第四
俺はぼんやりと歩いた。
頭の中がからっぽになっていて、何も考えられない。少しでも気持ちの焦点を合わせようとすると、『気持ち悪い』という細川の声が頭の中をリフレインする。俺と目を合わせないようにしているその表情も。
細川芽衣。
中学生のころからずっと憧れていた少女。
今日初めて、長く話をすることができた。そして、それが最後になった。たぶん。
失恋。
唐突に言葉が頭によぎる。
いや、俺は細川に告白しようと思ったことなど、なかった。いや、想像したりすることはあったけど、本当に告白してうまくいくなんて、考えたことはなかった。だいたい、そんなことが俺にできるはずがない。何の取柄もない、ふつーの人間なんだ、俺は。
『気持ち悪い』
また声がよぎる。
俺は頭を振ってその声を振り払おうとした。でも、できなかった。
…そうか、そういうことなんだ。
俺はふつうですらない。
気持ち悪いと言われてしまうような、普通以下の人間だったんだ。
俺は、デロリアンが大破した広場の側まで帰ってきた。
不思議なことに、見学人はもうすでにいなかった。
警察とかがやってきて、現場検証なんてことになってるかと思ったんだけど。
俺は、そこを通り過ぎ、美都の隠れている路地まで歩く。
普通以下の俺だけど、少なくとも、今は俺を頼ってる美都を見捨てることだけはしちゃいけない。たぶん。いや…それは絶対だ。
俺にどれだけのことができるかはわからないけれど。
美都と落ち合って、俺たちは、今後のことを相談した。
タイムマシンについては、とりあえず、美都の携帯のデータを俺の携帯に移させてもらう。俺はそれを明日、学校でプリントアウトする。携帯の画面のままでは小さいし、うちにはプリンターが無いからだ。
明日は終業式だし、それが終わってしまえば人も少なくなる。終業式の後は部活動する部も少ない。その隙を縫って、プリンターを使わせてもらう。幸いなことに、生物部古生物班にも、パソコンとプリンターがある。本来は掘ってきた化石のデータベースを作ったりするためのものだが、あまり活用はされていない。
そのプリントアウトした概念図を、スーツケースの本体と見比べて、調べる。明日からの夏休みで、時間はいくらでもある。俺は学校に行かなくても良いから、美都を一人にさせておく危険も少ない。大ざっぱに計画を決めた後、
「どうしよう――」と美都が建物の陰に落ちていく夕日を見ながら呟いた。
「どうしようって?」
「すぐにタイムマシンが直せるかどうか分らないでしょ?直るまで、あたし、どうしてれば良いのかな――」
そういうことか。
確かに、直すのに、どのくらいかかるか、俺にも予想出来ない。その間、美都はどうしていればいいのか?誰にも会わないように、ずっとここに潜んでいるのか?いくら夏で夜も暖かいとはいえ、少女がずっと野宿するなんて無理がある。この辺をうろついていて、例えば土管の中に居着いている美都が誰かに発見されでもしたら、土管少女、なんて噂が広まるかもしれない。いや、それは別にいいか。
「そうだ、うちに来ればいいよ」と俺は美都に言った。
美都が俺の顔を見る。
「え、そんなのいいの?」
「ああ、たまたま両親が海外出張していて、俺一人なんだ。君一人くらい、なんとかなる。いや待てよ、毎朝、俺を起こしに来る幼馴染の女の子がいるんだった。それが問題だな」
「……あのね」
美都が俺をじっと見つめて口を開いた。
「なに?」
「その、妄想しがちなところ、止めた方がいいと思うな」
「え?」
「それから、その妄想をそのまま声に出しちゃう癖も止めた方がいいと思うな」
そうだった。うちには両親はばっちりいるし、真由だっているのだった。勿論、幼馴染なんていない。いるのは、俺の妄想の中だけだ。
