ディ沼尊い
ズン、と身体の芯に響くような低い音と共に、私の視界が小刻みに上下した。
とある国の三十階建の高級ホテル。その二十階にある大ホールにて、世界中の富裕層の人間を中心とした煌びやかな新年会が行われていた。
日本のしがない中小企業の、一応は社長令嬢と呼ばれる立場である私も親に頼み込まれて渋々ながらパーティーに参加していたのだけれど、その会場が唐突に揺れ動いたのだ。
ほどなく建物の振動は治まったが、当然のごとく、場はしばし不穏なざわめきに包まれる。
そんな会場内で、私は彼らとは全く別の理由によって放心し、呆然と立ち尽くしていた。
目映いばかりの光景の中、揺れるシャンデリアを、ワインやカクテルが飛び散る様を目の当たりにした瞬間、私の中にありえない記憶が浮かび上がってきたのだ。
全く知らない世界の、微塵も知らない誰かの記憶が、まるで忘れていたことをふと思い出す時のような気軽さで唐突に私を侵食した。
それが自らの前世なのか、彷徨える魂に憑依されてしまったのか、テレパシーのような何かを受信してしまったのか、精神の病を発症してしまったのか、恐ろしくリアルな夢を見ているのか、そんなことは分からない。
ただ、その私の知らない誰かの記憶は、すぐに私自身の記憶となった。
融合、という表現が感覚として一番近いかもしれない。
とりあえず、記憶が前世の私のものだったと仮定して、それによれば、ここと以前の私が生きていた世界とでは、良く分からないが、時空だか次元だかが違っているらしい。
歴史や国名など、ほとんど全てが酷似している世界観でありながら何故そう断定できるのかと問われれば、前世の私が住んでいた世界に、今この時間、この場所を舞台とした乙女ゲームと呼ばれるものが存在していたからだと答えるだろう。
そのゲームの名前を「GUN’S RUMBLE」といった。
通称はガンラブで、恋愛シミュレーションとタイピングが融合した珍しいジャンルのゲームだ。
そして、それは素人が作ったパソコン専用の無料ダウンロードゲームだった。
攻略キャラクターは多国籍な渋いオジさんたちで揃えられており、彼らは全員「SUPERWEED」という傭兵部隊に所属している、という設定になっている。
製作者によれば、○クスペンタブ○ズという映画のシリーズの登場人物たちが格好良くて、こういうキャラを攻略する乙女ゲームが欲しすぎて欲しすぎて自作してしまった、ということらしい。
主人公は、腰まで届く黒髪と腹筋が割れ引き締まっていながらもムチムチとしたボディが特徴の二十歳の女性だ。
殺された父の仇を討つという目的を隠し、彼らのチームに入隊したところから物語は始まっていた。
そして、選択肢やクイズ形式のミニゲーム、メインのタイピングゲームなどをこなして自身のパラメーターや攻略対象の好感度を上げつつ、ストーリーを進めていく。
これまでにない異色な世界観やキャラクターが良かったのか、極一部にカルト的な人気を誇るガンラブは、素人作でありながら何度と関係グッズが発売されていた。
そんなファンたちの中でも、前世の私は殊更このゲームに執心していたように思う。
いや、厳密にはガンラブにというよりは、その攻略キャラの一人であるディックという名の男を心底愛していたと言った方が正しいかもしれない。
敢えてオタク的な用語を使うのならば、前世の私はガンラブクラスタのディ沼住人と呼ばれる存在だったということだ。
クオリティの高いファン動画などに液晶邪魔コメントだの鼻血コメントだの、しょっちゅう投稿していたような痛い人間だった。
……ともあれ、今日この日、このホテルはそんなガンラブの最終ステージとなっていた。
ピンキリあれど、各国の富裕層集うここに国際的テロ集団が現れるという情報が入ったとかで、それを阻止するために傭兵部隊の中でも指折りのチームである彼らが雇われた、という流れだったはずだ。
作中に一瞬映る書類に英語でそんなようなことが書いてあったと、熱心なファンが訳してネットに投稿していた。
もし、主人公が優秀だったのならば、今回のように建物が揺れるなんてことは有り得ないという事実を私は知っている。
彼女の知力パラメーターとそれまでのタイピングの成績……今の現実で言うなら、ここまで培ってきた戦闘の経験を活かし発展させるだけの知能と射撃の腕が一定以上ならば、彼らは私たち会場の人間に何一つ異常を気付かせることなくミッションを終えることも出来たはずだった。
つまり、「揺れた」ということは、事前に有効な作戦を考え付けなかった主人公が、現在ホテルステージで最も難しいミッションを遂行中であるということに他ならない。
そんな彼女が地に伏し、ゲームオーバーを迎えてしまった時……全てが終わる。
建物は倒壊し瓦礫の山と化す。
