自販機からイクリプス
姉の陽子が、自動販売機に入ったきり出てこないという。
取り出し口の隙間から、リンボーダンスをするように入っていくのを、クラスの友達が見たというのだ。
場所は、商店街から右にそれた細道の、クリーニング屋の前だ。風太はさっそく行ってみることにした。
「そうですか。見かけないと思ったらそんなところにいたんですね」
兄の月ノ介は、さして驚きもせずに言った。もっとも、何を聞いても兄はこんな調子なのだ。風太は肩をすくめた。
「さあ。本当に姉ちゃんかどうか、行ってみないとわからないよ」
「他の人だったら窒息してますよ。風太、出かける前に布団干してってください」
風太は布団をかつぎ、縁側から大きくジャンプして物干し竿にかけ、そのまま竿を跳び越えて外に出た。生きて帰ってくるんですよ、と兄が後ろから言った。
「うー、さむさむ」
商店街を駆け抜け、狭い道に入る。さっそく自動販売機を見つけると、ついホットココアのボタンに手を伸ばしそうになる。
「いや、ダメだダメだ。中に姉ちゃんがいたら何されるかわかんないぞ」
姉といえば、子どもの頃の姿が強烈に思い浮かぶ。ひどかった。とにかくひどかった。蹴って寝かしつけられ、たわしでこすって洗われ、逆らえば鼻の穴にわさびを入れられた。
大人になって家を出てからは、たまにしか帰ってこない。風太はたいてい学校へ行っているので、ほとんど会ったことがないのだ。
変わってませんよ、と兄は言う。姉のような性格が簡単に変わることはまずないらしい。
「姉ちゃーん」
風太は自動販売機を叩いて言った。
「姉ちゃーん。いるんなら出てこいよ。筋肉痛になっても知らねえぞ」
叩きながら、だんだん馬鹿馬鹿しくなってくる。本当にこんなところにいるのだろうか。冷たい風が吹きつけ、鼻の奥がぴりぴりと痛む。
「風太くんじゃない?」
猫の首輪につけた鈴のような、朗らかな声がした。
振り向くと、長い髪をツーサイドアップに結わえ、ピンクのダウンコートに身を包んだ女の子が立っていた。
風太は飛び上がり、駆け寄った。
「りん子! ひさしぶりー! 買い物?」
「もう帰るところよ。風太くんこそ、何してるの」
りん子はただのご近所さんではない。風太や月ノ介の話を聞いても動じたり引いたりしない、希有な女の子なのだ。ここはひとつ、相談してみるしかない。
「じつは、うちの姉が」
話し始めた時、りん子の胸に光るものを見つけた。よく見ると、それは服についているのではない。体の内側から、光が丸くにじんでいるのだ。
「そ、それ!」
「え?」
「りん子、もしかして、この自販機で何か買った?」
りん子はきょとんとして、自動販売機に目線を移す。
「コーヒーを買ったことがあるわ。太陽の絵がついてるやつ」
「た、太陽? それは……」
「でもずいぶん前よ。秋ごろだったと思うけど」
姉だ。間違いない。
姉は、太陽が大好きだ。陽子という名前の通り、陽の差す暑い昼間には特に活気づいた。絵を描く時はいつも真っ先に太陽を描いたし、服やバッグにも太陽のアップリケをつけていた。
そして信じられないことに、自分が太陽に変身することもできたのだ。
あれは寒い冬の夜、風太と月ノ介を連れて銭湯へ行く途中、道を照らしてあげると言って、陽子は小さな太陽になった。そして核融合を起こし、近所に多大な迷惑をかけた。燃えさかる炎の輪の中に姉の顔が輝いているところを、風太は何度も夢に見た。早い話がトラウマだった。
「なるほど。私は風太くんのお姉さんを食べちゃったってわけね」