「っていうか、声に出てた?」
「出てた。その幼馴染にも名前ありそうなくらい、リアルにしゃべってた」
「名前、あるよ。あかりっていうんだ」
「――馬鹿じゃないの?」
そうだね、馬鹿で悪かったね。でも、やさしく馬鹿って言われるのも、悪くないもんだな。何ていうか、今の『馬鹿』にはやさしさが籠ってたような気がするよ。
「でもさ、うちに来るのが一番リアリティあるんじゃないかな。博士の家族を君は知ってた?つまり、20年後の世界で」
「うん、知ってる」
「全然無関係の人に出会っちゃう可能性は、うちに来れば少ないと思うんだ。それなら、未来が変わる可能性も、少なくなるんじゃないかな」
「――そうなのかな」
不安そうに呟く美都。
「俺だって分らないけど――そんな気がする」
確かに、ホテルに泊まるとか、インターネットカフェに泊るとか、他にも方法はあるかもしれない。でも、彼女が未来に帰れるのがいつになるかわからないのだ。ホテル代はいくらになるのか、想像も出来ない。それはネットカフェだって同じだし、そういうところは不特定多数の人々が出入りする。どんな危険な出会いがあるかわからない。それこそ、根こそぎ未来が変わってしまうような出会いがあるかもしれない。
でも、その点うちなら安心だ。俺の部屋に隠れていれば、誰にも出会わない。両親も、真由も俺の部屋に入ってくることは殆どないから。食事は問題だけど、家にいればなんとか出来るだろう。
「本当に、いいの?」
「でも、基本的には俺の部屋にいてもらうことになると思うけど。それでもいいなら」
「――――」
美都は、悩んでいるみたいだった。それはそうだろう。良く考えたら、彼女はこの世界にやってきた異邦人なのだ。ひとりぼっちなのだ。それに、自分の行動が、一体どんな影響を世界に与えるか、分らないのだ。そんな状況が俺に想像出来るわけもない。
「あッ――――」
美都が急に短く悲鳴を上げた。
「ど、どうしたの?」
「消えたの――」
「消えた?また?何が?」
美都の全身を見たけれど、何が消えたのか分らない。
美都は黙ったまま、制服のスカートを押さえた。もじもじしている。ん。――もしかして。消えたのは――。
「ああッ――」
再び美都が小さい悲鳴を上げた。同時に、美都の制服の胸のあたりが、すっと形を変えたのが、俺にははっきりと分った。具体的に言うと、プッチンプリンを横にして置いたとする。重力は横方向に働いているので、プリンはまっすぐ立っている。突然、重力を下方向に変化させた場合。そういう動き。本当にわずか、ほんの少しの動きだったが、制服の下で、何かが、それはもちろん美都のアレが、そういう動きをしたのが俺には分った。
美都は、片手でスカートを押え、もう片手で制服の胸を押えた。
「――消えちゃったのって――下着?」
俺がそう言うと、美都は顔を真っ赤にして、再び俺を平手打ちした。つまり、ビンゴってわけだ。
「分ったわ。もう何が未来に影響を与えるのか、良くわからないもの。あなたの家に、連れて行って」
平手打ちした手で再び胸を押えると、美都はそう言った。
家までは五分もない。しかし、誰に遭遇しないとも限らない。俺たちは慎重に歩いて行った。しかも、美都は俺の後ろを付いて歩いた。そりゃ勿論、道が分らないんだから、当然なんだけど、理由はそれだけじゃない。
「別にいいと思うんだけど。下着が消えたからって、とりあえず着替えたわけだし」
そうなのだ。美都は、今は僕が買ってきたピンク色のパーカーを着ている。現代で買った商品なんだから、消える心配はない。
「そういう問題じゃないのよ。制服より布地が柔らかいから――」
柔らかいから、何だ?