当然、会場の人間も傭兵チームの皆も、問答無用で全員死亡の最低のバッドエンドとなる。
思い出してゾッとした。
私は今、唐突に死の淵に立たされているのだ。
この世界に実在する主人公の実力は私の知るところではないけれど、ゲーム時代、彼女の腕が生き残り人数に大いに関係していたことを考慮すれば、安心は全く出来なかった。
コンテニューのない現実世界で最終ステージまで漕ぎ着けたことは評価に値するが、成績的には常にギリギリであったのではないかという予想がつく。
そのままラインギリギリでもクリアしてくれるのなら良い。
でも、さすがに見ず知らずの人間の成功を疑うことなく信じるなんて、私には到底出来そうになかった。
……動くなら一人だ。
大勢の罪の無い人間が死ぬかもしれない可能性に気付いていながら、見捨てるような真似をするのは心苦しいが、現実問題として、圧倒的に立場が上で何も知らない彼らを説得し避難させるだけの何もかもを私は持っていないのだ。
それに、機転を利かせて誘導が成功したとして、逆にホテル内を縦横無尽に駆け回るSUPERWEEDの面々の邪魔になってしまう確率だってゼロじゃあない。
ゲームに存在しないイレギュラーが現実にどんな作用をもたらすのか、分からないだけに恐ろしかった。
これで、本当にホテルが倒壊して自分一人だけが生き残ってしまったのなら、きっと死ぬまで罪の意識に苛まれながら生き続けなければならないのだろう。
富裕層の人間が集まっているからには、世界経済に混乱が起こる可能性だってある。
たとえ私を罰する者がいなかろうが、残りの人生が地獄と化すであろうことは目に見えていた。
それでも、私は震える足に活を入れ、たった一人でざわめきの収まりつつあるホールを後にした。
ついでに、お抱えの運転手にホテル前まで迎えに来るよう電話しておく。
臆病風には吹かれているが、単身逃げ出すためではない。
好感度または最終ミッション中間成績が特定ポイントを下回っていた際に発生する、ディック死亡イベントの現場へ向かうために抜け出したのだ。
主人公がディック狙いで正しい会話を頻繁に交わしてきていない限り、傭兵として最低限の実力をつけてきていない限り、彼は死ぬ運命にあった。
しかし、前世の自分と融合し、同じく彼のことを深く愛してしまった私にとって、それは到底受け入れがたい事実だ。
まぁ、愛だ何だと言っても、相手はどう足掻いても二次元のキャラクターで、恋人にしたいだとか、まして結婚したいなどとは考えたこともない。
そもそも人間としての格が違いすぎて、想像するのも烏滸がましいというのが自分の考えだった。
ディ様(ファンによる彼の愛称)になら殺されても幸せだろうなどと半ば本気で夢想するような、信者のような惚れ方をしていた。
だから、その信者の私が、神にも等しい彼の元に駆けつけるのは当たり前のことなのだ。
イベントで、ディックは投げつけられた手りゅう弾から主人公を庇って致命傷を負うが、即死はしていなかった。
直後、自らの血に塗れながらも気力を振り絞ってその場の敵を殲滅し、主人公を先に進ませてから、倒れ込んで目を閉じるというムービーシーンがある。
けれど、本当に彼の死が確定したのはミッションクリア後。他の仲間から報告が上がった時だ。
故に、瞼を落とした直後であれば、彼はまだ意識を失っただけの状態なのかもしれないと私は考えた。
ならば、すぐに適切な治療を施せば、その命を繋ぐことが出来るかもしれない。
仮に死んでいたとしても、万が一にも倒壊する恐れのある建物に愛しい人の身体を捨て置きたくはない。
そんな想いで、私は自らの足を動かしていた。
一掃された後とはいえ銃撃戦の現場だ。
もしかしなくても危険な場所だ。
死ぬかもしれない。
死ぬかもしれない。
恐怖に吐きそうになりながら、それでも歩を進めた。
落ち着け、私。落ち着け。
相手はテロ集団だ。見つかれば、おそらく問答無用で殺される。
私が死ねば、彼も確実に死んでしまう。
元よりゼロに近い可能性が、完全なゼロになってしまう。
冷静さを欠いた奴から死ぬんだって、ディ様も言っていたじゃないか。
大丈夫。
ゲームだった時は何度もプレイを繰り返した。
MAPは全部頭に入っている。
敵がいつどんなタイミングで主人公の前に現れるのか、身体が勝手に動くレベルで覚えている。
今の時間なら、主力部隊は別の階に集まっているから、彼のいる場所は比較的安全なはずだ。
自らに言い聞かせながら、一歩また一歩と現場に近付いていく。
そして、いくつかのテロリストの死体を越えた先で、ついに私は発見した。
ガンラブ完全攻略のため周回プレイをしていく中で、一度も飛ばすことなく見続けたムービーの、そのラストシーンと全く同じ格好で倒れているディックらしき存在を。
あぁ、ディ様! リアルのディ様!
