知坂 平理~rideau noir~
街路灯の無い田舎の道が、霞がかった満月の光でうっすらと白く見えていた。
俺は隣で少し不機嫌そうな瑞希の横顔を見て申し訳ないなと思った。
ついさっき、あれから啓子とどんなやり取りがあったかを聞いたのだが、
冷めた笑いを浮かべて”何も無かったわよ”と一言言った切り黙ってしまった。
これから一緒に飲むって時に馬鹿な事を聞いたもんだ。
「 なんやお前ら暗いなぁ…これから久しぶりの飲み会じゃんか 」
運転席で酒焼けした声で、同級生の幸恵が俺の方をきつい目で覗いて来る。
「 ああ、悪いなぁ幸恵さぁ…ちょっと女房の事で揉めてるんだよ 」
「 啓子さんかぁ?でも、今寝たきりだし意識も無いんだろぉ 」
「 うん、まあそうなんだが… 」
「 あのさぁ、啓子さんのことに関しちゃあ、
あんたよりよっぽど瑞希の方が面倒見てるじゃない。
それで揉めるって変じゃないのぉ? まあ、あんたが多分悪いから謝んなさいよ 」
謝んなさいって言葉は凄い迫力だった。
幸恵は中学時代は手の付けられなかった不良で、問題も多かったし頭も悪く不登校だった。
それが瑞希に出会って生活態度も変わり勉強も教えてもらって
一緒の高校に進学して地元の短大まで進学することが出来て
瑞希には言葉に出さないが相当な恩義を感じているから結構強い口調だった。
俺が悪いというのも、
高校時代に瑞希とトラブルになったときの原因はほぼ俺だったので
幸恵の頭にインプットされているのだ。
まあ、でも丁度良かった。
素直に謝るタイミングが出来たからな…
「 悪かったよ瑞希…折角誘ってもらったのに気が利かなくて 」
俺は頭をしっかり下げて謝った。
「 何の事?ああ、啓子さんの事かぁ…んじゃあさぁ、今日の飲み代は健二持ちね 」
ぼそりと窓の外を見たまま瑞希が呟いた。
まあ、ここで否定的な言葉を反したら前の席の幸恵も含めて
空気が最悪になるので仕方なく…飲み代ぐらい持ってやることにした。
でも、何の事か…
「 ああ、そうだなぁ先生の分はきついけど…それぐらいなら 」
自腹だけど、一応自由業で接待費で落とせるからなあ…
こちらをバックミラー越しに睨んでいる幸恵に指で四角を書くと
”あいよ”って少し可笑しそうに返事をしてくれた。
俺の言葉を聞いて瑞希は急に薔薇の様な笑顔を浮かべると俺の肩を手で叩いた。
「 そう?んじゃあ宜しくね。
あんた啓子さんの事で私が不機嫌だとでも思ったの?別に気になんかしていませんて 」
意外な言葉にきょとんとしていると
「 不機嫌だったわけじゃないの、お金の心配よただ単に。
誘った手前お金は私持ちって事じゃない、幸恵の店だっていってもさ 」
「 ヒラリー先生だろ?飲もうかって言ったの なんでお前持ち? 」
「 ああ、あんた馬鹿? 誘おうがどうしようが、お勘定の時にあの人がいるわけないじゃん。
さんざん高い酒飲んでいつの間にか消えるって有名でしょ 」
う…と俺は思った。
でも、それが分かっていても何故か断ることは出来ないし
この町のあの人の飲み友達は喜んであの人には奢るんだよなぁ…
むしろまた誘ってくれないかなぁって心待ちにするような不思議な人だから。
「 それに、先生には学校出てから結構相談に乗ってもらってるし
いろんな所にも人脈があって大概の事は解決してもらってるから頭上がんないんだよねぇ
普段は言いくるめてうちの先生とか連れてくからいいんだけどねぇ 」
何だよ、いつもはスポンサー在りで飲んでんのか
それで今日はこいつは奢りの心配か…いいじゃんか医者の給料ってかなりいいだろう?