「柔らかいから何だよ?」と俺は思わず振り向いてしまった。
「きゃあっ!」
美都は悲鳴を上げて、自分の体を抱きかかえるようにして、座り込んでしまった。
「振り向かないでって、言ったじゃない!」
「あ、いや、ごめん」
俺は見た。
そういうことか。確かに、買ってきたパーカーは布地が制服の生地より柔らかく、体の線をより際立たせるのだ。
人目を気にしつつ、土管の中で着替えた美都(俺は心の中で土管着替え少女とあだ名をつけた)は、素肌に直接、パーカーを着たのだ。だから。
振り向いた瞬間、俺には確かに、パーカーの布地越しに、美都の胸の膨らみの形が、はっきりと見えてしまった。俺に前を歩かせたのは、見られたくなかったからか。
「見たわね!?」
「見てない」
嘘です。見ました。しかも、ちゃんと記憶しました。
「バカ!」
何ていうんだろうなあ。何か、恥ずかしがって言う、『馬鹿』って、漢字じゃなくて、『バカ』ってカタカナのニュアンスがあるよな。悪くないもんだな、カタカナで『バカ』って言うのも。おおそうか、これがもう一歩進むと、『バカ(ハート)』になったりするんだろうな。『バカ(音符)』なんてのもあるのかな。
俺はもう一度振り向いた。美都がゆっくりと立ちあがったところだった。そして、また、胸の形を布越しにはっきりと見た瞬間、美都の罵声が飛んできた。
「馬鹿!見るなって言ってんでしょ!」
ああ、漢字に戻っちゃったよ。
「ここが博士の家?」
「そうだよ」
ごく普通の中流家庭の二階建て。庭はあるけど、一畳くらいしかない。ガーデニングが趣味の母さんが、その一畳を何だか色々な植物で埋めている。それでも飽き足らず、玄関周りにも鉢植えがたくさん並んでいる。
「20年後の俺は違うところに住んでんの?」
「うん、何か倉庫みたいなところに一人で住んでるよ。それで殆ど仕事もしないでゴソゴソやってるから、周りの人からは変人と思われてる」
「ちょっと…未来のことをあまり言うの。良くないんじゃないの」
「あ、そうだった」
「っていうか、本人を前にして、もう少しオブラートに包むとか出来ないの?」
「だって本当のことだしねえ」
美都は悪びれず言った。やれやれ、俺の未来は一体どうなるんだ。
とにかく、俺は辺りを伺った。母さんの自転車がない。どうやら買い物に出かけているみたいだ。だとすれば、今誰かがいるとしても、真由くらいだ。真由は学校から帰ってくると、大抵リビングでテレビを見ている。リビングからは、二階にある俺の部屋に向かう階段は見えない。
「大丈夫だと思う。入って」
「うん」
門をくぐり、玄関に手をかけた。鍵がかかっている。どうやら真由もまだ帰ってきていないようだ。俺はポケットから家の鍵を取りだした。
「なにそれ?」と美都が言った。
「何って鍵だけど?」
「そのくらいわかる。その鍵の先についているの」
「キーホルダーだよ。ずっと使ってるから、もうだいぶくたびれてるけど」
そのキーホルダーは、中学生の修学旅行の時に、買ったものだ。自由行動の時、たまたま歩いていた俺の目の前で、細川がこのキーホルダーを買っているのが見えた。俺は陰に隠れて、細川がその店から出ていくのを待った。そして、その姿が見えなくなってから、俺は同じキーホルダーを買った。
「あれ?おそろいだね、そのキーホルダー。大橋君も行ったの?清水寺」
なんていうことが起こらないかと期待して。勿論、そんなことは何も起こらなかった。細川がそのキーホルダーを使っているのを見たこともない。
「ふうん」と美都はキーホルダーを覗き込むようにしながら、言った。
「ふうんって何だよ」
「変なキーホルダー」
「うるさいな。別にいいだろ」
でも、美都のその言い方は優しくて、俺はなんだかちょっと照れてしまった。
俺は照れ隠しに美都を無視して、鍵を差し込んだ。玄関のドアを開ける。
