死神の地へ
朝露に濡れた草原の草花が大きく広がって見える。
6月の晴れ間の空は抜けるようにどこまでも青く、
白い雲は下の方で長く伸び遠く地平の彼方まで伸びている。
カタン カタン と規則的に窓枠を伝わってくる眠気を誘う音と振動に揺られる体。
古びた木枠の窓枠に、
少しだけ開けた窓から生き生きとした緑の匂いと、
機関車の蒸気の煙の臭いが鼻を突く…
出来の良くない石炭と水で無理やり動かしているので速度は大して出ることはない。
流れる風景も時速60キロでしかなくのんびりとしたものだ。
そんな機関車に揺られて
アナスタシア・ジーナ・マルーシアは大きな窓ガラスに頭を寄りかかせていた。
彼女の輝く様な直毛の黒い髪がおろし立ての黒い軍服に溶け込んだいる。
顎を支える華奢な彼女の腕の袖には階級を表す金モールが光り、
白くて細いが十分に鍛えられた首に纏わりつく襟には星が並んでいた。
彼女の足元には、教官から餞別代りに貰った革製のボストンバックを立たせて置いてあり、
向かいの座席には使い慣れた愛銃が眠っている黒いライフルケースが横たわる。
長めの黒いスカートを少しはだけさせ、
ハーフブーツを脱いだ素足を行儀悪く投げ出してそのケースの横に乗せていた。
そして彼女の両手には、
茨の装飾の入った皮のケースに入ったナイフが躍り、
白い肌から浮き上がるように見えるアナスタシアの
宝石の様な真っ黒で大きな瞳が漫然と見ていた。
アナスタシアはその体勢で気だるげに数日前の事を思い出していた。
この前の理不尽な呼び出しにには軽くシャワーでも浴びて
適当に着替えて髪もブラシで撫でつけて誤魔化しておけば大丈夫だろうと思っていた。
身だしなみなんて最低限でいい…めんどくさいし。
だけど宿舎の前に手ぐすね引いて待っていた170センチ100キロのアマリア兵長に
首根っこを引きづられ隈なく体を洗濯(本当に洗濯のように洗われた)され、
その上、無理やり鏡台に座らされ、鼻歌交じりに
縁の無いスプレーをかけられ、しっかりと髪を梳かれて紅や眉も描かれた。
男や同僚なら鬱陶しくて膝蹴りでも入れるところだが、
20も上でしかも上官の女性のアマリアに逆らうことなどできない。
それ以上にアナスタシアは母親と同じぐらいの女性が苦手でもあったし
優しく接してくれるのはもっと苦手でもあった。
その後、しっかりとアイロンをした綺麗な軍服を着せられ
背中やお尻をひっきりなしに平手で叩かれて戸惑いながらも指定された教練本部へ出向いた。
案内係に言われるがまま進み、
部隊長室と書かれたその扉を開けた。
中には広さは100平米くらいの大きな立派な部屋に、
普段見かけない豪勢なソファーセットに大理石の天板の机が置かれ、
奥には書庫と大きな木製の仕事机が鎮座していた…
部隊長室と書かれてあるプレートから
本来は、ここの責任者バーナベリシカ大尉の執務室なんだなと認識した。
ドアを開けるとそこには雲をつく大男が偉そうにソファーに踏ん反り、
見慣れた”カジタのおっちゃん”がその隣の席に座っていた。
「 そこに座れ 」
私にとっては12歳から何かにつけて面倒見てくれた教官のおっちゃんは
いつもと違って妙に余所余所しい気もするが、
曹長の肩書のおっちゃんの前には尉官の少尉様だからしょうがないだろう。
私は同じく堅苦しい軍隊式の挨拶をして彼らの体面の座席に座る。
「 アナスタシア 突然で悪いが急遽卒業となった 」
おっちゃんの言葉に首を傾げていると、凄い傷の顔の少尉様がこちらを見て笑った。
こっちの体を嘗め回すような視線だったんで”殺すか”とも思ったけど、
兵隊なら上官は神様みたいなものだからそっちにはひきつった笑いで答えた。
「 貴様、535部隊は知ってるな? 」
「 は、存じております 」
「 特別推薦で、535部隊への配属が決まった。喜べ 」
高圧的な口調も上官なんで特に気にならないが、535部隊と言ったらエリート部隊だ。
