*20* 花よ咲け
彼の二柱を足止めせよ。命を奪ってはならぬ。
誓約の後、紅は使い魔である蒼に言い付けたのだという。
真知とサクヤを遠ざけた蒼は、見事主の期待に応えてみせたのだ。
一夜の出来事がにわかには信じ難い。が、天真爛漫な蒼が狂暴な妖としての性を持ち合わせていることは、真知に剣を抜かせた事実が証明している。
「ねーさまは、あおがキライになっちゃった……?」
サクヤの説教を受け、穂花に問いかける硝子の声音は不安げであった。
いまにも雨の降り出しそうな天色に、責め立てる気など起きるはずもない。
「嫌わないよ。自分がケガしても、蒼はまちくんやさくを傷つけたりしなかったでしょ?」
「だって、ぬしさまの言いつけだったから……」
「蒼のそういう純粋で一生懸命なところ、私好きだよ」
「……ふぇっ、あおもすき! ねーさまだいすき~!」
「わっ!?」
感極まった蒼は、穂花を熱く抱擁するだけにとどまらない。頬の鱗を擦り寄せられ、ちろり、ちろり。慣れない感触にしばし呆けた穂花は、3拍遅れて舐められたことに気づく。
存外長い蛇のような舌は、目にも鮮やかな血色。それで、さながらはしゃいだ犬が飼い主にするかのごとく、穂花の頬を舐めているのだ。
人の姿をとった蒼は穂花と同じ年ごろ。華奢だが身体は男子のそれで、逃げる術がなければされるがままであるしかない。
状況が状況ながら羞恥を憶えないのは、蒼の幼い言動に感化された親愛が勝った為か。
「ふふ……蒼、くすぐったい」
「ねーさま、あったかいね。やわらかくて……あまくて、おいしい」
「いやぁそれほどでも……うん?」
うっかり相づちを打ちそうになったが、なにやら衝撃的な単語を発されなかっただろうか。
「これ蒼、穂花の神気をつまみ食いなど、はしたないぞ。腹を空かせているのならわたしに申せ」
「ごめんなさい! あおもうペコペコ~
「えっ……えっ?」
「蒼は兄上の神気を取り込むことで、命を繋いできたのですよ」
すかさずサクヤの助け船がある。
そういえば紅が「蒼は世間一般的な食事を必要としない」と言っていた。なにがなにやらわからないが、どうやら命を繋ぐ為に〝食べられていた〟らしい。
「ぬしさま、あおがんばった! ごほうびちょうだい!」
「わかっておる。急くな、急くな」
やれやれ、と肩をすくめつつも、紅は畳の上で居ずまいを正す。
「蒼に〝食事〟をさせて参ります。……面を外します。わたしの神気にあてられてはなりませぬから、穂花はこちらでお待ちを」
なぜ紅の神気にふれてはいけないのか。愛する相手であるのに。
甚だ疑問に思えど、声にはできない。
ひそめられた草笛の音色、真剣な面持ちを前に、なにか思うことがあっての言葉とはかり知った為。
「うん、わかった。さくとお話してるね」
では……穂花を頼んだぞ、サクヤ
「承知いたしました。どうぞ、お任せを」
穂花、次いでサクヤを見やった紅は、ふわりと紅玉をほころばせる。
そうして蒼を連れ立ち、まぶしい陽光の中庭へと消えていった。
* * *
静かな居間は、仄かな桜の香りに包まれる。
これがサクヤの神気なのだと理解に至るほどには、神としての本質を取り戻せているのだろうか。
「身体は、なんともないの?」
サクヤは本来の姿を維持する為に、わずかな時間であっても神気を消耗する。
真知の言葉が胸につかえていた穂花は、たまらず問うた。
「えぇ、おかげさまで。此度の魂依代とは特別相性がよろしいようで、存外早く神気も安定して参りました」
「たまよりしろ……?」
「高千穂 朔馬という青年のことです。彼と私は、元々異なる存在でございまして」
「えっと……つまり」
「別人だった、と申し上げましたら、おわかりになるでしょうか」
朔馬とサクヤが別人だった。その事実は理解できる。しかし、それが意味することは想像もつかない。
首をひねる穂花を前に、自嘲気味な笑みがもれる。
「私の肉体はもうございません」
「……え」
「すでに死しているのです。しかしながら、生命を司る私は死者を統べる女王イザナミ様に疎まれており、黄泉へゆくことも叶いません。魂のみのまま、依り処となる肉体を見つけては死に、また見つけては死に……ということを、何千年と繰り返してきました」
「いまのさくは、魂だけの存在……? 高千穂先生は、さくに身体を貸してるってこと……?」
「はい。魂依代は、私の神気に耐え得る肉体である必要がございます。高千穂家は、ニニギ様と生前の私との間に生まれた子の一族……つまり朔馬は、私共の末裔なのです。血族であるからこそ神気も馴染みやすく、とりわけ朔馬はその才に恵まれておりました」
サクヤの話す通りならば、ひとつ気にかかることがある。
「高千穂先生自身が、身体を貸すことを承諾してるんだよね?」
サクヤのことだ、無理を強いることはしないだろう。
両者の間には合意があった。ほぼ確信しながら問えば、サクヤは静かにうなずく。
「実は、朔馬は生まれつき身体が弱く、若くして死する運命にありました。私の魂依代となることで生命を得、私も肉体を得る……私たちは互いになくてはならない存在なのです」
「そうなんだ……高千穂先生は、いまどこに?」