とも思ったが、こいつは仕事以外に趣味で医療研究をしていて
高価な試薬や書籍にその殆どが消えているからなぁ…この馬鹿は。
「 ああ、健二さぁ…先生からうちにも電話があってさ高い酒を仕入れさせられたんで
その分は持ってくれよなぁ。
友達だから特別に席料は取らんし、突き出しはサービスしてやるけど 」
幸恵のありがたい言葉を聞いて苦笑いした。
席料なんて一人頭1000円で突き出し500円じゃんお前の所。
あの蟒蛇の先生と、ザルの瑞希の飲み代はシャレにならんからなぁ…
それに俺の奢りなら幸恵も遠慮なく飲むだろうし…
俺は少しばかり暗くなったが、それより密かに久しぶりに合う先生の事を思った。
あの何とも言えない変わった先生は俺や高校の全男子の憧れだったからなぁ…
「 よう、久しぶりやなぁ健二ちゃん 」
幸恵の店の扉を開けると、大きくもない店なので直ぐに気が付いたのか
カウンターに座っている女性から声がかかった。
ヒラリー先生だった。
久しぶりに会う先生は高校の時とあまり変わらない…50前なのに。
いや流石に少しお肉ついて立派だったプロポーションに陰りは出ているし、
目尻に烏の足跡が見えて時間という悪魔に肉体的にはすこし蝕まれてはいるが、
オーラというか雰囲気が昔と変わらず押し込んでくるような魅力のある笑顔は
初めて会った時と何も変わらなかった。
「 けええ、先生若いわ…びっくり 」
「 あほ褒めてもなんも出んぞ、もう50近い婆にお世辞言ってもしょうがないやろ?
まあ、あと5歳若けりゃ相手したってもいいけどな健二ちゃん 」
先生はそう言いながら苦笑いして…ロックの酒を舐めてウインクしてくる。
勿論、冗談だろうけど悪い気はしなかった。
それに、先生の言う通り歳は確かに取ったかもしれないが、
それ以上に、経験を積んだ女性の色気が凄まじく迂闊にもドキドキしてしまった。
「 よう、3か月ぶりか健二。電話で聞いたぞお前の奢りだってなぁ…
ありがとさんな、今日は貸きりにしたから俺も飲むけどさ 」
カウンターの店主つまり幸恵の旦那の幸次郎(こいつとも同級生だった)が
そう言うと、にやにや笑いながら右手で瓶を持ち左手で先生のグラスを指さした。
”マッカラン12年 ”か…頭痛くなるわ
キープで9000円やろお前の店だと、口開けでもう半分無いなぁ…
「 どうや先生変わらんやろ…あたいは月一で見るから呆れるだけやけど 」
幸恵がそう言いながら俺の肩を後ろから掴んで顎を乗せる。
結構柔らかい胸の感触に少しドキッとするけど特に何も感じない…
こいつとは昔…ゴホゴホ
「 あ~、いいの旦那さんが見てるわよ 」
瑞希の言葉に幸恵は笑いながら答えた。
「 いいのいいの、瑞希と健二の送り迎えを頼んだら二つ返事で承知したのに
先生が早く来たらお前行けだもん…このぐらいいいじゃない 」
「 ほうか?幸次郎…嬉しいなぁ 」
ヒラリー先生はそう言うと幸次郎の頭を撫でて笑った。
先生は中南米の出身で、母親がメスティーソ(インディオとスペイン人のハーフ)で
父親がロシア人という血筋って聞いている…真偽は分からない。
子供の頃に帰化してるから日本人だからどうでもいいけど。
名前だって知坂平理って名前だ。
ただ、帰化前がヒラリーって名前だからヒラリー先生ってのが通称って形だ。
大体、肌は少し小麦色で
目は少し暗めの碧眼で、目鼻も口もやや大きめの派手な顔立ちで美人。
それに身長が180とありはするが高く胸もお尻もかなりのもので
バランスがいいので巨人のようには見えないが、
今座っているありがちな椅子がかなり小さく見えるぐらいの巨体には違いない。
とてもヒラリって日本語の当て字の様な名前で読む方がおかしな感じがする。
で、その巨体先生から見れば165センチの幸次郎など子供の様にしか見えないので
まるで子供の頭を撫でる様な風にしか見えなかった。
まあ、先生自体元教え子なんてそんな位置でしかないだろう…俺を含めてさ。
( 本当は昔から先生にベタ惚れなのに可哀想だよねぇ… )
耳元で幸恵がそう呟いたが、目は笑っていなかった。
( しょうがないよ、縁ってそんなもんだし )
俺はそこまで言って少し苦い気持ちになった。
遥か遠き高校時代の瑞希に俺、幸恵と幸次郎、先生との青春の日々を思ってだ。
あの時の思いがみんな叶えば今とは違う人生になっていたんだろうと…
「 はは、先生相変わらずだねぇ 」
少し寂しそうに笑う幸次郎が悲しく見えた。
幸次郎の自慢のマホガニーのテーブルに酒と肴が所狭しと並んで
