歩いて来た死
既に、陽はどっぷりと暮れ…夜の闇が外の世界を覆い、砂子の様な天の川が微かに見える。
首を傾ける事が出来ない私には、本当に僅かにしか見えない。
白い安物のレースのカーテン、白い壁は若干黄色味を帯びて小さな皹が走る。
冷え冷えとした白い床が死を象徴するように広がっている。
( 見えないけど…多分、そんな所だろう )
鼻を突く消毒液の匂いと…オムツを濡らす泣きたくなる酸っぱい匂いが充満する中
私のベッドの周りには
トツン、トツンと規則的な機械音を奏でる生命維持装置と
8つの波形が弱弱しく流れるモニターがあって、
私の体と無数の糸で繋がっている。
もうすぐ死ぬにしては、ロマンチックな演出なんてこれっぽッチも無い。
でも…私にはそんな表面的な事はどうでもよかった。
幼馴染の慶介が、動かない私の手を、ずーと両手で握っているからだ。
「 死ぬな、死ぬなよ美雪~ 」
って、目にうっすら涙を溜めて、声を上げるその度に、力強く手を握り締めてくれている。
…嬉しかった…ただ嬉しかった…
少なくとも慶介だけは私に死んでほしくないんだ…でも、死なせて。楽になりたいの…
でも、手は離さないでね、感触はまだ微かだけど…あるからさ。
暖かい手、強く握られて少し痛い…検査に比べれば足したことはない痛み…
なぜか嬉しく、私は少なからず充足感に満たされた。
そんな充足感も慶介が信じられない言葉で驚きに代わっていく。
「好きだったんだ…ずーと昔から、だから…だからさ…死なないでくれよ」
そう言って、涙を流しながら、更に慶介は私の手を強く握り始めた。
「どんな形でもいい、息を吸って同じ空の下にいるなら…だから」
慶介は、鼻水も出始めた。でも、私は…なんて答えたらいいの?
それにどうやってあなたに伝えるの?
口もきけない、手も動かない、目だってうまく動かないこの私が?
その時、残酷な音がした。
プ~ と、おむつの中から音が聞こえてきたのだ。
私の意志ではどうにもならない自然現象…惨めだ… 惨めすぎる…
だって、そうでしょ?
長い間、何回も何回も、死体のような私を見舞いに来ては
なんの反応も無い私に、
毎回毎回、私の言葉もなにも聞けない分かっているのに、
丁寧に優しく語りかけてくれて、今、こんなに涙を流して私の手を握っていてくれる慶介に…
こんな事って…
そう思ったら、涙が滲んだ…私からしたら血も出そうなほど悔しい涙。
ああ、
聞いた事があるわ…人は、死に近づくと下の方が緩くなるって…これってそうなのかしら。
そんな私に気づいてか、慶介は、何も言わずに更に強く手を握って、大声で泣き始めた…
多分、廊下まで聞こえているだろう。
もう…駄目なんだろうなぁ…そういえば…、少し気が遠くなってきた。
ごめんね…もう…握られているのも…分かんない。
もう駄目だ…
そういえば、死ぬときは目を閉じないことが多いって聞いた事があるわ。
どんなに目を見開いていても、だんだんと見えなくなるらしいから、
怖くて大きく目を開けるって。
今の私も同じになって来た…目を閉じたら…すべてが終わる気がする。
ああ…臭いも、音もぼんやりしてきて聞こえなくなって来たわ。
次はいよいよ…目かな?そしてそれで御終いなんだろうな…
うん案外、死ぬときは冷静なんだ…と思った自分の事だからかな。
でもさ、一つだけ言わせてほしい。
”私は…何か悪い事した?なんで…死ななきゃならない…の ”
看取ってくれる人に一言もお礼も言えずに惨めにただ死んでいくのは何故なの?
