囚われ王子と偽者姫君
ベロニカは必死に走っていた。
月明かりを頼りにヒューの手を引いて、ヒューが何度も転びそうになる。そのたびに、ベロニカの小さな身体も一緒に転びそうになった。
「ヒュー、もうちょっとだからがんばって!」
イバラの垣根を超えて噴水の広場に到着した。そこの石垣に身を寄せて二人で息を整える。ここなら誰にも見つからないだろう。
「はあ、はあ……。ほらね、誰にも気づかれなかったでしょ? ラクショーよ」
「まだ塀の一つも越えてないし」
「でも大丈夫、夜中だもん。みんな寝てるから」
この王宮から逃げるのだ。
ベロニカはモナール公国の姫君。ヒューはアベルナルド公国の王子で、大国、クラウディアの王宮に服従の証として住まわされていた。
「勝手に逃げたらだめでしょ?」
ヒューがいつまでも整わない荒い息で言った。
「ダメでも逃げなきゃ殺されちゃう。私たちの国が反乱を起こしたのよ」
「ただの噂でしょ? 父上が僕を見捨てるわけがない」
ヒューはベロニカの話を信じなかった。ヒューたちは人質だから、国が裏切ったということは、自分たちが殺されるということだ。
「だから逃げなきゃならないのよ」
ベロニカは十三歳。一つ年上のヒューよりも情報通で、なんでもヒューより早く物事を知った。今日の夕食のメインディッシュは、牛もも肉の赤ワイン煮であるとか、どうでもいいことまでヒューに報告に来て、それらの「情報」がいつも正しかったから、夜中にヒューの寝所に忍び込んで持って来た、「自分たちの国がクラウディアに反旗を翻した」という話も正しいかもしれない。
「もう、いい?」
ベロニカは座り込んで動かないヒューの手を引いた。
「ちょ、ちょっと待って。僕、逃げるのはよくないと思う。僕たちの国の反乱が間違っていたらどうするの? 父上に迷惑がかかってしまう。君の国の王様にも」
「馬鹿ね」
ベロニカは呆れて、
「その父上にあなたは裏切られたのよ。反乱を起こしたら自分の息子が殺されるのに、そんなの構わないってことよ。私も、自分の国に裏切られた」
「父上が僕を見捨てるなんて……。やっぱり、そんなことは絶対にない。僕は部屋に戻るから」
ヒューは一人で戻ろうとする。
「せっかく逃げてきたのにダメ!」
「もうすぐお夜食の時間だし、僕、お腹減ったよ」
「お夜食の時間? こんな夜中になにか食べるの?」
「うん。ちょっとだけ」
「なるほどね」
ベロニカは、ヒューの足元から頭までを、大げさに首を上下に振って見た。
「い、いや、太ってないから!」
「そのうち絶対に太ると思う。ヒューのお父さんの王様も太っていたし」
「今日のお夜食は止めにしよう……」
囚われの王宮生活はヒューたちにとって悪くない環境だった。小国とはいえヒューは王子だし、ベロニカは姫君。クラウディアの王宮の一画に閉じ込められてはいるが王族の待遇は受けている。外に出ること以外の我儘をクラウディアの人は聞いてくれて、油断すると身も心も太ってしまいそうだ。
――人質は、暑いときには涼しくしてやり、寒いときには暖かくしてやる。好きな物を好きなだけ食べさせ、欲しい物はなんでも与える。そうすれば、――大抵の者はダメになる。
それがクラウディアの人質教育の方針だった。愚鈍な隣国の王子はクラウディアの幸い。預かった王子は成長して国元に帰ると王になる。将来のダメな隣国の王となるべく、ヒューたちは育てられていた。
「ヒュー、ノンキなことを言わないで。部屋に戻ったら殺されるんだよ?」
「でも、ちゃんと確かめないとだめだよ。だいたい、クラウディアを裏切って勝てるかな? 父上が僕を見捨てたのも信じられない」
「早く!」
「う、うん……」
それでも、半信半疑ながら、ベロニカの剣幕に押されて優柔不断のヒューは付いていってしまうのだった。
「ねえ、その話ってほんとうかな?」
「静かにして! 門番があんなにいる。逃げたのがばれたのよ。もう、だめかもしれない」
「もうだめなの?」
門の前には、夜中だというのに兵隊がたくさんいた。外に出るためにはこの門を通るしかない。兵隊の話す声がヒューにも聞こえてきた。
