見も知らない女
啓子は、俺が言うのもなんだが
彼女はまだ21になったばかりで聡明で美人。
対して32のいいおっさんで、
女性との付き合いなんて隣の野菜農家の幼馴染ぐらいしか経験がない俺にとっては
天地がひっくり返っても起こりえない奇跡だった。
「 これを逃してはあんた結婚無理だっちゃ。私が何とかしたるわ 」
って、今も隣に住んでいて総合病院の医者になった幼馴染の助けもあって
田舎らしく嫁不足、女日照りに苦しむ独身者との戦いに勝って
犯罪みたいな年の差も乗り越えて、幸せな結婚を遂げることが出来た。
思えばアレは人生の一つの頂点の思い出だったなぁ…
そして翌年には俺の宝物の娘も産んでくれたし
まあまあ、万々歳の人生だったよ、ちょっと前までは。
俺は、そんな昔のことを思い出しながら
誰も見ていないのに顔を歪めて苦笑いして頭を振った。
まあ、思い出してもしょうがないことはあるさ…
豚舎から長い坂を下りて鶏舎に向かい、
そろそろ草刈りが必要な鶏舎の前に着いてクラクションを鳴らすと
朝飯に使う卵を抱えたお袋がやれやれって感じで鶏舎から出て来た。
農家の特権の生みたての新鮮な卵だ…
あんまり知られていないけど、新鮮な卵は何気に目玉焼きの方が美味しい。
トラクターは基本一人乗りだが、運搬車をけん引してるんでお袋はそこに乗せた。
お得意の電溶でつけた椅子で勿論、違法改造だ。
まあ違法ではあるけれど、私有地内なんで咎められるわけもない。
のんびりと35馬力1300ccエンジンで地道を時速20キロほどで走る。
現代のトラクターは何気に舗装路では時速50キロまでは軽く出るけど
牛や豚が行き来するようなガタガタ道だし、
煙草片手でお袋と世間話しながらなんでこれぐらいでいい…
暫くすると俺の家が見えて来る。
敷地は…山の中だから意味が無いが、建坪200平米って所かな。
でも。ここらじゃあ普通って感じの古びた家だ。
俺は少しくたびれ始めた納屋にトラクターを入れ、
お袋を先に降ろして道具類を指定の場所に片づけると厳重に納屋の鍵を閉める。
トラクターと言っても運搬車込みで750万からするからっていう意味じゃない。
4歳になるうちの娘が刃先で怪我をするのが怖いからだ。
こんな田舎で泥棒なんている訳が無い。
「 おかえり~お父ちゃん、おばあちゃん 」
納屋から出て来た俺たちにその娘が迎えに来る…
いつものようにお袋が笑いながらその頭を撫でて、台所の方へと向かう。
朝食の卵を持ってこれから俺たちの朝食の準備に入るのだ。
よって少し時間もあるので
俺は娘を抱き上げて肩に乗せると、汗を流しに娘の”あやね”と一緒に風呂場に向かう。
そこで朝の疲れと汗を流すが、
娘は当然無邪気に泡のお化けのようになって風呂場で遊ぶ。
あと数年もしたら絶対に一緒に入らないので時分の華として俺はこの時を楽しんでいる。
結構長風呂になるが、
お袋が先に帰っている親父と朝食の準備するので丁度いい。
朝食は12畳の和室で長机で家族全員で食べる。
親父と、お袋、俺に娘の梓の4人で啓子とは今は一緒に住んでいない。
「 ねえ、お父さん。お母さんっていつ帰って来るの? 」
ここしばらく口にしなかった言葉を娘の早霧が俺を見上げてそういった。
俺はお袋の作った味噌汁を思わず口から吹きだそうになったが何とかこらえて
「 う~ん、お医者さんに確認しないといけないけど、まだ先のことになるよ 」
と嘘をつく。
両親は気まずそうに俺と”あやね”から視線を外した。
「 んじゃあねぇ…びょういんにはお見舞いに行けるの?