なんて御労しい!
駆けつけ、血や埃で汚れる逞しくも痛々しい胸部に耳を張り付けた。
強く目を瞑り意識を集中させれば、かすかに彼の命の音が響いてくる。
っ良かった! まだ心臓は動いている!
生きている! 彼は生きている!
嬉しくて、嬉しくて、熱い涙が自然と目から溢れてきた。
前世、人生をかけて惚れ抜いた男を救済できるかもしれないのだから、これで高揚するなという方が無理な話だろう。
が、そうそう浮かれてばかりもいられないと、軽く頭を左右に振る。
たった今この瞬間にも、彼は死と戦っているのだ。
ディックの状態を確認したことで、私の意識はガラリと切り替わったようだった。
勇気にも似た熱く力強い感情が全身を満たしている。
それから、私は急いでハンカチやスカーフ、引き裂いたドレスなどの布を出血部位に巻きつけていった。
応急処置になんか詳しくないからこれだけしか出来ないけれど、何もしないよりはマシなはずだ。
すぐ傍に彼の愛用の銃が転がっていたので、安全装置をかけてから絶対に落とさないよう胸元に入れ込む。
折角の武器だが、私が使う予定はない。
彼の銃は、威力は高いが反動の強いタイプで、間違ってもドがつく素人が扱えるような代物ではないからだ。
さて、次は彼を確実に安全であるホテルの外まで運び出さなければならない。
確か救急関係で、体格差のある相手でも運搬できるような方法があったはずだ。
引きずる形になるため、彼の身体に負担がかかってしまうのは確実だが、他に助けてくれる人もいないのでは仕方がない。
覚悟を決め、私は仰向けに倒れているディックの頭側から両肩の下に手を入れ、少し持ち上げたところで背に右足先を入れながら起こしていった。
そうして、ある程度起き上った身体の脇の下から自身の両腕を入れて、ディックの両前腕を外れないようしっかりと握り、ゆっくり立ち上がる。
それから、彼の腰が少し浮く程度に持ち上げたところで、引きずり移動を開始した。
ディックの身体は大きくて、彼の命はとても重くて、あっという間に息が上がり腕も足も悲鳴を上げ出したけれど、立ち止まることだけは絶対にしないと歯を喰いしばった。
自分の呼吸音が、やけに大きく聞こえていた。
二十分ほど彼を引きずった先のエレベーターホールで、視線を落とし腕時計を確認する。
今ならまだ、使えるはずだ。
さすがに他に選択肢がある状況で階段を降りる勇気はない。
そのエレベーターも、もう五分もすればテロリストたちの手によって物理的に停止させられてしまうけれど、逆説的に言ってしまえば、その時までは安全ということになる。
一度ディックを横たわらせて、下行きのボタンを押した。
ほどなく到着したそれに、急いで彼の巨体を引っ張り入れる。
あと、もう少しだ。
乗り込んだエレベーター内で一階のボタンを押せば、すぐに分厚い鏡のような扉が閉まった。
即座に出ていけるように、体の位置を調整しておく。
ここまでピクリとも動かないディックの姿が改めて目に入り、胸中に言い知れぬ不安が押し寄せた。
「……あぁ、神様。神様。どうかディック様を助けて下さい。
彼は不器用で、偽悪者で、誤解を受けやすい人だけれど、とても頑張り屋で、強く優しい心を持った、素敵な人なんです。
残酷すぎる過去を持ちながら、それでも人を世を恨むことなく育った立派な人なんです。
すごく気付きにくい、回りくどい方法で、こっそり皆を守っていたりする、恥ずかしがり屋な愛情深い人なんです。
生い立ちのせいもあって笑うことに慣れていなくて、主人公に初めて見せてくれる笑顔もすごくぎこちないのだけれど、むしろそんなところが可愛くて、愛しくて、尊くて……。
だから、どうしても彼には生きて欲しいんです。
相手は主人公じゃなくてもいいから、家族を持って、本当の幸せというものを知って欲しいんです」
自らの気力を奮い立たせるために、荒れる息の隙間から小さく願いを口に乗せる。
階下までの僅かな時間が、今の私には永遠にも等しく感じられていた。
~~~~~~~~~~
そんな事件から数ヶ月。
私はすっかりいつもの日常生活に戻っていた。
今の自分はどこにでもいる女子大生だ。
あの後、私は無事にディ様を病院へ送り届けることに成功していた。
そして、治療を施した医師から彼が命を取り留めたと聞き、お金だけを置いてその場を立ち去った。
