崖
暗い闇の中、車のヘッドライトだけが道を照らす。
舗装されていない地道の凸凹が作り出す暗い影が海の波のように広がって見える。
時折、大きな窪みに落ちては
物理的に下から突き上げてくる振動でハンドルを取られそうになるのを
少し気にしながらも運転しているスキンヘッドの男が口を開く。
「 どうします?これ… 」
運転をしながら、
その大きな手で助手席に置いてある刃物の柄を持って摘まみ上げる。
「 官給品じゃないし、出来は悪くは無いがそれほどの逸品という訳でも無い。
この子も寝てることだし…別に捨ててもいいがな… 」
軍用車らしくクッションのあまり効かない後部座席で
その刃物を見ながらゴリラの様な男は少し難しそうな顔をした。
( しかしな~ あの顔思い出すと…そうも言えないんだが )
涙と鼻水でうまく話せない中で、必死に母親が渡してくれた襤褸袋…
食うや食わずで貯めたお金で工面したものだろうし、
簡単に捨てるという選択を取るのも躊躇された。
( 下着や服なんか…は、まあ、特に問題も無いだろう。
しかし…武器となると話は別だしこの子だけ特別って言うわけにもいかんだろう )
「 一応…そうだなぁ、私が預かっておくか。
教練課程が終われば…わたしからの卒業祝いって事で渡せばいいんだし 」
「 卒業記念にしちゃあ…少しみすぼらしいですけど 」
それはどこか期待を込めた口調だった。
「 まあ、もう少し手を加えて柄なんかも新調していいものにするよ。
刃はもう少し鍛えて丈夫にしておかないといけないがな 」
「 そうですよね…実戦で使える程度にはしておかないといけませんが…
一応、母親の望むようにこの子のものになるから。
ただ、それだと大尉がこの子に対して特別な存在にならないといけないですけどね 」
「 そうだなぁ…まあ、考えてみるよ 」
後部座席の男は、揺れる車内で器用に煙草を取り出すと火をつけた。
紫煙が彼の周りに纏わりついた。
その煙が鼻を擽るのかアナスタシアが少し呻いたが、久しぶりの入浴と
いっぱいになったお腹から来る眠気で起きるまでには至らなかった。
「 と、まあそれも…卒業まで生きていればッてことになるがな。
一兵士からだから毎度毎度、死ぬ奴はいるわけだし 」
男はそういいながら、星空を見上げて家にいる自分の娘の顔を思い浮かべる。
( まだ、うちの娘はそう思えば恵まれてるもんだ…
なにせ肉親もいるし、生活も困窮してないしなぁ甘やかしすぎだろうけど
戦況が悪くなれば、
徴兵される前に軍に志願させなければならないから仕方ないが )
徴兵で招集されるってのは、戦争ではあまり得策じゃあない。
しっかりと教育されているわけでも無いし、基本は職業軍人の下で使われる虫けらだ。
能力のある者は重宝されこき使われるか、無能は弾除けぐらいにしかならない。
男も、何度もそういう連中を磨り潰して生きてきたので、
娘をしばらくして軍には、
教練で死んでしまうような事も無い将校候補として志願させるつもりではあった。
それぐらいの融通は利く立場にあった。
フリッツ・バン・バーナベリシカ大尉はそんな事を思いながらタバコを燻らせていた。
まさか、将来眠っているこの子が
自分の愛する愛娘の将来を左右することなど思ってもいないで…
男たちの車が去って、再び静寂が訪れたミランダの小屋。
契約をした粗末なテーブルに
この近辺に住むものなら大金と言っていいだけの紙幣がのぞく封筒に
そのすぐ横には稚拙ではあるが丁寧に書き上げた文字の手紙を置いて
ミランダは大きくため息をついた。
ついさっきまで娘と自分を受け止めていた毛布とシーツをじっと見て
過ぎ去った時間をゆっくりと思いだしていた。
ギリギリの生活を過ごし希望も無く過ごしてきた若い日々、
処女どころか、12歳から体を売っていた自分を受け入れてくれた死んだ男との
静かで貧しいが満ち足りた時間、
授かるのを諦めていた自分の子の出産に育児の慌しさ、