りん子は腹をさすりながら言った。もっと上だよ、と風太は言った。どうやら、りん子には光が見えないらしい。
「やばいよ、早く出さなきゃバクハツする」
「今まで大丈夫だったのよ」
「それがキセキなんだよ。ひょっとして、内臓食い荒らして眠ってんのかも」
りん子はくすくす笑い、面白いお姉さんね、と言った。
「とにかく兄ちゃんに見せよう。刺激しないようにそーっと、そーっとな」
「大丈夫よ。この数ヶ月、普通に走ったり飛んだりしてたもの」
二人は商店街を戻り、自転車を避けながら横断歩道を渡った。今にもりん子の体から、太陽がボカンと飛び出すのではと、風太は気が気でなかった。
かばかば亭のチョコレートを買っていこうとりん子が言ったので、駅前の店に寄った。バレンタインが終わり、人気のトリュフも半額になっていた。
「風太くんはココア、月ノ介さんはオレンジリキュールが好きでしょう?」
「当たり! すげーな、りん子って」
これはお姉さんに、と言って、コニャック味も買った。りん子の胸で、光が一瞬強まったようだった。
兄は来客があるのがわかっていたように、部屋を片付け、お茶を用意して待っていた。りん子の胸元を見ると、ああやっぱり、という表情をした。
「姉が迷惑をかけたようで、すみません」
「月ノ介さんが謝ることないわ。それに私、何ともないのよ」
「そうですか。じゃあ、このままでもいいですね」
おい、と風太は言った。兄はりん子に座布団をすすめ、お茶を注いでいる。
「いいですね、じゃねえだろ。耳かきでもアイスピックでも使ってほじくり出さなきゃ、りん子が死んじまうよ」
「そんなことしてどうするんです」
兄は風太の分のお茶を座卓に置いた。
「まずは落ち着きましょう。下手に騒いだら姉の思うつぼです」
風太は口ごもった。今この瞬間にも、姉がりん子の胸を突き破るかもしれないのに。
当のりん子は、買ってきたチョコレートの包みを開けて並べている。
「これがオレンジ、こっちがココアね。それで……あら、どうしよう」
陽子のために買ったチョコを、どうやって渡せばいいのか。りん子は胸をさすって悩んでいる。
「私が食べれば、お姉さんにあげたことになるかしら」
風太は思わず笑った。
「気にすんなよ。姉ちゃんはどうせ、オシャレなスイーツとか興味ないから」
りん子の胸で、ちかちかっと光が瞬いた。確かに、と月ノ介もうなずいた。
「コーヒー豆食べてれば満足する人ですからね」
「油断すると一缶、いや五缶ぐらいは食い尽くされちまうけどな」
ちかちかちか、と光が強まり、ボッと音がした。
りん子の胸に、黒い炎の花が咲く。その中心部から、手裏剣のように回転しながら太陽が現れた。
「あんたら、黙って聞いてりゃ……」
ぎゃああ、出た、と風太は叫んだ。兄はフライパンを持ち、太陽の行く手に立ちはだかった。
太陽はコースターぐらいの大きさで、薄べったい。それでも赤黒く燃え、すさまじい熱気を発している。そして、中心部分の顔はやはり陽子のものだ。
「来ましたね」
兄はフライパンで太陽を打ち返した。太陽は回転しながら壁まで飛び、縦向きに刺さった。
「オレンジとコンニャクの違いぐらいわかるわよ! あとコーヒー豆バカにすんな」
太陽は壁からすぽっと抜け、風太を真っすぐ狙ってくる。風太は天井近くで宙返りをし、座卓の上に立った。急須のふたを取り、誘い込もうと構える。
「はっ、見え透いた手だわ」
太陽はギアソーサーのように回り、風太の足元を狙う。風太は跳んでかわしたが、ズボンの裾がばっくり裂けた。
「こ、こ、殺す気かよ姉ちゃん!」
