*38* 静と動の境界
たとえば、思慮深い真知やサクヤ。
たとえば、主のためにどんな行動でも起こす紅や蒼。
生きとし生けるもの、静または動いずれかの性質を持って生まれ落つのではないかと、穂花はひそかな考えを抱いていた。
そうとすれば、自分は前者、真知やサクヤと同じ静の人間、といったところか。厳密には神であっても、いま現在の穂花をかたち作る自我は、なんの変哲もない、16の女子高生のそれでしかなかった。
かくも突飛な思考に至った経緯へ言及すれば、それほど遠くない休憩時間の始まりまで遡る。主な登場人物、雨宮 綺羅。以上。
口数は多くない。無闇に群れることも好まない。授業以外のほとんどの時間を読書で済ませている少年は、今日も今日とて、談笑するクラスメイトより手持ちの文庫本とよろしくやっている。
身体がそんなに強くないと聞いた。だから登校しない日もあったのだと。物静かな、静の人間。穂花はそう信じて疑わなかった。
しかしながら、穂花のひそかな持論を根本からひっくり返した出来事がある。先日、偶然に綺羅を見かけた街でのことだ。
転ぶ男児を助けた光景が、やけに脳裏から離れない。読書に熱中していただろう状況で、死角から襲いかかったサッカーボールを叩き落とした上での、あの身のこなし。にわか仕込みの付け焼き刃では到底説明できない。そう、あれは〝見えていた〟者の動きだった。
そこで確信した。綺羅は運動神経に優れている。それも、物凄く。あと10回サッカーボールに見舞われたところで、10回とも回避してしまえるような余裕が、あのときの綺羅からは不思議と感ぜられた。男児を助ける行為に、躊躇がなかったことも。
静とも動ともつかない、否、静であり動である少年は、やはり雲のように掴みどころがない。
「やっぱりわかんないよ……まちくん」
途方に暮れた穂花は、敗北宣言を吐き出した机へと雪崩れ込み、青年の言葉を思い起こすことしか、できずにいた。
* * *
「甘やかしていいものなら、僕は、とっくに――……」
吸い込まれてしまうのではと、漠然によぎった。
太陽よりも近かったのだ。目前に広がる藍の夜空が。そこに浮かぶ月色の虹彩が。
頑なに自分を映したがらなかった双眸が、何故いまになって熱を向けてくるのか。にわかな衝撃が、呼吸の方法すら失念させる。
「穂花!」
ふわふわと漂う危うい意識を、聞き慣れた声音が瞬間的に引き戻した。
はっと首を巡らせたなら、わざわざ思考するまでもない。人ごみの向こうから駆け寄ってくるのは、飴色の髪の青年に違いはないのだから。
「まーたおまえは、すぐ戻るっつっといてフラフラと、風船か」
「あたたた、もげる! 腕もげちゃう!」
「俺がそんなヘマするか」
強引に右腕を引っ掴まれた抗議も、たったのひと言で一蹴されてしまう。真知が怒る理由なら、わかる。
「ったく、結界っつっても万全じゃねぇんだぞ。俺の目の届かない場所は、極力避けろって言ったよな」
「う……」
「蒼見てりゃわかると思うがな、妖の類いってのは、神気が大好物だ。あそこまでしつけのなった妖のほうが珍しい。下手すりゃその辺の魑魅魍魎に喰われかねんぞ。おまえはまだ上手く神気を扱えないんだから、俺のそばを離れるんじゃない」
「ご、ごめんなさい……」
無理を言ってひとりにしてもらいはしたが、さすがに真知の許容範囲を逸したようだ。反論の余地もない。
肩をすぼめ、素直に謝罪を口にすれば、嘆息が頭上にこぼされた。同時に、痛いくらいに掴まれていた手首の束縛感が、するりとほどける。
「わかったならいい。それで穂花は、なんでまたこんなとこをほっつき歩いてたんだ?」
ぽん、と頭に手のひらを乗せてくる真知は、いつもの声音だ。よかった。許してくれたみたいだ。
「えっと、偶然雨宮くんに会って……あ」
「雨宮?」
安堵するままに口を開き、はたと気づく。雨宮とは誰なのか。当然ながら、学年の違う真知がそれを知るはずもない。……のだが。