私のことは口止めしておいたので、これでもうガンラブ世界と関わるような日は二度と訪れないだろう。
ニュースで確認した限りでは、主人公も何人かの犠牲を出しつつも、きちんとミッションをクリアすることができたようだった。
大団円、とまではいかないがトゥルーエンドくらいは迎えられたと思って良いんじゃないだろうか。
もちろん、ディ様を助けられたという一点だけで、私にとってはハッピーエンドだ。
今もこの世界のどこかを駆け続けているのであろう愛しい人の姿に思いを馳せながら、私は大学構内の広場をのんびりと歩いていた。
夏を控えた春の日差しは未だ柔らかく、優しい風が頬を緩やかに撫でていく。
とても心地の良い日だった。
しかし、次の瞬間。視線の先に有り得ないものを見たような気がして、私は咄嗟に顔を俯けて目元を数回擦る。
それから、気を取り直し再び前方を向いてみれば、そこには見覚えの有りすぎる男が立っていた。
「ディ……ック……?」
呆然と呟いた途端、男は勢い良くこちらに首を回して、ガン見すると同時に早足で歩いて来た。
突然のことに反応できずにいると、あっという間に距離を詰めた彼に肩を両手で掴まれてしまう。
「ようやく見つけた。間違いない、お前だ」
「ふぇひぇえいっ!?」
何もかもが唐突すぎて、思わず奇声を発してしまった。
恥ずかしさから顔を赤くする私に気付いているのか否か、ディックはまるで逃がさないとでもいうかのように指に力を込めてくる。
「アレだけのデカい借り押しつけておいて、トンズラたぁいただけねぇなぁ?
やたらこっちの事情に詳しいみたいだが、だったら俺がソレを大人しく受け取ってやるようなタマじゃねぇってコトも分かってんだろ」
言って、彼は私を据えた目で見下ろした。
なぜかは分からないが、ディックはこちらのやったことを正確に把握してしまっているらしい。
正直、混乱のバッドステータスでも食らったかのように思考がまともに働かない状態になっていた私は、ただ鯉のようにパクパクとロを動かすことしかできなかった。
やがて、歪んだ笑みを浮かべた彼が、再び言葉を紡ぎ出す。
「フン。何で知ってんのか分からねぇって面だなぁ?
簡単なことだ。全部聞こえてたんだよ、あの時。
身体は動かなかったが、意識は辛うじて残っていた」
「…………ぬぇ?」
「理解の及ばねぇ箇所もあったが、まぁ大概好き放題言ってくれてたよなぁ?
ったく。怪我の前に羞恥で死ぬかと思ったぜ、このストーカー女」
その台詞の意味が脳に浸透するまでに、些かの時間を要した。
そして、全てを把握した時、私は……。
「くぁwせdrftgyふじこlpーーーッ!」
人間であることを止めた。
~~~~~~~~~~
それから更に数ヶ月後。
「おい、いい加減に観念しろ」
「ごめんなさい無理です私には無理です荷が重すぎます無理ですぅぅ!」
私は今、全くもって意味不明なことに、強引に彼の人生を捧げられそうになっていた。
借りが大きすぎるから一生かけて返すとか何とか言いつつ、押しかけボディーガードという名のストーカー被害にあっているのだ。
しかし、実際はそれも口実で、単に毎日口説かれているだけのように思えるんですが気のせいですかね私が自意識過剰なんですかねディ様ぁぁ。
そもそも、本来の偽悪者キャラどこに捨ててきたんですか?
なんだか発言が悉くストレートになっちゃってるんですけど!?
そのくせ、そんなディ様も悪くないとか思っちゃうあたり私も末期だ。
前世で二次創作慣れし過ぎたのかもしれない。
「いいから黙って守らせろよ」
「ひぃぃダンディーッ! 耳元で囁かないで下さいぃ!」
真っ赤に染まる顔を両手で隠してしゃがみ込めば、頭上からクッと喉の鳴る音がした。
きっと最近よく見る人の悪そうな笑みでも浮かべているのだろう。
どうにも落ち着かない気持ちを誤魔化すように、私はうずくまったまま彼に質問を投げかけた。
「というか、ディ様SUPERWEEDのお仕事はどうしたんですかッ」
「…………抜けた」
「はぁ!?」
あっさりと返された驚愕の発言に思わず顔を上げてしまう。
あのチームは天涯孤独の身の上の彼にとって、家族のように大事な仲間たちのいる、唯一の帰るべき場所であったはずだ。
それを、抜けた……?