ようやく本題の飲み会となった。
しばらくぶりの俺は、定期的に飲む瑞希たちにとってはいい酒の肴だ。
それに、先生の酒のチョイスはかなり良く美味しいし
腐ってもプロの幸次郎が、憧れの先生に出すツマミが手を抜くわけもなく美味しい…
それから耳が痛くなるほど下手な瑞希のカラオケを聞いたり、
遥か昔を思い出しながら話の花を咲かせて時間が過ぎていく。
で、先生の顔がほんのり赤くなる頃(開始から2時間も後)に
少し落ち着いて来たので、瑞希の肩を叩いて先生が声をかけた。
「 で、その変わったとかいう啓子さんの写真を見せてもらおうかい 」
「 ああ、そうでした。つい…楽しかったんで忘れてたわ 」
瑞希がそう言うと、何故か俺の方を見て寂しげに笑って封筒を取り出して
先生に渡した。
先生は、一言小さく呟いた…
「 で、どんなミスしたんだろう? 」
意味が分からないが確かにそう言って、渡された封筒を開けて啓子の写真を取り出した。
知坂平理は、封筒を自分の胸の前に置いて小さく封筒を開け
写真の画像面が自分側を向いているのを確かめてから、すっと自分の目の前まで引き上げた。
こちらを見つめているかつての教え子に分からない様に気を付けながら…
で、写真を見た瞬間に平理は小さくした舌打ちをして頬の肉が上がったが、
その変化は写真の大きさで教え子たちには見えなかった。
その上で、素早く無言で口を動かしてからテーブルの上にその写真を置いた。
「 はん?何ですかこの写真は別にどこも変わっていないじゃないですか。
まあ、長い事入院して意識不明だからやつれてはいますけどね。 」
その写真を食い入るように瑞希と健二が見て愕然としていた。
健二は背中に冷たいものを感じるほど驚いていた。
”そんな馬鹿な…写真どころか本人とさっき会ったばかりなんだぞ ”
目の前で見も知らない姿の啓子としゃべった記憶が頭に浮かんだ。
幸恵と幸次郎の方は事前にその説明を受けていないのか、その二人を不思議に思いながらも
「 へえ、啓子ちゃん目が覚めたのかぁ…良かったじゃんか 」
幸次郎はその場の空気が重いのを察して、視線を逸らして天井に頭を向ける。
「 あやねちゃんもこれで…ってか何でこんな大事な事黙っていたんだよ
それとさ、いつ目が覚めたのよぉ? 」
幸恵が興奮して健二の方を問い詰める。
「 い…いや、醒めたのは今朝早くらしい…瑞希の話だとなぁ 」
健二は混乱して瑞希の方を見るが、瑞希の方がもっと混乱している様だった。
口は呆然と開いたままで穴が開くほど写真を見ている。
でも、それが物理的にそこにある以上、それが事実だと言っても信じてもらえない。
「 そ…そうだ。瑞希が言うにはまだ、意識は混濁して記憶のとっちらかしや
精神的にも肉体的にも普通の状態では無いので、
ある程度、会っても違和感がない程度には回復させないといけないから内緒って事にさぁ 」
「 でも、先生には… 」
しどろもどろになったところで先生が助け舟を浮かべてくれた。
「 ああ、目が覚めたことは事前に聞いていたんだけどさぁ、
こいつらがまるで別人のように変わったって言ったんで写真持って来いと…言ったんだよ 」
先生はそこで大きくため息をついて、ソファーに深々と背中を預けた。
「 ふう、驚かせるなよ 」
先生が瑞希たちを笑いながら見ていたが、固まったままの二人の背中を叩いた。
「 まあ、只の疲れだろ二人ともさぁ。それにいきなり目が覚めて混乱したんだろうよ
下衆の勘繰りだが、
啓子さんがいない間は二人でなかなかよろしくやってたんでそれもあるんじゃないのか? 」
俺はその言葉にムッとしたが、固まっていた筈の瑞希の方の反応は早かった。
「 何言ってるんですか!よろしくやっていたって20年近く前の事でしょ。
今じゃあただのお隣さんで、
昔なじみでそれに主治医だから自然と接点が増えただけですってば 」
「 まあそう言うな、只の冗談だよ。
写真の啓子さんが悲惨な状態なら私だって黙っていたってば。
やつれてはいるけど目に力があるし、あまり心配しなくてもいいんじゃないかぁ? 」
俺は二人の会話を聞きながら腑に落ちない気はしたが、純然たる…えっと、なんだっけ。
その時、幸次郎の店にかかっていた曲が急に変わったのでハッと気になった。
普段はジャズとかボサノバ、偶にロックか歌謡曲って感じなのにあまり聞かないクラシックだった。
甘く酸っぱいような何とも言えないメロディーで聞きやすい…
あ、えっと…今日は何だっけ…そうだ、啓子の目が覚めたお祝いだったか?
