杖を知る娘と、父を知る娘
ランカシーレは自室に篭って、ずっとずっと泣いていました。目の前に白い杖を置いたまま、ベッドの上で嗚咽を上げていました。
しばらく経って、ノックの音が響きました。
「ラン、私だ。コヨだ。入らせてくれ」
大好きな姉の声が聞こえたので、ランカシーレは白い杖を胸元にしまい、ベッドから下りて扉を開けました。
扉が開くや否や、コヨはランカシーレを無言で抱きしめました。そしてランカシーレの耳元で、重い言葉を口にするようにコヨは告げました。
「ラン。アッペンツェラー家とアハトヴォルケン家は親交が深い、と言われているのが何故なのかを、聞いたことがあるか?」
ランカシーレは首を小さく横に振りました。コヨはランカシーレの頬を撫ぜながら教えました。
「それは、互いの家に生まれた子に名前を付けているからだよ。そして、ラン、君の名を付けたのは……私だ」
「まさか……」
ランカシーレはコヨの顔をまじまじと見つめましたが、コヨは軽く頷いて言いました。
「紛れもない事実だ。現に3歳くらいの私が、いくつかの候補の中からランカシーレという名前を選んだらしい。だから、ランカシーレ、君の名付け親は、私だ」
「そんな……!?」
コヨの言っていることも、コヨの今しがたの口調も、まるでランカシーレには信じられないものでした。
「ですが……あの……!」
「見目くらいどうとでも変えられる。実際にランは昨日の夜だけ、他人には別人のように映っていたんじゃないのか」
コヨの言葉に、ランカシーレは何も返せませんでした。しかしランカシーレは最後に残った疑問を口にしました。
「どうしてお姉様は、お姉様のままの姿で杖を渡してくださらなかったのです?」
「それには……まずどうして私があの杖を手に入れたかを話さなきゃならない」
コヨはぽつりぽつりと言葉を紡ぎました。
「以前に、ここの近くで馬車と馬車の衝突事故があったんだ。悲惨なもので、乗っていた人は皆死んだ。だが不思議なことに、馬車と馬車の衝突事故だと言われておきながら、翌朝実際に現場には馬車が一つしか取り残されていなかった。その近くには腐ったカボチャや動物の死体、そして……この杖が落ちていた」
コヨは言葉を選びながらランカシーレに告げました。
「まもなく私はこの杖がどういうものかを知った。この杖を使えば物を作りだしたり、形を変えたりするのも思いのままだった。空を飛んだり水の中に長く潜ったりすることもできた。実際にこの杖で出来ないことなんて無いんだ。死人を生き返らせることを除いて、だけどな」
コヨは末文を強調してランカシーレに告げました。ランカシーレは強く頷きました。
「ラン。ランの母親が亡くなって以来、アッペンツェラー伯爵がランに手を上げるのを私は我慢ならなかったんだ。なんてったって、ランにはもう、誰にも泣いて頼れる相手がいなくなってしまったのだから。そして実際に私は何度もランの父親に、ランには手を上げないでくれ、と言いに行ったこともある。だけれど……全く聞き入れてもらえなかった。……だから私は、杖にこう願ったんだ」
ランカシーレはコヨの目をじっと見つめながら続きを待ちました。この姉の目が人の死を願う目に見えようか、と思いながら。
そしてコヨはゆっくりと、かつて杖に祈った願いを口にしました。
「『ランの父親は、ランに対して優しくなってほしい』と」
ランカシーレは柔らかな息を吐き、コヨを抱きしめました。しかしコヨは嗚咽交じりの声で続けました。
「その結果が、あの様だ」
コヨは吐き捨てるように、続けました。
「優しくなったランの父親は、ランを助けるために、川に飛び込んで、酷い高熱を背負いこんで、死んだんだ」
ランカシーレはコヨをぎゅっと抱きしめました。誰よりも優しく、何よりもやわらかく、全てを許すかのように。しかしコヨは、
「やめてくれ、ラン……!」
とか細い声を上げました。
「どんなにランの父親が酷い男であっても……! 娘が溺れかけていたら助けるかもしれない……! 放っておくわけない……! 助けを呼ぶなり何なり、手を打つに決まっている……! いわばあのときは……ランの父親が本当はどういう人かを知る、唯一の機会だったんだ……! それを私は……私が杖に頼ってしまったがばかりに……!」
コヨは今にも消えてしまいそうな声で懺悔を紡ぎました。
「私が作り上げた架空の名声を……私はランの父親に付してしまったんだ……! ランの父親が本当は何に命を賭してまで守ろうとしたのかを……私が塗りつぶしてしまったんだ……! 私があの杖を使ったことで……人の死の本当の価値を……失わせてしまったんだ……!」
コヨはランカシーレの服を握りしめながら、最後の言葉を吐きだしました。
「そんな呪われた杖を……アッペンツェラー伯爵の娘であるランに……! この私がどの面下げて渡せばいいっていうんだ……!」
コヨはランカシーレの首許に頭を預け、わずかに身体を震わせながらずっと嗚咽を漏らしていました。
「お姉様」
ランカシーレはコヨの背中を擦りました。
「お姉様がどうなさろうとも、必ず私の父は溺れかけていた私をきっと助けてくださりました。娘である私が、それを分からないはずがありません」
「そんなの、分かるわけ――」
コヨの言葉を、ランカシーレはことさら強い抱擁で打ち消しました。
「いいえ、分かるのです。お姉様が私の屋敷に独りでいらっしゃるようになるより前から、動物に襲われたり怪我をして歩けなくなったりした私を、父は何度も屋敷まで運んでくださったものです。もちろんそのたびにこっぴどく叱られましたし、何度もぶたれました。『伯爵の家の娘がそんな体たらくで、一体どこに嫁げるというのだ!?』と怒鳴られながら」
コヨはランカシーレの胸の中で、何度も何度も嗚咽を漏らしました。
「じゃあ、ランの父親は……ランを……」
「はい。ぶたなくてもいいのに、と思う事こそあれど、全ては私を思ってのことだということは充分理解しておりました」
ランカシーレはコヨの髪を撫ぜながら言いました。
「たしかに死ぬ直前の父は不思議と優しい人でした。しかしその優しさの中に、不自然さなどどこにもありませんでした。父が気難しい人だったのは事実ですが、不器用ながらもちゃんと家族を愛してくださっていた人ですもの。どんな人でも、死ぬ前くらいは唯一の娘に対しては優しくなるものではございませんか?」
「ラン……」
コヨは恐る恐るランカシーレの名を呼びました。
「お姉様」
ランカシーレはコヨの耳元で、全てを許す言葉を囁きました。
「お姉様が最後に祈った願いは、じつは叶えられていなかったのではありませんか? なにせ、鳥に対して『空を飛べるようになれ』という願いなんて叶えられようがないのですもの」
その言葉でコヨは、ランカシーレの胸の中に泣き崩れました。
損ねてしまったと思っていた人の価値が、一番大切な人にしっかりと伝わっていることを知って。
己の浅はかな思いが、決して何かを失わせたわけではないことを知って。
ずっとずっと背負っていた十字架など、ほんとうはありもしなかったのだと知って。
いつも気丈で明るく、あけっぴろげで冗談好きな姉は。
ランカシーレと抱き合ったまま、ずっとずっと泣きつづけました。