空の似合う姫と、地に跪く王子
ランカシーレは夜空のかなたから、王城の中の人気のない庭に下り立ちました。そして何もなかったかのような素振りでドレスの裾をただし、煌びやかな光のこぼれるダンスホールへと通じる階段を上っていきました。
ランカシーレがダンスホールに入るやいなや、紅色のドレスを纏ったランカシーレに誰もが息をのみました。そしてランカシーレが安心したことに、そのとき最も多く発せられた言葉は、
「彼女は誰?」
でした。
ランカシーレは安堵してダンスホールを歩み、最初にダンスを申し出た男性と一曲踊りました。そしてまた一曲、また一曲、とランカシーレは舞踏会でずっとダンスを踊りつづけました。綿雲のようなドレスのおかげで、ランカシーレは軽々とダンスを踊ることができたのです。
幼いころに両親に連れられてやってきた舞踏会では、ランカシーレはうまく踊ることができなかったものでした。しかし今、こうして思い通りのダンスを踊ることができているのです。両親こそこの場にはいませんが、ランカシーレは悲しみにとらわれずに己の人生を歩んでいけると強く信じられました。
次の曲に入る前に、ランカシーレはまたも男性から声をかけられました。ランカシーレはダンスの相手となることを承諾しましたが、その直後に気付きました。ランカシーレと同じくハシバミ色の目をしており、銀髪で体格の良いその男性こそが、この王国の王子だということに。
ランカシーレは王子とのダンスを心から楽しみました。王子に身体を預け、王子に導かれるままに、何度も何度も優雅なターンを繰り返しました。そして最後に、深く礼をして王子の傍から離れようとしました。
「待ってくれ」
王子はランカシーレの手を握りしめて告げました。
「もう一曲、踊ってくれないか?」
「……はい、喜んで」
ランカシーレは微笑んでそう答えました。
王子とランカシーレが何曲も踊るのを見て、周囲の王族や貴族はやきもきしていました。王族の人たちは「あの女性は誰なのか」と知りたがり、貴族の婦人たちは「王子は早くあの女から離れればいいのに」と嫉妬していたからです。しかしそう思う貴族の婦人ですら、王子とランカシーレのダンス姿には少なからず見惚れていました。
王子と三曲目のダンスを終えたときのこと、ランカシーレはちらりとダンスホールの時計を見やりました。「真夜中の12時まであと30分しかない」そう思うやいなや、ランカシーレは王子にこう切り出しました。
「殿下。外の風に当たりたくございます。どうか、お手のほどお放しを……」
「ならばせめて、自慢の庭までお連れしてさしあげよう」
やっと切り出した言葉も虚しく、ランカシーレは王子の手から逃れることができないまま、王子に導かれて外庭に出ました。
その庭には誰もおらず、入り組んだ垣根と技巧的に育てられた樹木のおかげで、ダンスホールの誰からもランカシーレは姿を見られずにすみました。
どうにかして王子から逃れねば、と思っていたランカシーレは、ふいに王子から告げられました。
「残念だ」
王子は立ち止まって、ランカシーレの手を両手で握りしめました。王子の寂しそうな面持ちを目の当たりにして、否が応でもランカシーレは目をそらさずにはいられませんでした。
「俺はあなたにこんなに惹かれているのに……」
ランカシーレの手が王子に手繰り寄せられるのを、ランカシーレは感じました。しかしランカシーレは、没落貴族の娘が王子に見初められた場合にどれほど貴族の反感を買うかを考えるにつけて、王子に一歩近づけずにいました。
王子は大きく息を吐き、諦めを呈した声でランカシーレに言いました。
「あなたは俺のことなど見えなくなるくらいに、他のことが気になってしかたがないようだ」
「いえ……そのようなことは……」
そう口にしつつも、王子に心を見透かされているかのように思えたランカシーレは、最後まで言葉を紡ぐことができませんでした。
そのとき、ランカシーレが驚いたことに、王子はランカシーレの手を離しました。ランカシーレから一歩下がった王子は、ランカシーレに尋ねました。
「もし俺が今あなたに求婚しても、君は断ってしまうのだろう?」
「……………………ごめんなさい」
ランカシーレは目を伏せるよりほかありませんでした。しかし王子の声は穏やかなものでした。
「謝らないでほしい。俺はあなたと何曲かダンスを踊ることができてとても幸せだった。俺もあなたもそれで充分だった。……そういうことにしておけばいい。あなたを束縛することなど、俺にはとうていできやしないのだから」
「……………………ごめんなさい」
ランカシーレは、蚊の泣くような声で答えるので精いっぱいでした。
王子はその場で跪きました。
「またあなたと会える日を楽しみにしています。……どうか、お元気で」
王子はそう言って、顔を伏せました。
「……………………はい」
ランカシーレは後ろ髪を引かれる思いでいっぱいでしたが、やがて意を決してドレスの裾を翻して走り去っていきました。そして垣根を何度か曲がったところで、勢いよく地を蹴って空へと舞いあがりました。
「ごめんなさい、殿下……」
ランカシーレは涙がこぼれるのを感じました。
しかしそれゆえにランカシーレは見落としてしまっていました。ランカシーレが走り去ろうとしてドレスを翻したときに、王子が本当に跪いたまま何もしなかったのかどうかを。