ああ、せめて…最後ぐらい一言でいいからお別れが言いたかったなぁ。
このまま、死ぬのは嫌だなぁ~…あああ
その時、もう随分暗くしか見えない私の目の前に、白い紙がいきなり現れた。
どうしてかはっきりと見える。
何もない空中で、私の視線で書面が分かる様に浮かんでいる。
常識では、考えられないだろうけど…そう見えたんだからしょうがない。
小さい文字。
日本語じゃない…記号の様な不思議な文字の羅列なのに…何故か読めた。
”あなたの、生きる以外のお願いを一つだけ聞きますわ、
頭の中で唱えなさい。
〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇”
私は書かれている通りに頭の中で叫んだ。
すると、不思議な事に突然、
ちりちりと私の手に電気が走ったかのような感触と共に感触が戻ってきた。
慶介が握る左手に強く、一瞬震える感触も確認できた。
そして、
握っている慶介の手の力が急に抜けた…何があったんだろう…と天井を見ていた眼が
突然、慶介の座っている姿を映しだした。
どうやら、頭が…動くはずのない頭が動いた様だ。
慶介の顔は、扉を向いていたが、それから動こうとしないし、
よく見ると瞬きもしていなかった。
私は、更に、だんだんと感覚が戻り始めた。
この三年間、全く動かなかったのにも拘らず、
手も、脚も急に血が回ったように…むずむずとし
感覚も元に戻る様だった。
首が動いたんだから、体も動くことが出来るだろうか…
考えていてもしょうがないので、
思い切って、ベットから起き上がろうとすると何の違和感もなく起き上れた。
私は、慶介の方を向いて手で慶介の顔を撫でたけど、慶介は全く反応しない。
更には私につけられていた機器の表示も全く動かないし、点滅もしていない。
まるで、写真を貼ったようにのっぺりとしている。
機械音も全くしない。
私の呼吸や動く音だけが、部屋に響いているようだ。
まるで私以外の時間が停まっているようだった。
その時だった。
カツーン、カツーンと甲高い足音が聞こえてくる。
扉の方から、少しづつ大きく大きくなって…誰かが近づいてくるようだった。
「な…なんなの?」
長い間、言葉を発することができなかった口が短い言葉を紡ぎ出した。
そういえば、長い間動いていないのにどうしてこんなに軽く動くのか…
なぜ、時間が止まっているのか、
その中で、どうして誰かが歩いて来るのか…
まったく訳が分からない。
足音は、扉の前でピタリと止まった。
最近は、弱弱しい鼓動しかしなかったはずの私の心臓がバクバク動くのを感じる。
「…?」
しかし、暫く時間が経っても、その安っぽい扉は開かない。
ガシャガシャなにかを動かす音がしているので何を躊躇しているのか分からないが、
扉の前に誰かがいるのは確かなようだけど。
ぱきいいいい、バキッ! その時、扉が開くというか壊れるような音がして、
扉から若い女の人が出てきた。
大きい…見上げるほど凄く大きいのにその上、よく見ると凄いヒールを履いている。
扉の高さから見ても2メートル?
来ている服が変わっている…真っ黒い、烏のようなピッチリと体にフィットした、
丈の短いワンピースのような変な服。
そこから覗く物凄く白くて長い脚が印象的だけど、
胸も大きいし、お腹もスリム、お尻は…ちょっと大きいかな。
後は、綺麗な金髪のロングで、透き通る白い肌とほのかに桜色をした頬、
目の覚めるような大きな深い緑色をした瞳と長い憂いのあるまつ毛。
一番目を引いて驚かされるのは右手に持った鎌だ。
背丈よりも大きく、多分2mは遥かに超えているだろうな。
刃先も長大で、幅広で長い弧を描いていた。
私の脳裏に浮かんだ言葉…普通なら、危ないおかしな人にしか思えないのだけども、
自然に浮かんだんだ… ”し…死神?”
私は、暫くその美しい大きな女の人を見取れてしまった。
女の人も、私の方を見ていたが、何も話してこない。
言いずらそうに…伏目がちに私の顔を見るだけで…そして、目があったら回避する…
そんな状態が、2・3分…埒が明かないので、私の方から女の人に問いかけた。
「 だ…誰? 」
時間が止まった中でここまで歩いてきたこの人が、
普通の人間の訳が絶対に無い…って分かっているけど。
「ジャニスですわ…」
あ…あのさ、名前言われても…まあ、でもそれが普通だわね。
「 し、死神ですか?、わ…私にですよね…」
普通なら物凄くおかしい頭の人が奇妙奇天烈な格好出来ているので
大声でも上げるところだけど、
自分の身に起こったことさえ頭の中で整理できていないで混乱しているし、
何故か目の前の彼女に対し何の恐怖感も感じていなかった。
すると、ジャニスさんとやらは小さな笑みを浮かべた。
「 ええ、死神で構いません…大して変わらないもの。
私は仕事でここに来ました。
あなたを…この世界から連れ出すためにね。
業務命令に従って、標準作業書に準じて速やかに逝き先へ連れて行くために。
でも…こんな…惨いことになっているとは…」
ジャニスさんは、言葉に詰まったらしく、暫く沈黙が流れた。
それでも、彼女は意を決したのか、
「 あなたが、死ぬことは回避できませんが…でも、何か一つ望みをかなえる事が出来ます。
勿論、出来ない事もありますが、私の力で出来る事なら叶えますけど。」
としっかりした口調で私にそう言ってきた…訳が分からない…
「 えっと、なんで私の願いなんか叶えるんです? 」
ジャニスさんは、眉が八の字になって困った顔をする。
「 御…御免なさい…、それは…言えない事になっていますわ。
で…でも、
もう、だいぶ前に決定された事ですのよ。」
「 時…時間を止める奇跡が出来るなら、病気を治して…生きることぐらい… 」
何十億人も、うじゃうじゃいる人間の命ぐらい…こんな奇跡の力ならどうとでもなると思ったが、
「 そ…それは…出来ますけど…許されてはいません。命に対しては…神だとしても 」
そういうと、深刻な顔をして俯いた。
神様にも匹敵するような奇跡…そっか…死神さんだもんなぁ…
なんか、イメージ違うね…でも、大きな鎌持ってるし…
そんな人が、私なんかの為に苦悩してるみたい…
そっか、死ぬのは確定なんだ…だったら大して望むことなど無いわね。
「 えええっと…、とりあえずの望みは死ぬ事だったんで… 」
ジャニスさんの顔が、少し歪んだ気がした。
「 特には…ありませんね。」
やっと楽になれたんだ、
時間を止める奇跡の力で、私の体を元に戻して命をつなぎとめる事が出来ないなら…
特には無い、あるはずもない…
それにこんな地獄のような日々なんか、未練などありはしないと思った。




