨て、男子生徒用のブレザーを、身にまとってはいたが。




