第九
目を覚ました時、美都はベッドの上で軽い寝息を立てていた。俺は、床に寝転がっていた。
立ち上がり、カレンダーを机の上に探す。
2010年、8月3日。時計を見る。2時30分。窓の外は暗い。午前2時30分だ。
「…」
俺は、小さくため息をついた。
今までのは何だったのだろう。夢にしては、あまりに現実感がありすぎた。
——夢ではない
声がまた、聞こえた。
俺は、はっとして声の方向を見ようとした。しかし、声がどこから聞こえて来たのかは分からない。声は、頭の中から聞こえて来たからだ。
「どういうことだよ」
俺は頭の中の声に向かって、言った。
——未来は守られなければならない
「だから、どういう意味だよ。俺は、未来を変えないようにしてるつもりだ」
——未来は、修復が難しいほどに、変わろうとしている。だから、私は、一番影響の無い方法を選ぼうとした。
影響の無い?
それがあの夢だって言うのか?
——もう一度言う。あれは、夢じゃない。君が進むかもすれなかった、もう一つの時間。そこでは、何も起こらない。未来から少女も、タイムマシンも現れない。君が思い出しさえしなければ、うまくいくはずだった
美都は?
仮にあれが夢じゃなかったとする。だとしたら、美都の存在はどうなるはずだったのだ。
——彼女には、この時代で、消えてもらうはずだった。違法に作られたタイムマシンとともに、この時代で、消えてもらうはずだった
俺はベッドに寝ている美都を見た。
俺を信頼しきって寝ている横顔。
この美都の存在を消す?
この時代で。未来の事も忘れて。
俺の中に何かの感情がわき上がった。それはあまりにも唐突で、何の感情なのか、自分でも一瞬分からなかった。
体が頭から熱くなり、全身に震えが走った。
怒り。
そうだ、これは怒りだ。
俺はもう既に理解していた。さっきまで俺がいた場所が、本当の場所であったことを。あの場所には確かに、あかりと言う少女がいたのだ。そして、俺を心から信頼してくれていたのだ。
なんと言う残酷なことだろう。
この声の主は、あの世界を創ったのだ。
俺に、美都を忘れさせるためだけに。俺に居心地のいい場所を創ったのだ。俺に好感を持つ、あかりという少女を作り、細川の感情も作り、真由の感情も創った。しかし、俺は美都のいる世界のことを思い出してしまった。
あかりのいたあの世界はどうなったろう?
俺がいなくなっただけで、今もどこかで続いているのだろうか?それとも、あかりの存在もろとも、消えてしまったのか。それは俺には分からない。
だが、この声の主は、俺に美都の存在を忘れさせるためだけに、これだけの大事を平気でやる。美都の存在を消すことに何の躊躇もしないだろう。
そんなことが――。
「許されるもんか」
俺は言った。
「そんなこと、許されるもんか。美都は、俺が――いや、俺は――」
俺が言いかけた瞬間、声の気配が頭の中からすっと消えた。
「どうしたの?」
はっと見ると、美都がベッドの上に体を起こして俺を見ていた。
「大きな声だして」
「悪い。起こしちゃって」
「んー」
美都は伸びをした。
「今何時?」
時計を探している。
「まだ2時半だ。悪い。寝ていいよ」
「うん。ありがとう。ずっと起きてたの?」
「いや、俺も寝てたよ。ちょっと、目が覚めちゃっただけだよ」
「そっか」
美都は、ベッドに再び、横になった。体を横にして、俺を見ている。
「約束、覚えてるよね?」
「え?」