「誰も今はいないみたいだ。今のうちに」
「うん」
美都は言って、玄関から中に滑り込む。
リビングからテレビの音もしない。やっぱり誰もいないみたいだ。
「こっちだよ」
俺は階段の方に美都を案内した。
「この上に二部屋あるんだ。そのうちのひとつが、俺の部屋」
「もうひとつは、真由さんの部屋?」
「そういうこと」
二階に上がると、まず真由の部屋がある。ドアに『mayu‘s room 入ったら殺す』と書いたプレートが下がっている。何がマユズルームだよ。
その隣の部屋が俺の部屋だ。
「ちょっとここで待ってて」
「どうして?」
「あのさ、男には色々やることあるんだってば」
「へえ」
「へえ、じゃないよ。色々知ってるくせに」
「なにそれ!?どういうこと?!」と急に美都が怒りだした。
「いや、男性経験豊富そうだから」
美都は真っ赤になった。
「どうして、そう思うの?」
「いや、何ていうか、あしらい方がうまいじゃない。俺のこともアゴで使ってるじゃん」
「あなたは別よ!だって、博士なんだし、なんか懐かしい感じがするから。そんな、男あしらいがうまいなんて、初めて言われた」
美都はそういうとうつむいてしまった。
「男の子の友達なんて、一人もいないわ。博士だけ。っていうか、博士は男の子じゃないか」
確かに36歳の男は男の子とは呼べない。何ていうか、今まで衝撃的な対応(平手打ちとか)されてばかりいたから、忘れていたけど、この子はまだ、中学生なんだ。
「学校に友達とかいないの?」と俺は聞いてみた。
「――いない」
「――そうなんだ」
「うん」
なんとなく、沈んでしまう空気。何で友達が居ないんだろう。美都にだったら、いくらでも友達は居そうなものなのに。でも、その理由は何となく、聞く訳にはいかない気がする。いくら俺でも、それくらいのデリカシーはある。
俺は努めて明るく言った。
「じゃあ、一応説明しておくけど、男の部屋にはね、女の子には見せられないものが結構あるんだ」
「どんなもの?」美都が顔をあげて聞く。
「そりゃあ、女の子には言えない」
「エッチなもの?」
「教えられないってば」
「バカ」
美都はそう言って笑った。なんとなく、ほっとする。どうも美都が沈んだ顔をしてるのをみるのは居心地が悪い。笑ってる顔の方がずっといい。
俺は美都を廊下に残し、部屋に入った。
まずは窓を開け放つ。変な匂いがこもってたら大変だからな。それから、床に散らばっていた雑誌やら漫画本やらをとりあえず、壁際に積み上げて、床が見えるようにする。それから、ベッドに下に隠してあった雑誌類を押し入れにしまってあった古いスポーツバックに押しこんだ。
――いや、ちょっと待て。俺は雑誌のうちの一冊をバッグから再び取りだした。1年くらい前のBLTだ。何度も見ているうちに、癖がついてしまっている。手を放すと、雑誌はそのページで勝手に開く。最近は見なくなったアイドルのグラビアページだ。でも、問題はそこじゃない。俺は、その間に挟まっていた写真を取りだした。
細川の写真。中学の卒業式の時の写真だった。細川が友達何人かと、カメラに向かって笑顔を見せている。たまたまその背後を歩いていた俺も、小さく写りこんでいる。同窓会をやろうと意気込んで写真を撮っていたその時の幹事、井本君がわざわざ、俺が写っているっていうんで送ってきてくれた写真だった。こんなの写っているうちに入らない。でも、俺はそのちょっとずれた感覚の井本君に感謝した。
まだそれほど昔の写真じゃないのに、そこに写っている細川は、何だか今よりちょっと幼げに見えた。歯を見せて、屈託のない笑顔をカメラに向けている。ちょっと八重歯の白い歯。中学校の制服はどことなく固く細川の体を包んでいるように見える。だからなのか、細川の体は今よりも細く見える。
気持ち悪い。
再び脳裏に細川の言葉がよぎった。