「アソコでやっていくのは、今の俺にはもう無理だ。
ま、元々金に困ってたワケでもねぇし問題……」
「っまさか、あの時の怪我が原因で何か後遺症が!?
大丈夫なんですか! 痛みは!?」
反射的に立ち上がって、ディックの全身を見やる。
もし本当にそれが事実なのだとしたら、私は彼を助けたつもりで、逆に死ぬよりも辛い目に合わせてしまっていたのかもしれない。
唇を噛み、眉尻を下げて瞳を潤ませれば、間を置かず呆れた様なため息が落ちてくる。
「そう大げさに取ってくれるな。
指の反応速度がコンマ遅くなった程度のことだ」
「……それでもトップグループの傭兵としては致命的、だったんですよね?」
「まぁ、そうだな」
「っごめんなさい、私が……」
「謝るな。お前は最善を尽くしただろう。
そもそも、戦場で傷なんぞを負ったマヌケは俺自身だ。
助けられて感謝こそすれ、恨むわけもない」
穏やかな声でそう告げられて、私は自身の目から零れ出る涙たちを止めることが出来なかった。
彼の悲しいまでの優しさが、心に痛かった。
「……多分、アレだろう?
どんな手品を使ったのかは分からんが、お前は俺があの隊にいた本当の理由を知っているんだろう」
本人以外、絶対に知り得ないはずの情報を所有する怪しすぎる存在の私に対し、ディックはこれまで一度たりと言及して来たことはなかった。
きっとそれは、律儀な彼が本気で私を恩人だと考え感謝しているということの証しなのだろう。
「だから、俺がココに立ってることに罪悪感があるってか。
……だったら、今からソレに付け込んでやるから、そのまま悪いと思ってろよ」
「ふぁひっ?」
唐突に聞こえてきた不穏な言葉に、私は末だ濡れる目を見開いて顔を上げた。
その先で、ディックはとても覚えのある、人の悪そうな笑みを浮かべていた。
あ。これ、絶対アカンやつや……。
「あの日、俺はすでに死を覚悟していた。
だが、お前により生きることを強制され、その結果として俺はたったひとつの居場所を失った。
とすると、だ。
俺が今している苦労はお前のせいってコトになるな?」
「んな、ななに、何を……」
「あの時、言ってたなぁ。俺に家族を持って欲しいって。
お前、責任とってソレになれよ」
「……………………………………娘?」
「嫁」
ですよねー。
唇の端を引き攣らせながら悪あがきをしてみるも、あっさりと訂正されてしまった。
詰みだ。
諦めの境地からガックリと肩を落とし、右手で両目を覆う。
私ではきっと彼を幸せには出来ないという思いから今日まで粘りに粘ってみたけれど、やはり信者ごときが神に抗えるわけがなかったということなのだろう。
確かに愛はあるが、私のディックに対するそれは逆にありすぎてドン引きされてしまうレベルのもので、彼が余程特殊な趣味を持っていない限り多大な自重が必須となる。
間違っても、ディ様の吸った空気ハァハァなどと口にしたり、ましてや全力で身悶えたりしてはならないのだ。
違う意味で辛い、自分を殺し続ける夫婦生活を送らなければいけないことは確実だった。
これがもし、本来変えられないはずの世界の運命に介入した反逆者への罰なのだとすれば、随分と甘美な地獄だと思う。
とは言え、罪人は裁かれるものであり、抵抗の手段を持たない卑小な人間としては甘んじて受け入れるしかない……。
「俺の帰る場所はとっくにお前になってんだ。
理屈はいらねぇ。さっさと覚悟を決めろ」
「うぅ……じゃ、じゃあ、クーリングオフはいつでも受け付けます、から、嫌になったらすぐ捨てて下さい。
私、ディ様の負担になることだけは本当、耐えられないので、本当」
「あー、分かった分かった。覚えておく」
私のどこまでも後ろ向きな返答に、それでもディックはゲームの中でも見たことのない、とても嬉しそうな笑みを浮かべていた。
あぁ、殺される。
たった今、私の心臓は期間無期限の超過剰重労働を強いられることが決定した。
彼を早々孤独にしないために、「生物の心臓が一生で打つ鼓動の回数は決まっている」などといった情報が都市伝説であることを切に願う。
おわり
ディ視点SS↓
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