「何だか、夢を見てるみたいで。約束したよね?花火大会、一緒にいくって」
「——」
「あれ?やっぱり、あれって私の夢?」
美都は恥ずかしそうに顔を赤くした。
「夢じゃないよ」
俺は言った。あの声と同じ言葉だ。
「夢じゃない。確かに俺たちは約束したよ。花火大会、一緒に行こうって」
美都の顔が明るく輝いた。自分の小指を見つめている。
「そっか、よかった」
俺は頷いた。
「一緒に行こうな。花火大会。それから―—」
「それから?」
「いや、何でも無い。おやすみ、俺も寝るから」
美都は俺をしばらく見ていたが、そのうちに目をとじ、再び眠った。
それから―—。
俺は何を言おうとしたのだろう。
それから、タイムマシンを直して、絶対お前を未来に帰す。
そうだ。俺はそう言おうとしたのだ。
なのに、それを言えなかったのは何故だろう。
11
俺はタイムマシンを直し続けた。
同時に、声の主が次に何をするのか、常に警戒していた。警戒したところで、何が自分に出来るかは分からない。出来る事と言えば、自分の世界が変化していないか、注意しておくことくらいだった。
「兄貴、ちょっと借りたいものあるんだけど」
真由が相変わらずノックもせずに俺の部屋に顔を出した。その後ろにはクミちゃんが笑っている。
「何だよ」
「あ、美都さん、また来てる」
真由はベッドに腰掛けている美都を見て、軽く手を振った。
「こんにちは、真由ちゃん、クミちゃん。おじゃましてます」
美都も手を軽く振る。
「で、何だよ、真由」
「あ、そうだった。マンガ借りたいのよ」
「お前が読むようなの持ってないぞ」
「そんなことないって、マンガいっぱいあるじゃん」
言いながら真由はもう勝手に本棚の前で目当ての物を探している。俺はため息をついた。
「勝手に持ってけ」
「オーケー」
俺は真由を無視して、タイムマシンを直し続けた。
その時。
「これ、どこかで見た事あるような気が…」
クミちゃんが声をあげた。
見ると、クミちゃんは床に置いてあったタイムマシンの設計理念図を見ていた。
タイムマシンを修理することが日常になりすぎていた事で、理念図を隠すのを忘れていたのだ。
「あ、それは」
俺が理念図を取り戻そうとした時、クミちゃんが声をあげた。
「思い出しました、学コンの中です!」
「は?」
「ウノがチョンマゲドンをやっつけた話の中です」
チョンマゲドン?
何それ?
見た覚えが無い。
しかも、ウノのお当番回らしい。
なのに、俺が見ていないとはどういうことだ?
「ね、クミちゃん、それって、いつ頃の話?」
俺はクミちゃんに聞いた。
クミちゃんはこめかみに指を当てて、考えている。
「えーと、一ヶ月くらい前?ううん、そんなに前じゃなかったかも」
「何話だったとか、サブタイトルとか、覚えてない?」
「覚えてないです」
クミちゃんは申し分けなさそうに言う。
「何兄貴、その番組、そんなに見たいの?」
真由が本棚の前で振り向いて、俺に言った。例によって、軽蔑のニュアンスがある視線で。
「ち、違う!いや、違わないけど」
「はあ?どっちなの?」
いや、そもそも、その話数が分かっても、見る事が出来ない。俺は中野系、録画はしていない。基本、リアルタイムで見るからだ。
その瞬間、俺の中でひらめくものがあった。
「そっ、そうだわ!あのね!今日の『学コン』は大した話じゃないから観なくてもいいわよ!グロス回で作画もいまいちなの!」
あの回だ!