「人質が二人逃げたぞ! ヒューとベロニカだ」
「自分たちの国が反乱を起こしたことを知ったのだ。だから早く処刑しとけば良かったんだ」
「あいつらは、見つけ次第に殺していい」
物騒なことを兵隊たちは言っている。
門の側の植木の影にベロニカとヒューは身を隠しているしかなかった。
「ほんとう……なんだね」
ヒューは情けない顔でベロニカを見つめた。ようやく、ヒューも事態が飲み込めたようだ。
「わかった? 私たちの国は連合してクラウディアに戦いを挑んだのよ。もう、五日も前のことみたい。私も気付くのが遅れたけど、そう言えば周りの人たちの態度が、この数日おかしかったよね?」
「そうかな?」
「ヒューは気づかなかったの?」
「少しも」
「そういう鈍感なところって、本当に生まれながらの王子様ね」
「ベロニカだって生まれながらのお姫様でしょ」
事態の深刻さがわかっていないのか、植木の影でヒューは笑う。
「しっ……!」
ベロニカは眉根を寄せて唇に人差指をあてた。そして、驚くべきことをヒューに告げた。
「じつは、私はモナールの姫君じゃないの」
「え?」
「替え玉よ。ずっとベロニカ様のふりをしていたの」
「まさか」
ヒューにはその話は信じられなかった。ベロニカのモナール公国とは隣同士の兄弟国で、古くから同盟を結んで助け合ってきたために絆が深い。
「君が偽者のベロニカなんて信じられないなあ。小さい頃から知ってるし」
ヒューはこの王宮に囚われの身になるずっと前から、パーティーの席などでベロニカの姿を何度も見てきた。それどころか、パーティーの席で王族が歓談しているときに一緒に遊ぶこともあって、幼馴染とさえ言えた。
「僕は君がこんな小さいときから知ってるんだよ。僕が五歳で、君が四歳くらいのときに遊んであげた記憶もある。君が本物のベロニカと、どんなに似ていても見間違わない。あれは確かに君だった」
「だから、もうそのときから替え玉をやっていたのよ。私は小さい時から本物のベロニカ様の影武者だったの」
「ほんとう?」
まじまじとヒューはベロニカを見つめてしまった。白いドレス調の寝巻を着て、緩いカールの掛かった美しい金髪はいつものベロニカのものだ。ただ、いつも優しげだった瞳は曇り、不安気にじっとこちらを見つめている。
ベロニカは懐からナイフを出した。きらり……と、月にかざす。
「なあんだ、クッキーでもくれるのかと思ったらナイフか」
まだノンキなことをヒューは言っている。
「それ、冗談? しっかりして。あなた、アベルナルドの跡継ぎでしょ」
「跡継ぎでも腹は減る」
「でも、お腹の心配は、もうしなくて済むから」
ベロニカはそう言うと、ナイフでヒューの心臓めがけて突きを入れた。咄嗟にヒューがそれをかわすが、左腕にかすり傷を負ってしまった。
「い、痛い!」
「おとなしくして。痛くないように殺してあげるから」
「な、な、なっ!?」
事態が飲み込めずにヒューは後ずさり。
「ど、どういうこと?」
「……私たちは人質の身。このままクラウディアの者に処刑されるなど不名誉なことだから、いっそ私が殺してあげる。私もそのあとに喉を切って死ぬから」
「は、はやまらないで!」
「私の国とあなたの国は兄弟国。あなたを守るのも私の仕事よ。あなたを殺してあなたの名誉を守ってあげる」
「そんなせっしょうな」
「ちょっと、変な言い方しないで。こんなときに笑っちゃうでしょ」
「僕は空腹では死ねない。お腹が空くと切なくなっちゃうし、食後のクリームケーキを食べると、ああ、このために生きてるなあ、なんて思うんだよ。せめて、最後にクリームケーキをちょうだい」
「ほんき?」
「まあ、クリームケーキがなくても生きていけるんだけどね。へへ……」
ヒューは、いつものように冗談でベロニカを笑わせようとしたが無駄だった。ベロニカは真剣な顔をして、
「クリームケーキは、あの世で一緒に食べましょう。あなたの王様も、自ら命を絶つことを願っているはず」
ベロニカは言いきった。さらに、