「 え、こんな曲…ダウンロードしたっけ? 」
幸次郎が不思議そうに首をかしげながら、俺の奢りの高いワインを飲んでいた。
おい…それ赤のイガイじゃんか…洒落にならんぞ。
「 幸次郎、いくら俺の奢りって言ったってそれは無いんじゃないのか? 」
「 はあ?今日は先生が啓子さんの意識が戻ったお祝いだからって先生の奢りだろ? 」
そうだった…確かにそうだった。
なんで俺が奢らにゃならんのだろうか…どこで…まあ、どうでもいいかそんな事。
その時に俺の右隣の瑞希が世垂れかかるようにしてワイングラスを渡してくる。
「 そうそうお祝いだわよ… 」
瑞希はそ言いながら少し寂しそうな声で耳打ちしてくる。
「 こんなこと言うの嫌だけど…
もう、あんたの家に遊びに行けなくなるのはちょっと嫌だけどね 」
俺の耳がその言葉を聞き逃す訳が無かった。
そうか…あのまま啓子が目を覚まさずにもしかして無くなっていたら…
ひょっとしてこいつとヨリが戻っていたのかもなぁ…ちょっと惜しかったか?
と、凄く不謹慎な気持ちになった。
「 こらこら、何二人でしんみりしてるんやぁ! 妻子持ちにくっつくなや瑞希。
変な誤解するぞあたいはさぁ 」
左隣に今度は幸恵がのしかかって来る。
少し酔ってきたのか顔が赤いし、ろれつが少し回らない…
「 ちょ…幸恵あんた言ってる事と… 」
「 はあ?あたいは旦那がいるからいいの!おかしな関係にはなりませんからね。
もたれかかってキスぐらいまでは普通許されるでしょ…昔から好きだったし 」
出鱈目な理屈だった。
「 あんたねえ、その旦那が目の前で 」
そこまで言ったところで幸恵が巨体の先生の横で嬉しそうに飲んでいるのを指さす。
「 お互い様でしょ? 幸次郎がする程度までは私だって許されるからさぁ 」
普段、仕事上で酔っ払ったところなど見たことの無い幸恵なのに
今日は何かが狂ったようにおかしな雰囲気だった。
俺としては…懐かしすぎる幸恵の感触は嬉しいが鼻の下を伸ばすわけにもいかない。
困った顔で内心は目の覚めた啓子の安堵感の方が大きかった。
なんにせよ、落ち着いたら娘に報告してやることが出来るからなぁ。
そんな光景を見ながら、横でしきりに酒を注いでくる幸次郎を適当にあしらいながら
平理は呟いた。
「 アルテェイシアム・フェリルか、また厄介のが… 」
いつの間にか、イチャイチャしだした幸恵と瑞希、健二を見ながら更に呟いた。
「 ちょっと無理して改変しすぎたか…本音がはみ出し始めたみたいだな。
こちらの方が良かったかなぁ 」
平理は苦虫を噛みしめたような顔で、楽しそうな3人をただ漠然と見ていた。