美都に出会って、見逃してしまったあの回。
あの回に間違いない。単純な事だ。俺はあの回以外、基本見逃していない。俺が見た事の無いということは、あの回以外あり得ないのだ。
「クミちゃん、その回、録画してない?」
俺はクミちゃんに聞いた。この際中野系にこだわってはいられない。もしかしたら、そこにタイムマシンを直す手がかりがあるかもしれないからだ。なぜ、あの番組の中にそんな手がかりがあるのかは分からないけれど。
しかし、クミちゃんはあっさり言った。
「ごめんなさい、録画してない…」
真由とクミちゃんが引き上げてから、俺は改めて設計理念図を取り上げて、じっくりと見た。殆ど意味の分からない配線図、そして記号。何故、この理念図が学コンに?いや、もちろんクミちゃんの単なる勘違いの可能性だってある。
でも、もう部品の取り替え作業は三つに突入している。ただ、延々とこれを続けていても、いつ壊れた部品にたどり着けるか分からない。もしわずかでもヒントがあるなら、その可能性にも、すがりたかった。
「明日だね」
突然、美都が言った。
「え?」
「花火大会だよ。楽しみ」
美都は窓の外を眺めながら、言った。
「おい」
「ん?」
「何言ってるんだ?」
「何って、花火大会、楽しみだねって」
「それどころじゃないだろ?」
美都はぽかんとした顔をした。
「え、それどころじゃないってどういうこと?」
俺は美都の前に向き直って、彼女の顔を見た。とぼけているわけではなさそうだった。目の焦点は合っているし、俺の態度に真剣に戸惑っているように見える。
「タイムマシンのこと、どうでも良くなっちゃったのか?早く直して、未来へ帰らなきゃいけないんじゃなかったのか?」
次の瞬間、美都ははっとした表情をして、それから泣きそうな顔になった。
「あ、あたし、どうしちゃったんだろ?博士のこと、忘れてたわけじゃない。未来のこと…自分の時代のことだって、忘れてた訳じゃない。なのに、どうして、こんなにぼんやりしてるんだろう?」
…あの声だ。
あの声の主はまだ何かを続けているのだ。
まず、俺に攻撃(他にいい言い回しが思いつかない)を仕掛け、それが失敗すると今度は標的を美都に切り替えたのだ。
「声だ」
俺はつぶやいた。
「声?」
「ああ。誰なのか、とかは全然分からない。でも、そいつの仕業だよ、きっと」
「どういうこと?」
俺は美都に、俺の身に起こった出来事をかいつまんで話した。
勿論、美都のことを忘れさせられたことは言わなかった。そこまで無神経にはなれない。
未来が大きく変わろうとしている、それを阻止するんだと言って、俺の邪魔をしようとしたのだ、と話した。
「それって…なんだろう?」
美都が呟いた。美都に分からないものが、俺に分かるはずが無い。
「タイムマシンを違法に作ったら、死刑って前言ってたよな」
「うん」
「例えば、そういう組織…国連でも何でもいいんだけど、そういうのがやってるってことはないのか?」
「わからないよ。そういうのがあるのかもしれないけど、でも、頭の中に直接話しかけてくるなんて、そんなこと出来ると思う?」
「出来ないの?」
「出来る訳ないでしょ。超能力者じゃあるまいし」
「ないの?人工的に超能力者とか作っちゃうみたいな」
「アニメの見過ぎ!そんなの出来るわけないじゃない」
「じゃあ、何なんだよ、一体?俺の頭に直接話しかけたり、美都にタイムマシンのことを忘れさせようとしたり」
美都は黙ってしまった。
何かを考え込んでいる。
「笑わないでよ」
しばらくの沈黙の後で、美都が言った。
「何を?」
「これから言う事」
「そんなのわかんないよ。聞いてからじゃないと」
「それじゃ駄目。笑わないって約束して。じゃないと、話さない」
何なんだよ。
そんなの意味あるのか?約束するだけなら何だって出来る。約束するって言えば良いんだから。約束を守るか、守らないかはその後の話だ。
「分かったよ、約束する」
俺はとりあえず言った。
美都は、俺をじっと見て、口を開く。
「神様」
「は?」
「だから、神様じゃないかって、思うの」
神様?
神様って何だ?もしかして、あの、天にマシマす神様のこと?