もう、にゅういんしてからすご~く経つんだけどぉ 」
その言葉に俺の方が口ごもってしまう。
お見舞い?なんて絶対にさせてはいけない。
すご~くってのはオーバだなぁ…まだ、二か月しかたっていないんだし。
ま、4歳の子供の二か月って確かに長いだろうなぁ。
一番母親が必要な年だからなぁ…寂しさも半端ないだろう。
「 そ…そうか。クリスマスぐらいなら多分… 」
と6か月は先の行事まで話を飛ばした。
それを聞いて怪訝そうに両親が俺の顔を無言で眺めていた。
だが、朝食が終わり娘が外へ遊びに出かけた後にお袋が話しかけて来た。
「 いいのかい?あんなこと約束しちゃって… 」
「 あれでいいんじゃないの?まだ4つだし…現実は受け入れられないよ。
それに6か月も先の事だろ、それまでには具合がどうのとか言い訳ぐらい用意するさ 」
当てもないその場限りの内容だが、
とりあえずの間、早霧が納得してくれればいいと思った。
「 う~ん、しょうがないか先送りにしても… 」
俺と同じで解決策を思いつかないお袋は寂しそうにそう返事した。
啓子は2か月前に脳内出血で病院の片隅で植物状態でなっていた。
さっき思い出してもしょうがないって言った原因だな。
植物状態なので、
回復の見込みは奇跡でも起きない限りありようがない。
この状態でまだしっかりとした考えもまだ無い娘を
病院で彼女と面会させるわけにはいかないだろ?
しかし6か月も先にすれば、
これから啓子がどうなるかは神のみぞ知るところで変化する。
最高にいい結果…あまり無いが確率はゼロじゃない。
脳内出血で脳にダメージがあって植物状態から生還っていうのは実例があるらしい。
しかし、それで生還したところで脳のダメージは深刻な事には変わりなく
元のようには決してならないって医師から聞いている。
最悪は、危篤状態でもなって家族に延命処置を医者が聞いて来ることだ。
死ぬのは仕方ないが、絶望に近い判断をするのは娘の事を考えても難しい。
ただ、幸いなことに心臓が強いし何故か自発呼吸が出来ているので
2か月たってもこちらから特段な延命治療の必要性も無い。
生きていてありがたいと思うが、
かなりの金額を飲み込みながら口もきけずに生きている彼女を
心のどこかでは煩わしいと思い始めているのは残酷なものだって思う。
やるせなさと自己嫌悪で俺はかなり疲れていた。
担当医が幼馴染の”瑞希”で良かった…
彼女が慰めてくれたり励ましてくれたりしているから。
そんな訳で死ぬにしても障害が残って生き続けるにしても
重い事実には変わりないし、そこがはっきりしない限りは娘に説明などできない。
その日が来るのを少しでも遅くしたいのは人情じゃないのか?
その日の午前10時30分…
今日は両親が昼間の農場の見回りと農作業の当番の日で
俺の方は夜の巡回と、経理処理などなので昼間は空いている。
普段なら夜に備えて仮眠をとっている所だが、
病院から”瑞希”の緊急に出向いて欲しいとの連絡で
行きたくは無かったが俺の相棒の軽トラで向かった。
いい知らせなら電話口で伝えれるので悪い予感しかしなかった。
気分は最低に滅入ってはいたが、車内でひたすらジャズやボサノバなど
落ち着きのある音楽を流してタバコを燻らせながらあまり変な事を考えない様に
ボンヤリと病院へと向かった。
「 なんなんだよ?急に呼び出して 」
俺は目の前の”瑞希”に声をかける。
いつもは診察室なのに、今日は立派な応接室に招かれて少し緊張が走る。
ただ、看護師などが立ち会っていないので
幼馴染の瑞希に甘えて少し深めにソファーに沈みながら思いのまま話しかけれる。
口は悪いが心根が優しい瑞希が気を利かせてここに案内したんだろうと思った。
「 実はなぁ…奥さんの意識が戻ったんよ 」
はあ?と思った。そりゃあ緊急事態だってば!
「 それなら電話口でも…言ってくれよ! 親父やお袋も連れて… 」
俺は思わず席を立って携帯を…
「 ああ、それは無理だよ。
病院では携帯禁止だし、ここは電磁波を遮断できる建屋だからね。
電話は固定でしかできないから… 」
「 う、そうだったなぁ。しかしお前なんで…伝えてくれなかったんだよ? 」
「 いやあ、意識は回復したんだけど問題があってさぁ。
おばさん達が面会したら多分納得もしないし混乱するから
杏美(お袋の名前)さん心臓も強くないから心配だし、
頭の固い謙二郎(親父の名前)おじさんも頭が固いんで説明が難しい。
あんたならまだ付き合い長いし、信じやすいって思ってさ 」
瑞希は俺の目をしっかりと見つめて来る。
普通の関係のない男ならドキッとするほど美しい顔で勘違いしそうだが、
幼馴染で昔付き合った俺だから冷静に判断できる。
これは、滅多にない瑞希の真剣な表情だ。
「 信じやすいってなんだよ?奇跡だけど植物人間から生還しただけだろ?