「私たちの国が反乱を起こしたのには深い事情があるのでしょう。あなたは裏切られたんじゃないのかも……。あなたが地力でここを脱出することを王様は願っているはずだけど、それはもうダメみたい。あなたを殺すのは苦渋の決断だけど、しかたがないのよ」
「苦渋の決断? 難しい言葉を使うなあ」
ヒューは大げさに口角を上げて、再びベロニカの笑顔を誘おうとしたが、それも無駄だった。ベロニカはナイフを脇に抱えて、今にも突進してきそうだ。
「そ、そんなことはやめようよ」
「ヒュー、痛くないようにするから動かないで。同じナイフで旅立ちましょう。私の秘密を教えたのは、これが最後という意味よ」
「そのナイフって?」
ヒューがベロニカの持つナイフに手を伸ばすと、ベロニカはなんの抵抗もなくそれをヒューに握らせた。ナイフは食事のときにフォークと一緒に使うものだ。部屋の大理石を砥石代わりに使ったのか、丹念に研がれた跡がある。
「いつの間にこんなものを……。そうか、ベロニカはずっと僕を守ろうとしてくれていたんだね。偉いね」
ヒューはベロニカの頭を撫でてやった。ベロニカはまだ十三歳で、偽者のベロニカとバレないようにするだけでも苦労したはずなのに、いつもヒューを守ろうと頑張ってくれていたようだ。
「ベロニカはずっと一人で頑張ってきたんだね。年上の僕が頑張らないとダメなのに……。よし、まだ諦めたらだめだ。頑張って二人でここから逃げよう。僕たちが生き残る道はそれしかないんだから」
ヒューはベロニカにナイフを返すと、傍らの石を握りしめた。
「門を突破しよう。死ぬのは、それが失敗したときでいい」
二人が逃げたことですでに大騒ぎになっている。塀は絶望的に高く、その外には満々と水をたたえた堀がある。逃げるなら、目の前の門を突破するしかなく、こうしている間にも、城兵が門にどんどん集まってきていた。
「君の本当の名前は?」
見れば、ベロニカの肩が震えている。その肩に手をあててヒューは訊いた。
「私は……ベロニカです。本当のベロニカ様は私のモナール公国の王宮の一室で元気に暮らしています。私は名を捨てました。偽物だけど、ベロニカです」
「ふーん。でも、それでは区別がつかないね」
「ベロニカ様として振る舞うためには、自分の名がベロニカと思い込まなければダメだったのよ」
「わかった。今まで通りベロニカと呼ぶね。ベロニカ、頑張ってここから逃げ出そう」
だんだん、ヒューは精悍な顔つきになってきた。だが悲しいかな、十四歳の少年には、どう頭をひねっても、この窮地を抜け出すアイデアが出てこない。
「あの兵隊……」
ベロニカは大鎧の兵隊をみつけた。身分の高そうな重装の兵隊が、奥に下がるために歩いている。
その兵隊の後をベロニカは忍び足で付けだした。慌ててヒューはベロニカを追う。あの重装の兵隊が抜け道を案内してくれるのか……と、ヒューが思っていると、ベロニカは重装の兵隊におぶさるように襲い掛かった。細い両腕を鎧の隙間に差し込んで兵隊の首に圧力を加える。やがて、よろよろと兵隊は草むらに倒れた。
「早く……!」
鎧が重くて兵隊が動かない。二人は協力して兵隊を植木の影に引き摺って隠した。
「こ、殺したの?」
震える声でヒューは聞いた。
「ちがう、気を落としただけ。すぐに目を覚ますから急がないと」
鎧を剥がして兵隊の手足をしばって猿ぐつわをする。ベロニカもヒューも必死で、その作業が終わると、二人とも汗だくになってしまった。
「はあ、はあ……。ベロニカ、この先は?」
「この兵隊は、門番の近衛兵よ」
「この鎧を僕たちが着るの?」
「ええ。あなたが」
もうベロニカは鎧のひざ当てをヒューの足に付けようとしている。
「き、着れるかな」
十三歳のベロニカよりは背が高いが、ヒューもまだ十四歳で大人と比べると背が低い。それでも鎧を身に付けてみると、まあまあ様になっている近衛兵が誕生した。あとは運に身を任せて門を突破する。
「成功するかな……」
ヒューは首をひねった。
「なんでもやってみないとしょうがないでしょ。それとも、何もしないでここで死ぬ?」
ベロニカはナイフをヒューに向けた。