あっけない男の死による雪崩崩しで降りかかる貧乏に耐えた地獄の日々、
日々大きくなる娘の為に再び体を売る毎日、
稼いでも稼いでも大して暮らしは豊かにならず何とか命を繋いできた日々…
生きてきて大半は碌でも無いものでも
「 ああ、生きてきてよかった 」
とミランダは小さく呟いた。
( 生まれてきて、好きな男に出会って、取りあえず汚れないまま娘を送りだせた…
少なくとも生き物としての責任は果たせたし…あたいとしては上出来だよ。)
最近無理をして痛む下腹部を摩りながら
それでも自分に幸せをもたらしたソレを愛おしく思った。
それから数時間後
ミランダは少し強めの風が吹く村はずれの崖の上で、朽ちかけた木に身を寄せていた。
空には満天の星が、地にはさっきまで自分と娘が住んでいた貧しい集落が広がっていた。
周りは暗闇で、集落から外へ続く一本切りの地道にも灯りは無く
集落の恐らくは蝋燭か薪の灯りの僅かな光が柔らかくぼやけて見える。
十数年住んできた自分の集落をしばらく呆然とミランダは見下ろしていたが、
やがて、身を寄せていた木を離れ、崖の先端までゆっくりと歩いていった。
吹き上がる風に、綺麗に洗った髪が吹き上がる。
ミランダが崖の下を見ると目も眩みそうな高さだったが、彼女は特に恐れもしない。
その高さこそが、今の彼女にとっては大事なのだから。
「 もういいよね…あんた 」
思い出の中に映る愛おしい男は、
ミランダを見て両手を広げているような気がした。
「 やっと…あんたの場所まで行けるよ 」
小さくそう言うと、少し微笑みながら
ミランダはそのままゆっくりと体を前に倒すとそのまま崖の下へと落ちていった。
ミランダは空を飛びながら奇妙な夢を見た。
真っ暗な中に落ちていったのに、眩い光の中白い雲の上のふわっと降り立ち
あちこち継ぎ接ぎだらけの襤褸の服が、
遠い昔、死んだ男と挙げた結婚式もどきに来ていた服に変わっていた…
貧乏で大した服も買えなかったが、それでも数か月分の男の稼ぎで買った服。
今は質流れで誰が着ているのかはたまた捨てられているのかは分からないが、
ミランダが生涯で一番気に入ってた服だった。
「 ご苦労様でした 」
ミランダが困惑した顔でその声を聴いた。
目の前にミランダが見たこともない女性が立っていたからだ。
凄く大きな女性…金色の髪に海の底の様な深い碧い瞳。
肌は抜けるように白くて、恐らくミランダの様な肉体的な苦労無く皺ひとつない。
「 ああ…お迎えなんだ。天使様だよ 」
しかし、少し違和感はある。
真っ黒いワンピースで丈が異様に短くて豊満な肉体に銀色のピンヒール…
しかし、生まれてこの方どぶ板のような世界で生きていたミランダにとっては、
シミひとつなく光り輝くほど白く汚れのかけらもない女性など見たこともなく、
目の前の女性は、彼女から見れば神にも等しく見えるのだろう。
「 手を取ってください…一緒に行きますわよ 」
その言葉を聞いて彼女は差し伸べられた手を下から受け取った。
ミランダも160半ばを超えてはいたが、
その黒い服の女性は見上げるような大きさで、2メートル近くあるのだろう。
ミランダがその手を取ると…
雲の上に色とりどりに咲き乱れた花々が絨毯の様に広がり始めた。
「 貴方の残した愛の行方は、私が必ず見届けますから心配しないでくださいね 」
こちらを見ずに優しい口調で言われて、ミランダは体を震わせて泣き始めた。
それでも、黒い服の女性に促されて
一歩一歩その道を歩き出す…その先に眩い光を放つ小さな扉が見える。
「 ああ…またか 」
皺が目立つ疲れた女性が力なく呟いた。
村はずれで、大岩に血の花を咲かせたミランダの死体が見つかったのは
日も高くなった昼間の事だった。
生活が厳しく、何の希望も見いだせないようなこの村では飛び降りなど
日常茶飯事なのだろう。
「 まあ、でも… 」
女性は優しい微笑みを浮かべてミランダの死に顔を見た。
これ以上の幸せなどないと言ったような満足した表情だったからだ。