それに、心臓に悪いとか説明が難しいって… 」
「 まずさ、私があんたに嘘をついた事もないし隠し事をしたことも無いの覚えてる? 」
「 はあ?それとこれと… 」
「 いいから、かなり信じられない話をするんだから。
何があっても何を知ってもさ、私の言うことを信じて欲しいのよ…
ってか、お前の言うことを信じるって先に言って欲しいのよ。
実際、私自身が納得できる内容の話じゃないんだから 」
瑞希の目に並々ならぬものを感じた俺は、直ぐに答えた。
「 ああ信じるよ。
いろいろ問題はあったが…お前は正直で隠し事は嫌な女だったもんなぁ 」
正直すぎて嘘がつけない…のはこいつの最大の美点かもしれないが
彼女としてはそれは俺の重荷だったとは口が裂けても言えない。
少しぐらいうまい嘘がつけたなら…別れることも無かったから。
「 はい、ありがとうございますっと。
いろいろ問題があったってのはちっとばかり引っかかるけどさ… 」
ああ、相変わらず思ったことを正直に言うはこの馬鹿。
瑞希は安心したように大きくため息をつくと、
机の上に置いてある封筒から一枚の写真を取り出すと俺の前に置いた。
その写真は…一人の女が映っていた。
目の覚めるような黒髪、漆黒の闇のように黒くて光沢が美しいが、
日本人では無いようだった。
なにせ、顔の骨格も上半身もアジア系ではない華奢だが明らかに欧米系だった。
胸は…身長が分からないから大きさまでは推定できないがDは軽くありそうに見えた。
そして、何よりもその双眸の見事さだ。
珍しいアンバーアイ(琥珀色)でしかも印象的で力強い…ものすごい美人だということは分かった。
パイプ椅子に座っているのがアンバランスに感じるほど
何か威圧的な印象もある。
「 何か分かる? 」
「 いや、凄い美人の外人さんって事だけだなぁ。
どこかの女優さんかい?しかし、黒髪でウルフ・アイ(アンバーアイの俗称)か
なんか、アンバランスな感じはするなぁ 」
「 そうね、透き通るような白い肌の割りに健康的な血色でしょ。
コーカソイドって肌が弱いんで荒れ気味で雀斑なんかも目立つけどそれが無い。
黒い髪はアジア系なら珍しくもないけど、茶系統が混じるんだけどそれも無し。
で、この組み合わせでアンバーアイは有り得ないって感じかな。
遺伝学には詳しくないけど、もしいるとしても極少数の可能性でしょうねぇ。
それに、この美貌とスタイル…有り得ないってとこで違和感を感じるのよ。
見たことの無い組み合わせだから… 」
いや、それがなんで今関係あるの?
俺は、怪訝そうに瑞希の顔を覗く。
「 で、これが何だと? 」
「 よく見て、特に彼女の着ている服と室内の様子を… 」
言われてもう一度しっかりと見た…いや、嘘だろうこの服ってか似たような服は…
部屋の作りはここの病棟に似ているなあ。
俺は、目を凝らして窓際の写真立てを見る…あ、有り得ない。
「 お…お前、これ啓子の病室じゃねえか? あやねの写真もあるし。
んで、この服は…俺がお前に大昔買ってやった服じゃねえか 」
「 へえ、私の服の事覚えてくれてたんだ…ちょっと感動かなぁ…
そこから考えてこの人が誰だかわかる? 」
いや、そんな事言われても…見たことも無いとしか。
「 これはね、あなたの奥さんの啓子さん。
今朝早く目覚めたときに病院服じゃあ可哀想って思って家から持ってきたのよ 」
何を馬鹿なと、瑞希の顔を睨みつける。
「 私、嘘はついたことが無いって言ったしあんたも信じてるって言ったでしょ。
正真正銘、これは啓子さんなの 」
頭がおかしくなったのかこの女?って最初に思ったが、
瑞希の真剣な顔を見ていたら信じたくは無いがどうやら本当の事らしい。
しかし、
日本人形の様に美人だが細い目で栗色の髪をしていた啓子とはまるで別人だ。
俺は、
わなわなと手を震わせて啓子だという見も知らない外人の写真を
戦慄して見入ってしまった。