「お前こそなんかの見過ぎだ。アニメだか小説だか漫画だかはわからないけど」
「だって、他に考えられる?頭の中に直接話しかけるんだよ?わたしの記憶を直接変えようとしたりするんだよ?」
「いや」
おれは首を振った。そんな、神様なんて信じられない。
「確かにわかんないけど、きっと何かあるんだよ、お前の知らない特別な組織みたいのがさ。誰にも分からないように組織されててさ、超能力者とかもいるんだよ」
美都は黙り込んだ。
何かを考えている。
その沈黙に、俺も何も言えなくなってしまった。
神様?
あり得ない。
でも。
そういえば、以前美都が言っていたことを思い出した。
時間は不可逆性のもの。
未来が、過去を変えようとしても、修正しようとする。
それは時間の意志なのか、それとも。
神様?
一般にイメージする神様と言えば、救いの神、だ。けれど、実際にそうだろうか?神が本当にいたとしたら、それは人間の思考の及びもつかない意思や思考の持ち主なんじゃないだろうか。例えば、人間から蟻の気持ちが分からないように、神からは人間の気持ちは分からない。
それこそ、無慈悲に、人間の希望も、未来も、そしてその存在さえも思い通りにするのかもしれない。
美都を俺の世界から消し、あかりという別の少女を生み出したように。
ぞわり。
俺の体に鳥肌が立った。
あり得る。
その存在が神と呼ばれるものかどうかは分からない。でも、少なくとも、その存在はあたかも神のように、無慈悲に振舞う。今現在、俺が生かされていて、美都の記憶がかろうじて残されているのは、決して慈悲の心からなどではなく、単なる彼(もしくは彼女)の都合なだけかもしれない。
俺は、立ち上がった。
その突然の動きに、美都がびくりと体を振るわせた。
俺はパソコンを立ち上げて、動画共有サイトにアクセスした。
「学園コンフィデンシャル 7月20日」と検索する。
この際、中野系だなどと言ってはいられない。
しかし、オープニングとエンディングはヒットするが、肝心の本編はヒットしない。
改めて、「学園コンフィデンシャル」だけにキーワードを絞り、検索してみる。
結果は同じ。本編はヒットしない。
俺はしばらく考えて、「学コン」と検索した。
ヒットした件数は増えたが、ファンが描いたイラストをオープニングに合わせて編集したものだったりして、やはり肝心の本編はひっかからない。
キーワードを色々変えてみるが、やはり駄目だ。
どうやら削除されているようだ。
「音声検索なんたらって技術が使ってあってね」
以前美都が言っていた言葉が脳裏によぎる。
なんてこった?もしかして俺の知らないうちにその技術は既に実用化されてんのか!?
畜生!どうしたらいい?
まだ始まったばかりの番組だ。DVDも何も発売されてはいない。
「ねえ、何してるの?」
美都の言葉を無視して、俺は、机の上に転がっていた携帯を手に取った。そして、机の引き出しを開く。その弾みで、隠しておいた細川の写真が床に落ちた。でも、今はそんなことはどうでもいい。俺が探していたものは別のものだ。
机の中を引っ掻き回し、それから押入れの中を探して、そしてとうとう見つけ出した。
学校の連絡簿だ。
新機種に切り替えたはいいが、誰にも連絡する予定も、つもりもなかった。だから、アドレス帳には誰の連絡先も登録されていない。
俺は、片端から連絡を始めた。
「なにしてるの?」
美都が呆然と俺を見ながら言った。
「みりゃ分かるだろ、電話だよ」
「電話は分かるよ。そういうことじゃなくて…」
コール音の後、相手が出た。
相川だ。
「もしもし?」
あからさまに不審そうな声。
「もしもし、ごめん、大橋だけど」
「大橋?・・・えーと・・・」
俺のことがわからないらしい。電話の向こうで戸惑っている気配が分かる。
「大橋賢治、出席番号6番、同じクラス」
「あ、ああ」
俺が自己紹介して、やっと分かってくれたらしい。しかし、突然の電話に戸惑っている気配はまだ消えない。それはそうだ。俺と接点があるクラスメートなんて誰もいない。
「聞きたいことがあるんだ。7月20日に放送された、学園コンフィデンシャルってアニメ、録画してないか?」
「は?」
「いや、録画してないならいいんだ。悪い」
俺は言って電話を切る。
時間がない。
神様に勝てる人間なんて、居るのだろうか?