「い、いや、やってみよう! それを使うのは最後の最後だ」
ベロニカは兵隊が鎧の下に着ていたカーキ色の服を着た。それまでは白の寝巻だったから、これでかなり目立たなくなる。
近衛兵に化けたヒューの脇を歩いて、ベロニカもどさくさに門を突破するしかしょうがない。ばれたら、ナイフで自分の喉を切ればいい……。
「ぼろが出るから、自分からは喋らないでね」
ベロニカが影のように寄り添ってヒューに言う。二人は門にたむろする兵隊の間に入って行った。
「堂々としていれば自然に門を出られるかも」
そうベロニカは言うが、そんなに上手く行くだろうか。つい、門を目指すヒューの歩調は速くなってしまった。
「ヒュー、落ち着いて」
「う、うん」
大門は馬車などが来なければ開かないから、その横にある小さな脇門の前にヒューは突っ立ってみた。しかし、門番はそこを開けてくれない。門番は訝しげに背の低い近衛兵を見つめた。
「門番の交代って言って……」
小声でベロニカがヒューの鎧を小突く。
「……う、うほん! 門番の交代であるぞよ」
「はっ!」
門番が重そうに脇門を開ける。「開いた!」と思って、鎧のヒューがそこを通る。ベロニカも闇に紛れてヒューの横を風のようにすり抜けた。
門を抜けてもその背後に「逃げたぞ!」という声が掛かりそうな気がして、二人は気が気ではなかった。しかし、そういう声は掛からず、しばらくそのまま歩いて、二人は植木の影に隠れた。そこでヒューは兜を脱ぐ。
「ふはーっ! 死ぬかと思った。五年寿命が縮まったよ」
「まだ、ぜんぜん安心できない。あと、この王宮を出るまでに、門が十一箇所あるから」
「まだ十一箇所も?」
そのベロニカの言葉を聞いて、どのみち寿命が尽きて死んでしまうのでは……と、ヒューは嘆息した。
「ベロニカ、この先の門はどうするの? 次の門もこれで突破する? 僕はこれで大丈夫かもしれないけど、こんな夜中に女の子が歩いてるなんておかしいよ。ベロニカはもう通れないかも」
「そうね……」
しかし急がねばならない。やがて夜が明けるし、鎧を剥がされた兵隊に気付かれて、この作戦もおしまいになるだろう。このまま突っ切るしかないとベロニカは思った。
「もう一つ、鎧を奪おうか?」
ヒューはそう提案したが、ベロニカは頭を振った。ヒューも怪しいくらいに背が低いのに、さらに背の低いベロニカが鎧を着たらバレない方がおかしい。
「私は鎧を着て歩けない。このまま行きましょう。一回大丈夫だったから、案外この先も上手くいくかも。堂々といきましょう。バレたら、それまでということよ」
また、ベロニカはナイフを握りしめるのだった。
「なんだか、一度上手く行ったから、僕は死ぬのがもっと怖くなったような」
正直にヒューは言う。
「うん。私だけ門で止められたら、ヒューは一人で逃げて。私はどうせ偽者の姫様だし、私はそこで本を閉じるから」
「本を閉じる?」
「うん。人生の本を」
「ああ……」
ヒューはベロニカが本好きなことを知っている。いつも本を二冊か三冊抱えてどこでも本を読んでいた。
それをベロニカに言うと、
「本物のベロニカ様が本好きだったからよ。私は別に好きってわけじゃないの」
「その、本物のベロニカ様っていうのに、僕は会ったことがあるの?」
「何度かはあったんじゃないかな? あんまりオモテには出てこないけど、大きなパーティーの五回に一回は本物のベロニカ様が出席していたのよ。ベロニカ様は病弱だし、いつ危険な目に合うかもしれない。私がよく人前に出ていたから、今の人質のお役目も出来たんだし」
「じゃあ、ほとんど僕は本物と思って君と接していたんだね。なら、よかった」
「なにが」
「君が誰であろうと、僕の幼馴染は君だから。これからも友達でいようね」
このクラウディアでの人質生活だけでも三年になる。ヒューとベロニカは兄弟国だから三年前に一緒にここに連れてこられた。他の小国の王子や姫君などもここにはいるが、王子同士でいじめもある。ヒューは引っ込み思案だからいじめられることが多かったが、いつもベロニカが助けてくれた。それを思い出してヒューが言う。