「あら、あんたはいつも喜んでたわよ。窓からぶん投げても、おまんじゅうに火薬詰めても、にこにこ笑ってたじゃない」
そうでしたね、と兄も言った。
そんなことは覚えていない。きっと、記憶も残らないほど叩きのめされたのだ。かわいそうな俺、と思いながら、風太は座卓の上を飛び回る。
「陽子さーん。こっちこっち」
りん子が部屋の反対側で、チョコレートを次々と投げ上げて口でキャッチする。ぱくりと飲み込み、挑発するように笑いかける。
「おいしーい。でも陽子さんはコーヒー豆しか食べないなんて、残念だわ」
「おのれ小娘! 私はハトか」
太陽はりん子に向かっていき、がぶりと手に噛みついた。ぎゃっ、と風太は声を上げたが、よく見ると器用にチョコレートだけを噛み取っていた。
「んんっ! これは……これは……!」
太陽はぐるぐると回りながら、赤やオレンジに点滅する。口いっぱいに含んだチョコを、燃やすように、溶かすように、激しく味わっている。
「これが……これが……コンニャクなの?」
「コニャックよ」
「ああっ! ああああああっ!」
太陽は目をむき、まばゆい光を放つ。風太とりん子は部屋の隅まで飛ばされ、ひっくり返った。
いまです、と兄が言った。
風太はよろけながら押し入れを開けた。そこには、等身大の古い姿見がある。太陽が近づくと、曇りのない鏡面にその姿が映った。
まるで二つの太陽が同時に現れ、ぶつかったようだった。
太陽は自ら放った光に跳ね返され、飛ばされていく。甘苦いコニャックとチョコレートの香りが、火の粉とともに舞い散る。
「ああっ、コニャック、コニャックゥゥゥゥゥ!」
「うるさいです」
兄が窓を開けると、太陽は飛び出していった。喜んでいるのか悲しんでいるのかわからない、謎の悲鳴がいつまでも聞こえていたが、それもやがて消えた。
と思ったら、こんな声が降ってきた。
「風太っ! あんた、おねしょはもう治ったんでしょうね? 月ノ介はもう、私のお下がりのワンピースは着ないのかしら?」
兄は小さく舌打ちをした。風太は顔がカッと熱くなるのを感じた。何もりん子がいる前で、そんなことを言わなくてもいいじゃないか。
何か言い返してやりたかったが、太陽はとうに空高くのぼってしまった後だった。
りん子を見ると、ぼんやりと名残惜しそうに空を見上げている。手には、香ばしく焼けたチョコレートが一粒残っていた。
「それにしてもさ」
話題を変えたくて、風太は早口で言った。
「なんで自販機になんか隠れてたんだろ。誰も見つけてくれないかもしれないのに」
「わかりませんよ、姉の考えることなんて。さあ、お茶を飲み直しましょう」
りん子はまだ浮かない顔をして、手元のチョコをじっと見ている。
「コーヒーにすれば良かった」
「え?」
「お姉さんはきっと、コーヒーが好きだから自販機に入ってたのよ。コニャックじゃなくて、コーヒー味のチョコを買ってきてあげれば良かったわ」
心から気の毒そうに言うので、風太は笑ってしまった。
「大丈夫だって。あれはやっぱりコーヒーだったって言えば、ああそうなのね、で済むよ」
「そうそう。濃硫酸だって言えばその場で溶けるし、栄養ドリンクだって言えば崖も登れます」
りん子は少し笑い、また空を見た。
風太は額に手をかざし、姉の去っていったほうを見た。本物の太陽の隣に、小さな太陽がぽつりと灯っている。狭い縁側を見守るように、見張るように、確かな光を投げかけている。
どこ行っちゃったのかしら、とりん子がつぶやく。
風太と月ノ介は顔を見合わせる。
あれはきっと、風太たち兄弟にしか見えない特別な光だ。頼んでもいないのに見えてしまう、迷惑極まりない光だ。