俺は次の井本に電話をかける。
「もしもし、聞きたいことがあるんだ…」
相手の反応は様々だった。
殆どは、そんな女児向けのアニメなんて知らないか、(そしてアニメなんて見るかよ、と馬鹿にされ)知っていても録画などしておらず、鼻で笑われるだけだった。
電話をかける相手は男も女も関係なかった。
ただ、機械的に頭から順番にかけていっただけだ。
佳山由岐にいたっては、ものの見事に、「キモイ!信じられない!」と言ってがちゃりと電話を切った。
でも、そんなことはどうでも良かった。
ア行が終わり、カ行が終わり、サ行が終わった。誰も録画している奴はいなかった。
タ行が終わった。殆どの奴が必死にアニメの録画を探している俺を笑った。
そして、ハ行の数人をかけ終わった。
俺の手が止まる。
細川芽衣。
細川とは、あの下着売り場以来、話していなかった。勿論、話す用件など、元々持っていないのだ。それどころか、俺は終業式で顔をあわせることさえしていない。
「気持ち悪い」
その言葉が脳裏に再びよぎる。
細川に電話をして、学園コンフィデンシャルというアニメの録画を探していると言ったら、細川は何というだろう。
また、気持ち悪いと言われるに違いなかった。
あの、下着事件(俺にとってはそれほどの事件だ)以来、初めて電話して、というか、そもそも細川に電話をするのはこれが初めてで、その内容がアニメの録画だ。
気持ち悪いと言われても仕方がないだろう。
携帯を持ったまま固まっている俺に、美都が話しかけてきた。
「どうしたの?」
「いや…何でもない」
「あのさ…これ」
美都が何か言いづらそうに俺に言った。見ると、手に何かを持っている。
それは、細川の写真だった。
引き出しから落ちた、細川の中学時代の写真。
「大切なもの?」
「…!」
俺は黙って美都の手からそれを取り上げた。
「その人のこと、好きなの?」
美都は呟くように言った。
「関係ないだろ」
「…関係なく、ないよ」
美都はじっと俺を見ていた。その目が熱く潤んでいた。
その感情がうそにしろ、なんにしろ、美都は俺に好意を持っているのだ。
俺はその視線を振り切るようにして、携帯のボタンを押した。細川の家の電話番号。
美都がじっと俺を見つめている。その視線を背中に感じる。
電話の向こうで、コール音が鳴っている。
手のひらに、汗がにじんだ。
そして、誰かが電話に出た。
「はい、細川です」
「あ、私、大橋と言いますが」
俺が言うと、一瞬、相手が黙った。
「あの、大橋と言いますが、芽衣さん、いらっしゃいますか」
俺はその沈黙に向かって言った。
しばらくして、相手が声を出した。
「大橋君? わたし、ですけど」
電話に出たのは、細川自身だった。電話の声だと、いつもと印象が違った。電話の向こうで、細川はどんな表情をしているのだろう。
脳裏に、怪訝そうな顔をして受話器を持っている細川の姿が浮かんだ。
「あの…何か、用?」
思ったとおりの、怪訝そうな声だった。
俺は勇気を振り絞った。
「ああ、あの、用事があって、電話してるんだ。細川、学園コンフィデンシャルってアニメ、知ってる?」
一息に言った。
「え?学園…何?」
「学園コンフィデンシャル。子供向けのアニメなんだ」
「ごめんなさい。知らないけど」
そして、再び沈黙があった。
「そ、そうか…そうだよな。ごめん」
「そのアニメが何なの?」
「いや、いいんだ」
俺が言うと、再び沈黙が生まれた。
「ごめん、忙しいところ、悪かった。じゃあ」
「待って」
俺が電話を切ろうとした瞬間、細川が制止する声が聞こえた。俺は、携帯を再び耳元に戻した。
