*37* きらめく藍の空
ひとしきり胸の内を吐露すれば、見違えたように気持ちが軽くなった。
安堵した次にやってくるのは、気恥ずかしさ。ろくに真知の顔を見れず、すぐに戻るからとだけ言い残して最寄りの公衆トイレへと駆け込むこと、しばらく。
「ちょっとはマシになったかな……」
泣き腫らした目許をハンカチで拭い、蛇口のセンサーから手を離す。
落ち着くまで自分が隠してやると、やけに乗り気な真知だったが、どこぞのバカップルよろしく人目もはばからず抱き合って、あまつさえよしよしと宥められるだなんて、穂花には難易度が高すぎた。
冷やした目許の赤みも、だいぶ薄れてきたことだ。あとは待ち人のもとへ戻るのみ。
歩み出そうとしたまさにその先に、さらり、さらり。鮮やかな緋色。
歩を進める度に揺れる猫っ毛の持ち主は、顔を見ずとも思い当たった。
「雨宮くん……?」
穂花の呟きが綺羅に届くことはない。首を前に倒し、ひどく緩慢に歩む後ろ姿が周囲に一切の意識を向けていないことは、一目瞭然であった。
なにやら集中しているようだが、視線を落とした手許になにがあるのかは、残念ながら背に隠れて見えず。
「……って、なにジロジロ見てるの、私!」
綺羅だってごく普通の一般市民なのだから、公園にも来るだろう。
思いがけない遭遇に驚き、何故だろうかと素朴な疑問を抱きはしても、不躾に話しかける勇気など持ち合わせていない。そもそも、ひと言ふた言会話した程度で、馴れ馴れしすぎやしないか。
そこまで思い至って、コミュニケーション能力の低さを痛感し肩を落とす。折角真知に励まされたのだ、落ち込んでばかりもいられない。気を取り直して歩み出そうとするも。
「まってぇ~!」
「きゃはは~! こっちこっち……わぁ!」
――まったく予測不可能な展開を引き連れてやってくる。それが、子供である。
具体的に説明するなら、元気にサッカーボールを蹴り回していた男児のひとりが、なにもないところでつまずいた。その拍子に地面を離れたサッカーボールは、勢いよく宙を舞い。
「雨宮くんっ、あぶな――!」
考えるより先に声が出た。
しかし、言葉は最後まで紡がれない。
ぱしり、と乾いた音。
なにが起こったのか、わからなくて。
サッカーボールが地面を弾む音で我に返ったとき、すべては決着していた。
「元気なもんだね」
綺羅の姿は、地面のそば近くにあった。片膝をつき、男児を抱き留めるかたちで。
サッカーボールは、完璧な死角から綺羅の横っ面を直撃しようとしていたはず。
それを、まさか。叩き払うだけに留まらず、転倒寸前の男児を抱き留めてみせるなどと。
「えっと……ごめんなさい。ちゃんと、まえ、みてなくて」
「はい、素直に謝るのはいいことです」
助けられた本人も、追いついてきたもうひとりの男児も、呆けたように綺羅を見上げている。
穂花に至っては、混乱の極みだった。
だって、あの、表情をピクリとも動かさず、顔すら合わせてくれなかった綺羅が、頬笑みを浮かべているのだ。
男児の頭を撫でる手は優しく、声音は幼稚園の先生のようにやわらかい。
さながら、顔が同じ別人でも見ているかのような気分だった。
「あっ……! おにいちゃん、それ……!」
綺羅の肩の向こうを見やった男児が、見る間に顔色を失くしてゆく。潤む視線の先にあるのは、一冊の本のように見受けられたが。
「あぁ。平気」
男児とは対照的に、綺羅はさして気にした様子もなかった。投げ出された文庫サイズのそれを拾い、簡単に砂を払うと、ショルダーバッグの中へしまい込む。
「折り目とかついてないし、大丈夫でしょ」
「でも、よごれちゃった」