「そうか、本物の姫様なら、ああいうお転婆な真似はしないね。あれが君の個性だったんだね。僕の好きなベロニカは、やっぱり君だよ」
なにを言っているのか一瞬わからなかったが、自分の個性の話のようだ。それに気付いてベロニカの顔は真っ赤になってしまった。なるべく自分の個性を隠すように言われていたのに、つい出てしまうことがある。仮面の奥の本当の自分のことを、ヒューは「好き」と言ってくれた。
「ヒューの王様に、『よろしく頼む』って、お願いされたから……」
「でも、喧嘩の助太刀まで父上は頼まないはずだよ。むしろ、そういうのは自分で解決しないと怒る人だし」
「よけいなことをした?」
「ううん、僕は嬉しかった」
夜が白んできた。他に良い手が浮かばないまま、二人は次の門を目指した。近衛兵姿のヒューと、その横をフードで顔を隠した小柄なベロニカがゆく。
次の大門も閉じていたが、脇門は人の往来があるために開いている。そこを鎧姿のヒューが無言で通っても、門番は軽く会釈しただけでなにも言わない。どうやら、二人が逃げたことをこの門の者はまだ知らないようだった。奥の門では、逃げた人質が門を突破できずにそのへんに隠れているだけと思っているのかもしれない。ベロニカもヒューの影に隠れるようにして、あっさり第二の門を突破した。
次の門もその次の門もその調子で通り抜けることができた。むしろ、門を通るたびに警戒は緩くなって、町の通りを抜けるほどの容易さになってきた。元々、王宮の門は来る者には厳しいが、出てゆく者には警戒心も落ちるようだ。
ついに最後の門となった。この門を通ればその先は街道だ。街道は、どこの国にも繋がっている。
「近衛兵の交代である」
嬉しくて、ヒューはそれまで無言で門を通ってきたのに、つい余計なことを言ってしまった。それを門番が咎める。
「近衛兵の?」
「……は、はい」
「近衛兵が王宮の外に何用で?」
近衛兵と名乗った兵隊は子供の体格で、見れば槍も盾も持っていない。声も子供のようで門番は不審がった。
そこへ、
「門を閉じよー!」
と、馬に乗った注進が来た。
「人質が二人逃げた! 怪しい者は誰一人通すな。逃げたのは、十三歳と十四歳の子供だ!」
他の門にも伝えるべく風のように馬は去ったが、残された門番は仰天した。目の前に、それらしい二人が立っている。すぐに門番は首にぶら下げた警笛を吹き、その笛の音を聞いて、ぞろぞろと兵隊たちがやってきて二人を取り巻きだした。
ヒューは自分の背中にベロニカを隠した。
「ベロニカ、君は行け! 門がまだ開いてる。走って逃げろ!」
「ヒューは?」
「僕は鎧だから遅い。ここで、できるだけ食い止める」
「あなたが逃げなきゃ意味がないじゃない!」
ベロニカはナイフを握ってヒューを見つめた。ここで一緒に死のう……と、その瞳が言っている。ヒューの鎧の隙間から、ベロニカは喉元に狙いをつけているようだ。ベロニカの手から、素早い動作でヒューはナイフを取り上げた。
「あっ……!」
「早く行け!」
ヒューはベロニカを突き飛ばすようにして門に押しやる。
「このくらいの囲み、僕一人ならなんとか抜けられる。街道の先で落ち会おう」
仁王立ちでヒューは兵たちの前に立ちはだかった。
「ヒュー!」
「行け!」
「だめよ!」
そのままヒューは門を閉めた。門を閉める背中に数人の兵隊が打ちかかってくる様子をベロニカは見た。だが門が閉まったために、そのあとはどうなったのかわからない。
「ヒュー!」
門を開けようとしたが、すでに閂が掛けられたようだ。ヒューが手製ナイフで応戦しているのか、剣の触れ合う音が中から聞こえる。
「ヒュー! ヒュー!」
だが、門の外にも兵隊がいるはずで、それらがいつここにやって来るかもわからない。ベロニカは街道を走って逃げるのだった。
街道をずいぶん走って振り返ると、遠くにクラウディアの王宮の塔が霞んで見えた。その丘の上でベロニカは佇む。町から遠く離れて、畑の合間の誰も居ない場所だ。