「細川…?」
「何か、重要なことなの?」
「あ…うん…重要なことだけど…」
「由岐ちゃんにも、連絡したでしょ?」
細川が言った。
由岐ちゃん?ああ、佳山のことか。俺にキモイと罵声を浴びせて切った女だ。そういえば佳山は細川と仲がいい。
佳山は俺からの電話を受けて、細川に連絡したのだろう。
「大橋からアニメ、録画してないかって電話が来て、超キモイ」みたいな。
「確かに、佳山にも電話した。キモイって言われたよ。キモイかも知れないよ、実際。高校生にもなって、アニメの番組録画してないかってわざわざ電話してさ。しかも、俺は友達がいなからさ、みんなの携帯番号なんて知らないんだ。だからわざわざクラスの連絡網探し出して、家の電話にいちいちかけてる」
俺は思わず叫び気味に言ってしまった。
「皆にはキモイかもしれないよ。だけど、今の俺にとっては重要なことなんだよ!」
最後には、実際に叫んでしまった。
細川は、その後、しばらく黙っていた。
「ごめん。細川にこんなこと言っても仕方ないよな。ごめん。叫んだりして」
俺は今度こそ、電話を切ろうとした。
「分かるよ」
その瞬間、細川が呟くように言った。
「理由は知らないけど、大橋君が真剣なの、わかるよ。だって、大橋君、クラスで誰とも口利かないでさ、いつも何考えてるか分からなかったけど…ううん、今も大橋君が何を考えてそのアニメが見たいのかは分からないけど、大橋君が、誰とも口利こうとしなかった大橋君がクラスの人たちに電話かけてきてるんだもん。真剣なの、分かるよ。大橋君にとって、そのアニメを見るのが重要だってこと、分かるよ」
「細川…」
「ちょっと待ってて。わたしは知らないけど、妹なら知ってるかもしれないから」
「妹?」
知らなかった。細川に妹が居たなんて。
よく考えたら、細川のこと、俺は何にも知らない。
俺が知っているのは、いつもクラスで凛と立っている、細川の表情くらいのものだ。
受話器から保留音が流れ始めた。
何かのクラシック曲だ。
よく聴く曲だったけど、何の曲かは分からなかった。
でも、いつだっただろう。
この曲を聴いたことがある気がした。
とても、懐かしい感じがした。
目を閉じて、曲に身を任せた。
何かの情景が浮かんできた。
何処かの公園だ。
そこに、俺は立っていた。
ここはどこだろう?
見たことがあるような、でも、記憶にない場所だった。
顔に風が当たっているのが感じられた。
遠くで犬が鳴いている声が聞こえた。
そして、背後から誰かがやってくる足音がした。
俺にはわかった。
その誰かは、これから俺の背中に声をかける。
俺の名前を呼ぶ。
「もしもし?」
細川の声がして、俺の思考は途切れた。
「あ、ああ」
「あのね、妹に聞いてみたら、録画してるって」
「本当に!?」
「でも、何話なのかとか、分からないみたいなの」
それはそうだ。でも、細かい話をしても細川には分からないだろう。7月20日放映で、ウノのお当番回で…なんて。
「それに、ごめんなさい。わたし、これ、DVDに落とすやり方とか分からなくって」
「…」
どうしたらいい。一番簡単なのは、細川の家に行って、DVDに落とすことだ。でも、そんなことまで頼むわけにはいかない気がする。
「あのさ、大橋君」
「あ、な、なに?」
「大事なことなんでしょ?」
「ああ」
「よかったら、うちに来てもらえる?それで、自分でDVDに落としてもらってもいいかな?」
「え、いいのか?」
「いいのかも何も、来てもらわないと、落とせないし。うちの家族、そういうの皆駄目なんだ。明日、登校日でしょ?その後、家まで来てもらえる?」
「分かった」