戦場の狂犬を育てるような教練科の学生ごときなど雲の上の存在だ。
キツネにつままれた気分だった。
「 わたしがですか? 」
当然の言葉に大男は咳払いをしてから
「 そうだ…若干16だが貴官は才能に恵まれ、残す教練期間をここで満了する必要もないだろう。
それよりは早急に我が皇国の為にその才能を発揮していただきたい。
まあ、まだカリキュラムは残っているが応用教練だからこちらで取得ということで、
ちゃんと学位も卒業証書も特別に用意した。
更にバーナベリシカ専任大尉の認状付きでだ。 」
「 ということは…正式な卒業?ってことですか 」
実際には時間があればもう少し資格所得まで考えていたが…命令ならしょうがないだろう。
それより早く卒業できる方が魅力だ…給金貰って独り立ちはしたいからね。
今の私など衣食住は軍で面倒見てもらってるが報酬は小遣い程度だから。
「 ああそれとお前が希望していた資格関連もそちらで取得可能だ。
ただ…通信教育って形にはなるとは思うが学生とは違い任務と平行になる。
勿論、正式に我が隊に入るということで身分も保証し、報酬も支給される 」
資料が手渡され、説明を聞きながら内容を把握する。
殆どが入隊後に改めて確認することになるが、報酬の方はかなりのもので十分すぎた。
至れり尽くせりだなぁ…と思ったが、話が急すぎて頭が付いて行かない。
そんな事を思っていると、急に大男が立ち上がって贅沢な(私にとっては)黒い箱を
私の目の前の机に置いた。
「 マリーシア訓練生 喜べ535部隊専用の軍礼服に階級章が中に入っておる。
我が隊は最低身分保障が曹長なので貴様も同じ曹長… 」
そ…曹長?なんだよそれ…成績優秀者で卒業しても最初は伍長がいいところなのにいきなりか…
「 これは…必要な私物のリストと支度金だ。」
ついでに分厚い封筒と上等なファイルを渡された。
教練科ではお金なんてほとんどいらないし、渡される支給金も雀の涙だったから
結構重い封筒の中の札束を見て少し腰が抜けてしまった。
「 それとだな…これは本来あり得ない記念品であるが、
教練科最高の成績で535部隊への配属が決まった貴様に大尉から特別に記念品が出ている。
12歳であった貴様をここまで連れてきた経緯もあると言われてな 」
ああ…あの熊みたいなおっちゃんか。
行事で見かけるだけで個人的にはあれっきりだけど…
よく覚えてるもんだ、子どもなんか凄い数扱ってるのに。
カジタのおっちゃんは滅多にしない白手袋で恭しく刃渡りが20センチ近いナイフと
茨の模様の入った上等なナイフケースを一緒に
白い上等な布を広げて私の目の前に置いた。
「 ナイフなら…官給品じゃなくこれを使ってほしいとのことだ。
真意は分からんがそういう希望と伝えてくれと言われている。
スミス少尉にも許可を貰っているんで安心してくれ 」
その言葉に大男は少し口元を緩ませる。
「 まあ、官給品の様な鈍じゃなくてもうちでは高級品があるが、
大尉の顔を立てる意味でもそれを使えばいい。
もっとも実戦じゃあ銃剣だがな 」
銃の重さとリーチで切りつける銃剣のほうが殺傷力はあるし応用用途も多い。
ナイフなんてのは自決用か五徳みたいな意識ぐらいしかない…私はだが。
一応、素手でナイフを拾い上げると体に何か冷たいものが入ってくる感触が湧いたが
金属に振れれば多かれ少なかれ冷たく感じるからその類かと思った。
上等な革巻きのグリップで手に馴染むエンドは丸みを帯びた三角形で力を溜めやすい。
使いやすそうだ…
ヒルトはS字上でかなり分厚く十分な指の防護に役立つ。
ブレードは磨き上げられた鏡の様な輝きと少し細身だが充分な重量と刃渡り。
ポイントは若干下向きで収束が上手くできていた。
十分にいいナイフではあるが、官給品に比べると今一つ頑丈さは少なく感じた。
まあ、別にナイフで殺し合いなんてまずしないから…それで十分だった。
?