ベロニカが王宮の方をずっと見つめて過ごしていると、お昼近くになって小さな人影が遠くに見えた。もしやヒューでは? と思い、ベロニカは祈る気持ちでその豆粒のような人影を見つめた。だんだん大きくなったそれは鎧を着ていない。だがそれは、下着姿のヒューだった。幽霊ではないようだ。
「おかえりなさい」
ヒューのことを心配していたが、その姿を見ると、ここにちゃんとやって来ることがわかっていた気さえするから不思議だった。
「わたし、ヒューがここに帰ってくることがわかっていたかも。下着姿だとは思わなかったけど」
「ああ、こんな姿でごめんね。鎧は重いし、目立つから捨てたよ」
ヒューは全身に傷を負っているがどれも浅いようだ。その治療をベロニカは手ぬぐいでしてやった。そして、近衛兵から奪ったカーキ色の服をヒューに着せてやる。
「ベロニカ、どういうことかわかった?」
「……ええ。あなたも偽者だったのね。そういえばおかしかった。どうして他の王子たちの言いなりになっていたのか。本当は、刃向う気概も能力もあるのに」
「あぶない。でも、ばれなかっただろ? 本物のヒュー様ならどう行動するか、つねに考えていた。僕もずっと前からヒュー様の替え玉だったのさ」
「でも、あれじゃ馬鹿みたい……。夜食のことを、『お夜食のじかん~。ぼく、お腹減ったよ~』とか」
ベロニカは、への字口をしてヒューの喋り方を真似た。似てないのに、似てる気がしてヒューは吹き出してしまった。
「やりすぎたかも」
「ヒューも……あなたも偽者だったなんて。私、考えていたの。もしかしたら、私はあそこで殺されて、偽者だとバレなければいけなかったんじゃないかなって。それが、私の最後のお役目だったのかなって」
「僕もそんなことを考えていた。それなら、戻って僕らが偽者であることを告げて処刑されなければ叱られる」
「戻らないと……」
崩れそうにベロニカは言った。
助かったと一旦は思って、そうではなかったとわかったときの落胆は大きい。ベロニカの国がクラウディアを裏切り、怒ったクラウディアが人質を処刑して、だがそれが偽者と判明して悔しがる。そこまでが自分の役目のような気がベロニカはしてきた。だから、戻って殺されなければならない。
殺されるときに、
「いまごろ気付いたか!」
と、悪態でもつこうかと真剣にベロニカは考えるのだった。それが、お国のため……。
「でも、あの王宮から逃げられたなんて痛快じゃないか。このまま逃げてもいいような気がしてきた」
ヒューは明るく言う。
「でも、お役目が……」
王宮に戻ろうとするベロニカをヒューは必死に止めた。
「待って! 僕らがこのまま姿をくらませば、誰にも真実はわからない。誰にも迷惑が掛からなくて、最高の結末だと思わない?」
「そうかなあ……」
ベロニカはまだ戻るべきか迷っているようだ。だが、だんだんヒューの言いう通りの気がしてきた。偽物とばれなくて逃げ切ったのなら、確かに最高の結末だ。
「そうね……。そうかもしれない。逃げきった姫様のベロニカと、王子様のヒューはすでに国元に居る。あとは私たちが消えればいいのね」
「うん。消えればいい」
ヒューはベロニカのナイフをまだ持っていて、それを懐から出した。
「僕らはここで死ぬ」
「うん。いいよ……」
人はどうせ死ぬのだ。ベロニカは跪いて瞳を閉じた。胸の前で両手を組む。
――ここで二人は死ぬ。
ベロニカは両手を組んだ刹那に夢を見た。彼女は、本物のベロニカと似ているだけに王族の血が流れていて、王家の末族の者だった。病弱な本物のベロニカにもしものことがあったなら、自分が姫君として過ごせるのではないか……。そう思ってきた。その夢の流れで姫様としての華やかな生活。そのまま歳を取る。そばにはずっと、ヒューが居た――。
ヒューは両手を組むベロニカを見て、流れ星が落ちるような速さでナイフをきらめかせた。虚空をナイフで突き刺す真似を二回して、小川にナイフを投げ入れる。
「僕らは今、死んだ。僕らは本当の僕らに戻ろう。僕の本当の名前はレオ」
「……私は、マリアンネ」
しばらくして、肩を寄せあって街道を歩く二人の姿があった。二人の国に背を向けて。新しい一日に向かって。〈了〉