「……私が憑いたとき、かなり衰弱しておりまして、朔馬の意識は未だ眠っております。私の神気と完全に馴染み、安定すれば、やがて目醒めるはず。とても優しい青年です。穂花にも早く紹介して差し上げたい。朔馬もまた、貴女様の夫となることを喜ぶでしょう」
「あ……そっか。そうだよね」
サクヤは自分の伴侶。朔馬とサクヤが運命共同体ならば、朔馬も夫となる。
考えてみれば至極当然のことながら、人間として生きてきた時間の長い穂花にとっては、どこか夢物語のように感じられる。
「ねぇ、さく」
「はい」
「ニニギとさくは夫婦だった……それを知った上で、私は……紅と身体を重ねたの。あなたは、こんな私を軽蔑する……?」
こわごわと問う穂花に、サクヤは静かに、穏やかにかぶりを振る。
「いいえ。天孫のなさることは、すべてが是です。夫をご所望なら、何十人でも何百人でも、どうぞお好きなだけ」
「いやっ、それはさすがに無理ですよ?」
「ふふ、冗談です。穂花は人としての生活が長いですから、不誠実に思われることでしょう。ですが実際、神の中には多くの妻をめとり、百を越える子を成した者もございます」
「ひゃっ、百!?」
「えぇ。ですからあくまでそれは可能、ということをお伝えしたかったのですが……正直、私としても思うところがあります。やはり、愛しい方には私だけを見て頂きたいですから……そう願うほどには、私も男であるというわけですね」
「うぅ……神様の感覚って色々すごい」
「無理して合わされる必要はありません。穂花は穂花の思うようになされませ。私は一切咎めませんし、急かしませんし、幾らでもお付き合い致します」
「……優しすぎだよさく~! ありがと~!」
愛情の塊のような言葉を立て続けにかけられては、もう我慢ならない。
感極まった穂花は、自ら甘いの香りの中へ飛び込む。
桜色の袖越しに抱きしめる腕は、予想より力強かった。しかと抱かれ、優しく後ろ髪を梳かれる。
「お礼を言うのは私のほうです。ありがとう、穂花」
「私、なにかしてあげられたかなぁ?」
「兄上の御心を、救ってくださったではありませんか。苦悩される様を傍近くで眼にしておきながら、私は散るばかりで、なんのお力にもなって差し上げられませんでした……」
しばし言葉を咀嚼した穂花は、ややあってわずかに身体を離し、物憂げな神と見つめ合う。
「さくは頑張ってたよ。紅もちゃんとわかってくれてる」
「そう仰っていただけますと、嬉しいです。穂花のおかげで、いまの兄上は、穏やかなそよ風のようです。かつてのお優しい兄上……必ずや幸せを見つけてくださると願い続けた年月は、無駄ではなかったのですね」
「きっとそうだよ。だからさくも、自分の幸せについて考えてあげて?」
「私の……」
繰り返した拍子に、ふわりと桜が香る。
女人のように美麗なかんばせをわずかに伏せたサクヤは、しばしの沈黙の後、鈍く音をつむぐ。
「私がまだ満たされていないとすれば……このすきまを埋めてくださるのは、貴女様のみです」
「……うん」
静かに相づちを打つ。穂花に促され、サクヤは続ける。
「私は貴女様の夫でございましたが……厳密には、ニニギ様と契りを交わしたのみ。いまの貴女様を、穂花という少女を、私はいただきたい」
「さく……」
「……貴女様にふれたい。誓約に乗じる形となり、申し訳ないのですが……おねがいです。今宵は、私を侍らせてくださいまし。貴女様を……抱かせてください」
「ッ……!」
羞恥という言葉は温すぎる。
身体の芯から燃え盛る熱は、まだ女になりきれない少女の、未熟な証だ。
「恥じらっておいでなのですか? ふふ……かわいらしい」
「わ、笑い事じゃないから!」
「嬉しくもなります。かつて一夜を共にしたときは、私が先導されてばかりでしたから……」
「えっ……ニニギって、その……しょ、処女じゃなかった……とかじゃ、ない、よね……?」
自ら訊いておきながらすこぶる後悔をした。
穴があったら入りたいどころか埋めてほしくてたまらない穂花に、サクヤはふわりと頬笑む。
「ニニギ様は、とても落ち着いた方でしたから」
「すみません……落ち着きがなくて」
「申し上げましたでしょう? 私は一切咎めません。私が抱きたいのは穂花なのです。普段は頼りないやもしれませんが……閨の中くらいは、主導権をいただきますからね……?」
「ちょ、ちょっと待……」
「待ては聞けません。それが男の矜持というものです」
そろりと後ずされば、ずいとよりいっそう距離を縮められる。
逃げることこそ自滅への道と理解したころには、もう手遅れであった。
「……ひゃっ! なにしてるのさく!?」
ワンピースの裾に、サクヤが手をかけたのだ。純白の布が、するするとたくし上げられてゆく。
「どうかお静かに。あまり暴れられては、お召し物が乱れてしまいます。これ以上貴女様の素肌を目の当たりにしては、自制できる自信がありません」
珍しく口早に紡がれた言葉のみで、余裕のないことは容易にはかり知れる。
口をつぐむ穂花に満足したか、サクヤは表情を和らげ、あらわになった素足に唇を寄せる。
「……これが、私の花です」
熱っぽい吐息と共に、右脚の甲へ口付けられる。
あそこはたしか、青い蕾の在った場所……
「必ずや咲かせてみせましょう。我が愛しき細君――」
「んっ……!」
……口付けられた場所が熱い。
それ以上に、心臓が燃えているようだった。




