*2* 艶色の朝
四季は巡り、十数年の時が流れる。
「……も、わぎも、吾妹」
この日も平穏な朝を迎える――はずだった。
「もう朝じゃ。学舎に遅れてもよいのか?」
まどろみの中、布団のかたわらで草笛の音色が耳をくすぐる。
勿論よくはない。よくはないとわかっているけれど、
「ぅう~……いま、おき……れない~……」
伸びをした傍から、睡魔に抗えず布団へ逆戻りと相成る。
「成程、職務放棄か。つくづく困ったものよ」
呆れたようで満更でもなさげな声が、頭上より吹き下ろす。まだ清明でない意識の中、揺らぐ影にぼんやりとまぶたを押し上げたところ、
「では、此方も遠慮なくゆかせてもらうぞ。我が細君……?」
清涼な朝に相応しくない艶声で、穂花は覚醒した。
弾かれたように寝返りを打つが、視界には一向に木造りの天井が映り込まない。一面を覆う色は――翠。
「漸くお目覚めか。お早う」
「え……あ、ちょ……っ!」
太陽のごとき笑顔を向けられるが、横たわった身体には違和感が這う。気のせいではない。
「ちょっと、なにして……!」
「ご覧の通り。可憐な花を愛でておるだけじゃ」
「こらっ、どこさわって……やめなさい、紅っ!」
名を喚ばれ、一度は休まる手であるが、夜着の衿元を乱していたそれは、あろうことか布越しに穂花の腰をなぞった。
「ぎゃっ!?」
うら若き乙女らしからぬ奇声を上げた直後、羞恥の最中に可笑しげな笑いが鼓膜を震わせる。
「ふむ……もう少し色気のある声を出して頂きたいのだが?」
ねだるように首をかたむけられ、翠の髪が鎖骨を掠める。「ひッ……!」と抑えきれなかった悲鳴を、耳聡い彼の神が聴きこぼすはずもない。
「嗚呼、良い顔だ……お望み通り、枕を交わしましょうぞ」
いかにも上品な言い回しであるが、オブラートに包まれた真意を汲み取れぬほど、穂花も無知ではない。
「朝っぱらからハレンチなぁああ!!」
「はは、そう焦るな。わたしは逃げも隠れもせん。ゆるりと、夫婦の契りを交わそうではないか……のう、我が細君……?」
「ぎぃいいやぁあああ!!」
乙女の矜持などあったものではない。
がむしゃらに拳を突き出して抵抗するも、跳ね起こした上体は満面の笑みとともに肩を押され、もといた場所へ沈み込む。
ばたつく脚に脚が絡み、両手首は布団に縫いとめられてしまう。
見上げるしかない先で蠱惑的な紅蓮の瞳に射抜かれ、ひやりと冷汗が背筋を伝った。
「我が愛しの君は夢散歩を続けられたいご様子。しからば時にわたしを伴われるのも、一興であろう?」
「いえ、すごく学校に行きたいです。今日の授業はなにかなぁ!」
「ふふ……我が細君は、ほんにいじらしいお方じゃ」
「私がいつきみの奥さんになったのか教えてもらいたいもんだねぇ紅さん!」
畳みかける穂花に、朝っぱらからいかがわしい発言を繰り返していた神――紅は意味深長な頬笑みのみを返し、束縛を解いた。
「朝餉の用意がととのっているぞ。そなたも身支度を済ませるように」
「普通に起こしてください……」
「ん? 着替えを手伝ってほしいとな。仕方ないのう……」
「起きます着替えますだから出てって私の部屋から!!」
羞恥に赤く、恐怖に青くめまぐるしく顔色を変えながら、部屋の外へ追いやろうとぐいぐい背を押す穂花に、紅はからころと心底愉快げな笑みを響かせた。
「では、いま一度だけ待とう。次に遅れたなら、その身体で赦しを乞うてもらうゆえ――よろしいな?」
まったくもってよろしくない。けれどそんな反論が許される空気でもない。
虎視眈々と獲物を狙う獰猛な紅蓮のまなざしを置き土産に、紅は退室した。
「……あと3分!」
息つく間もなく、穂花は夜着を脱ぎ捨てるやいなや箪笥へ飛びかかった。
すべては、己が純潔を守るため。