「お兄さんが大丈夫って言ってるんだから、大丈夫なんです」
「あぅ」
「あははっ! 大福みたいだね。ふにふに」
男児の両頬をむにゅっと摘まんだ綺羅が、高らかに笑い声を漏らす。これには夢でも見ているのかと、いよいよ本気で考えさせられてしまう。
「今度は気をつけて、また元気に遊んでおいで」
「ありがとう、おにいちゃん!」
「どういたしまして」
ダメ押しとばかりに男児の頭をもうひと撫でし、駆けてゆくちいさな影たちを見送る横顔の穏やかさは、三度見したとて相も変わらず。
こうして衝撃的な光景との遭遇は、一から十まで、衝撃的なまま幕を下ろしたのだった。
「で、僕になんか用でもあるの?」
「……へっ?」
「きみに訊いてるんだけど。葦原さん」
綺羅の後頭部には、第3の目なるものがあるのかもしれない。そしてその視力はとてつもなく良い。
だからこそサッカーボールを避けることができたし、ほかにも名も知らぬ一般市民が多数行き交うこの場所において、自分だけを目敏く捉えることができたのだ、と突拍子もない思考をする程度には、混乱していた。
「えーっと……用というか、こんなところで雨宮くんに会うなんて、偶然だなぁって思って」
「あぁ、そう」
会話終了。呆気のない幕引きであった。
落胆と同時に、彼はたしかに雨宮 綺羅なのだと、納得してもいた。
先程の男児に対する穏やかさは見る影もなく、いつものように、合わさることのない視線。
言いたいことがあるのならば、はっきり言えと、クラスで女子との一件があった日に告げられたではないか。
もしかすれば、綺羅は曖昧な人間が好かないのかもしれない。だとするなら、自分は見事その分類に当てはまる。
第一印象からして最悪評価の自分に、返事は寄越してくれるのだから、素っ気ないと悲しむ以前に、むしろ喜ぶべきではないのだろうか。
――ありがとう、こんな私に構ってくれて。ごめんなさい、手の施しようのない根暗ぼっちで。
「あっ、もうこんな時間! 待ち合わせしてるから私行かなきゃ。また学校でね、雨宮くん!」
打ちひしがれた心中を悟られてはなるまいと、力みすぎたようだ。反動で口を衝いた声色こそ高いが、持ち上げた頬の筋肉はおそらく引きつっている。
不自然極まりない、大根芝居にも程がある。が、居たたまれないこの場から逃れられるのであれば、知ったことか。三十六計、逃げるに如かず。
最終的に逃げに走る自分が虚しくて、ちょっぴり目尻に滲むものがあった。だが、そそくさと踵を返したから、バレてはいないはずだ。
「――ねぇ、ちょっと」
バレてはいないはず、だったのだが。
後ろを振り返りきる寸前に視界を掠めた、物凄い勢いでこちらを射抜く、少年の姿は。
「どういうことなの」
なにがどうしたのだと、こちらが問いたいのに、ぐんっ、と腕を引く力は、思いのほか力強くて。
問答無用で振り向かされた至近距離に、夜空が広がった。深い藍色。爛々と月が輝く、宝石の如き双眸が、そこに。
「泣いてるの」
「な、いてな……」
「嘘。腫れてる」
ずいと詰め寄る顔が、近い。近すぎる。まともに視線を返してくれなかった綺羅が、どうしてこんな、吐息がふれる程近くにいるのか。
「泣かされたの」
「っ……」
そりゃあ一朝一夕で赤らむものでもなし、先だっての発言が原因でないとすれば、綺羅がそう問うのもわからないではなかった。
けれど、泣き腫らした目尻をなぞる指先に狼狽えてしまい……一瞬の間が、なにを思わせたのだろう。
「――誰に泣かされた」
明らかに、綺羅を取り巻く空気が一変した。
「分を弁えぬ身の程知らずは誰だ。言え」
知らない。