ブレードのバックに奇妙な細かい字で長文が彫られていた。
この国の言葉ではなく見たこともない言葉だったが、なんとなく加護の呪文のように感じた。
ブレードに文字を刻むのは特に目づらしい事でもないのでそれ以上は関心も無い。
「 失礼します 」
と一言断って軽くナイフを上下左右に振ってみる…
生まれてからそのまま使っているようなしっくりした感じと重量バランス。
空気を綺麗に切っていく刃先の流れ…
へええ…凄く高そうだ(高級なものほど手に馴染むって私は思っているから)
私は一瞬でバーナベリシカ大尉に感謝の念を覚えた。
その後は暫く説明が続き、
明後日に出発ということになった。
はぐれ者で狂暴な私になど誰も関心が無いと思ったが、
急遽卒業ということになると、ひっきりなしにいろんなものをみんなに貰った。
急所を腫れあがせた男もきつい目つきで対人訓練で向かってきた女性たちも
誰彼構わず笑顔を浮かべて
「 死ぬんじゃないぞ 」
と一言載せて…彼らからすれば先に死地に赴く仲間に
いずれは自分も死地に赴くことを考えての事を思えば当たり前の事だった。
が、4年間もの間一緒に過ごしもう少し仲良くしていればよかったと
柄にもなくそう思った。
「 これから…どうなっていくんだろうなぁ 」
アナスタシアは、ナイフをトランクに仕舞うと窓の外をなんとなく眺めだした。
「 今までは訓練だったから、考えることも無かったけどさ…
これからたくさんの人を殺しに行くんだよね。」
アナスタシアは、今までスコープ越しや
他の銃器の照星越しに見ていた黒い標的や人型の標的を最大でも写真を転写した標的を
車窓に映る道行く人々や農作業の人々にこちらを見て手を振っている子供たち…
それらを見ながら置き換えていく。
戦場で敵兵を撃つだけでなく、状況によってはゲリラ化した一般市民も対象になる。
カチャ カチャ… アナスタシアは引き金を引く動作を右の人差し指で行いながら
経験したこともないが、脳漿を弾かせたり頭の半分を吹き飛ばしたり
腹を撃たれて転げまわる子供たちの姿を想像して唇を噛んだ。
535部隊 通称 死神部隊 専任は狙撃だ。
いくら給与が高くても待遇がよくても死亡率が格段に低くて兵士の憧れとしても
やっていることは狂犬のように機関銃を振り回したり、
レンジャーのように静かに忍び寄って口をふさいで喉笛を掻き切る奴らと何も変わらない。
殺された奴らにもこちらと同じように愛する家族も友人もいるだろうし…
ふと、頭にそんな事が過ったが、直ぐに頭を振って忘れた。
戦争なんだ…
私や仲間が敵を殺さなければ、死ななかった奴が私たちや関係のない者たちを殺す。
そして戦争が長引けば長引くほど状況は悪くなっていく。
男は戦に出るか過労死するほどは働きまくるか、
女は昔ならあった軽作業や事務などの仕事がすべて無くなって、
食うため生きるため、さらには子供を食わせるために股座を開いて
それしか楽しみもない男たちに金を貰うしかない…私の母親みたいに。
挙句には…生きるために私のように子供を売る。
胸糞の悪くなる現実…
航空機の飛べなくなった世界であるから大規模な大量殺戮は無くなったが、
その代わり地を這う様な局地戦でいつまでも続く地獄。
政治屋や指導者は何をしてるのかとは思うけど、
地を這う一般市民(私らも含む)にどうすることも出来ないから…
「 だとしたら…私にできることは一つだ。
出来る限り敵を殺し尽くすこと…一人が一人ならイーブンだけど2人以上殺せば…
いや、私の命が続く限り敵を殺せばそれだけ早く… 」
まだ、実戦を経験してもおらず、
望まない戦いに身を投じていく兵士たちが等しく思う諦めの感情をアナスタシアは感じていた。
おお…
空いている車内にちょっとした歓声が沸き、少し首を横に動かすと
鼻に湿った少ししょっぱい空気を感じた。
少しだけ開いている車窓から少し生温い風が入ってくる。
海だ…
生まれてこの方、貧乏な山村と教練施設に演習のための平野しか知らないアナスタシアは
そのどこまでも青く、広大な広がりに心を奪われた。
水平線の付近で輝く反射光に、白く波打つ砂浜…何もかも写真でしか見たことのない風景だった。
一応、水泳は必須でかなりの距離を泳げるが湖しか経験したこともなく
その巨大さに圧倒され呆然とした。
そうか…海ってことはもう直ぐってことだな。
535部隊はこの先の海辺にその部隊があるという。
襲撃されずらい様に山間などに軍を設けるのが普通なのだが、
航空機の全くない世界で最も高速に移動するのは艦船しか無いからだ。
ふと、船に乗ってこの真っ青な海を進んでいる自分を
小さな漁船がのんびりと漁をしている風景を見ながら想像した。
人殺しであろうがどうしようがこの道しか生きる道のない
アナスタシアは白波を立てる舳先でのんびりと眠る夢を頭に描いた。
少しぐらいそんな贅沢がしてみたいものだと…