「こんにちは、せーんぱい?」
「…………な」
次なる声を上げたのは、驚くべきことに、それまで蚊帳の外だった綺羅。
呼ばれた真知が、ピシリと硬直する。ついでに穂花も。にっこりと頬笑んだ少年の、やけに鼻にかかった語調に、再度強襲を受けて。
「は? おまえ……まさか、タ――」
「いやぁそれにしてもお久しぶりですね、お元気そうでなによりです、えぇ」
「いっ……!?」
真知の語尾を遮り、手を差し出した綺羅は、信じられないほど満面の笑みだ。しかし何故だろう、友好の証であるはずの握手なのに、真知の頬が引きつっているのは。それに気のせいでなければ、握りしめられた手が、ミシミシと軋んでいるような気も。
「……こんの馬鹿力が……」
「はい?」
「別に……それよか、なんでおまえがここにいやがる」
「そんな厭そうな顔しないでくださいよ。天気がいいから散歩にでも出たら、偶然クラスメイトに会っただけです。ねぇ葦原さん?」
「へっ? あっ……そ、そうだね!」
突然話を振られ、呆けていた穂花は、半ば反射的に首を縦に振ってしまった。
「クラス、メイト……なるほど……はぁ」
訝しげな視線を隠しもせず、にこにこな綺羅、冷や汗だらだらな穂花を交互に見やった真知は、なにやら得心したかと思えば、深い深いため息を吐き出した。あれは知っている。アマテラスが面倒を起こしたときにするものと、よく似ているのではなかろうか。
こほん、とひとつ咳払いをした真知は、綺羅へと向き直る。
「穂花が面倒をかけたな」
「いえいえ、面倒だなんて、そんな」
「すまんがお目付け役は足りてるんでね。お引き取り願おうか。そんで今後一切関わらないでもらえると助かる。こいつの精神衛生上、大変よろしくないからな」
「ちょ、まちくん……!」
「あはは、随分と信用がないですね、僕。それじゃあ、精神衛生上よろしければいいってわけだ」
慌ててたしなめるも、真知は流暢に拒絶の意を並べ立てる。そしてその相手である綺羅は、気を害するどころか、さらに笑みを深めては、さらりとのたもうてみせた。
「善処します。彼女次第ですけど。まぁとにかく、一切関わらないのは無理ですね。クラスメイトだし、隣の席だし」
「喧嘩なら買うぜ?」
「やめてくださいよ、せんぱい。わざわざ自分から痛い目を見に来るなんて」
まずい。これはさすがの真知も、まずいのでは。
いつになく饒舌な綺羅に対する驚き以前に、見る間に眉間へ皺を刻む真知の、大海原よりも広い心(自称)がいつ爆発するか、気が気でない。
「……言ってろ」
ところが、それも杞憂に終わる。真知は掴みかかるわけでもなく、そのひと言で終わらせたのだ。納得はしていないようだが。
まちくん、すごい。紅なら激おこだったよ。さすが。ありがとう。円満にこの場をおさめてくれた真知の配慮へ、穂花は声なき拍手喝采を送った。
しばし訪れる沈黙。無言の真知が言わんとすることを、悟ったのだろうか。ややあって、綺羅は笑みを潜め、穂花を一瞥する。
「お邪魔しました。――じゃあ、また明日ね、葦原さん」
「……あ、う、うん!」
なにがどうなったのか、終始わけがわからなかった。穂花の理解が追いつくより早く、手をひらりと振った綺羅の背が、雑踏へと消えゆく。
「……びっくりした……雨宮くんと知り合いだったんだね」
「まぁ、な。それはそうと穂花、できるだけあいつとは関わるなよ」
「どうして? 雨宮くん、変わってるけど優しいよ?」
ちいさい子とか好きみたいだし、と続けようとしたが、叶わない。
「いいから。おまえも命は惜しいだろ」
「命が危ぶまれるほどの状況なの……?」
言葉のあやだとは思うけれども、如何せん詰め寄る真知が真顔すぎた。
「おまえの想像以上にとんでもないやつだぞ、あいつは。……気をつけろよ」
加えて有無を言わせぬ気迫で言い聞かせられては、穂花に残された選択肢は、はいかイエスしかないも同然だったのだ。