地底に響くような低音も。容赦なく畳み掛ける高圧的な口調も。
目前にいる彼が誰なのか、知らない。
だけれども、緋色の猫っ毛が、月を宿した夜空の瞳が、その面影を、雨宮 綺羅のそれと結びつける。
違うのだと、断じて泣かされたわけではないのだと訴えたくとも、口が動かない。
いまこの身を襲うものが殺気だとするなら、電流のようだ、と鈍い思考回路で理解した。びりびりと肌を駆け巡り、四肢の末端まで麻痺させてしまうような。
自分に向けられた感情ではないのに、穂花の肩はひとりでに怯え出す。おそろしい、と。
「ッ……」
穂花の震えを目の当たりにした刹那、覆い被さった影が飛び退く。突然の解放感。そろりと視線をやった先に、己の手のひらを凝視する綺羅の姿を認めた。それから「はぁああ……」とやたら長いため息が吐き出されるのは、すぐだった。
「あっぶな……うっかりいつもの癖が」
「……えっと?」
「なんでも」
なにやら独り言を口走ったのち、簡潔に結んだ綺羅は、普段のすました態度を取り戻している。
「色々面倒だから、理由はあえてスルーしとくけど、葦原さんさ」
「は、はい!」
「あんまほっつき歩かないほうがいいと思うよ。特にそういう顔では」
「そういう……?」
「あーはい、やっぱり無自覚ね。そういう、しおらしく落ち込んでるとこ。女の泣き顔って、分別のない野郎共の格好の餌だから。食われたいなら話は別だけど」
「食われたい!? ないないない! そんな願望微塵もありませんっ!」
「だったら早いとこ帰りなよ。それか、後学のためにあえて僕がやってあげよっか、送り狼」
「後学ってなに? 雨宮くんは私になにを学ばせようとしてるの!?」
いつになく饒舌ゆえ、からかわれているのかと思ったりもしたが、肝心の綺羅は真顔だ。いつも通りの、雲のような掴みにくさ。これには冗談なのか本気なのか、量りかねてしまう。
「なにって、危機感」
「あの、これでも人並みにはありますけど……っていうか、私が万が一ドジしても、雨宮くんにはなんのメリットもデメリットもないんじゃ?」
「さてね」
「でしょでしょ! ……えっ?」
てっきり「そうだね」と簡潔な返事を食らうと踏んでいた穂花だけに、その返しは予想外だった。
否定しない。つまり、メリットないしはデメリットがあるということ。では穂花に危機感を覚えさせることは、綺羅にとってメリットであるのか、それとも、デメリットであるのか。残念ながら、そこまではわからないけれど。
「……雨宮くんって、いい人なんだね」
「なんでそんな結論に至るわけ」
「女の子なんだから気をつけろって、紳士の考え方だと思うのですが」
「……お気楽なもんだね」
ふいと顔を逸らされて、はたと気づく。
綺羅がそれまで、向かい合って話を聞いてくれていたことに。
泣き腫らしたあとに気づいてくれたり、暗い夜道でもないのに、帰りを心配してくれたり。素っ気ない言動から綺羅の真意を取り出してみれば、その実、穂花を気にかけるものがほとんどだった。
嫌われてはいないのかな、と思うだけで、驚くくらいに心が軽くなる。
「変わらないね、きみ」
「うん……?」
ふいの呟きは、そよ風に吹かれる。
変わらない、だなんて、まるで、変わってゆけるほど昔から、自分を見守ってきたような言い方をして――
「甘やかしていいものなら、僕は、とっくに――……」
緋色の髪をしばし風に躍らせた少年は、おもむろに向き直る。
真っ直ぐに見つめられて、藍色の瞳に宿る光が、どこか懐かしい温度を持ち始めたような、そんな気がして。
「穂花!」
吸い込まれてしまいそうなひとときから、聞き慣れた呼び声が、穂花を引き戻した。