そうだよな。俺はこの写真を毎日眺めてるんだ。うん、確かに、気持ち悪いだろうな。
その時、扉をノックする音が響いた。
「ねえ、誰か帰ってきたみたい」と声をひそめた美都の声が扉ごしに聞こえた。
まずい。母親か、真由か。
俺は細川の写真を机の引き出しに突っ込み、扉を開いた。
「ただいま~」
母親の声だ。俺は急いで扉を開けた。
「入って」
俺は美都を自分の部屋に入れて、扉を閉める。鍵がないから、いきなり開けられた日には大変なことになる。
「片づけたって、壁に寄せただけじゃない。見ようと思えばいつでも見れちゃう」
「今そんなこと言ってる場合じゃないだろ。それに、見たかったら別に見てもいいけど」
「見ないわよ!」
大きな声を出す美都。
「しー、出来るだけ静かにしてて。意外とこの部屋の音、下の階に響くんだ。もし誰かが入ってきそうになったら、押入れに隠れて」と俺は押入れを開けて見せた。
「げ――」
押入れの中はガラクタで一杯だった。
自分でも大事なものなのか、ゴミなのか分からない。
なぜここから片付けなかった俺は。
いや、実際は片付けようにも間に合わなかっただろうけど。
「この中に入るの?」と美都も呆れ顔で言う。
「入れる?」
美都は押入れの中を覗き込んだ。
「うーん――何とか――なるかなあ」
「何とかしてくれないかなあ」
とりあえず俺は美都から携帯に入っていた理念図のデータを受け取った。マイクロSDカードだ。学校のパソコンにカードリーダーがついていたはずだから、問題はない。
「もう一度、タイムマシン、見せてもらえる?」
「うん」
美都はスーツケースを俺に渡して、ベッドの上に腰を下ろした。俺もベッドの上に乗り、スーツケースを開く。二つの金属製の筒。その下に見える基盤。使われているネジ類も、今のものと変わらないようだ。俺は机の上からドライバーを取って、ネジを回した。金属製の筒を外してみる。
「ちょっと――何してるの?」
「一応、見てるだけ。この時代で使われてない部品とか使われてたら直しようがないだろ」
「あ、そうか」
俺は基盤の一つを外してみた。ざっと見たところ、見たことのない部品はここにもない。普通にハンダ付けしてあるし。うん、これなら何とかなりそうだ。
「まだ、断言は出来ないけど、何とかなるかも」
俺が顔を上げて美都を見ると、美都はベッドの上で後ずさりした。喜んでくれるかと思ったんだけど、この反応は何だ。
「なに?」
「――なんでもない」
何でもないっていう感じじゃないよな。
「どうしたんだよ」
俺がちょっと美都に体を向けた。また、体を緊張させる美都。
「――あのさ」
俺が体を動かすたびに、びくっと体を震わせる美都。そのまま何となく、身動きが取れなくなって、二人とも沈黙してしまう。しばしの沈黙の後、美都が口を開いた。
「ほんとにバカなんだから」
いきなりバカと呼ばれる筋合いはない。
「バカってなんだよ」
「バカだからバカって言ったの。少しは相手のことを考えて行動してよね」
「相手のことを考えてって、なんだよ」
「――下着」
言いにくそうに、美都がつぶやいた。
「え?」
「下着、着けてないんだってば―― !」
顔を赤く染めて呟く美都。ああ、そうだったっけ。美都の体を改めて見る俺。柔らかい曲線があらわになっている。俺が買ってきたパーカーの下は、もろ肌だ。顔や手、足なんか、見えてる場所から想像するに、今隠れてる部分もきっと白いんだろうな。今は照れてるから、少し、ほんのり赤く染まっているかも。
「――」
「ちょ――ちょっと――何黙ってんのよ――」
「――」
まずい。変な気分になってきた。
何考えてるんだ。やめろ。タイムパラドックス。唐突に言葉が浮かぶ。そうだ。美都と俺は住む時代が違うんだ。できるだけ、接触してはいけない。未来が変わってしまうかもしれない。
「あ、あのさ」とにじり寄る俺。何でにじりよった?自分の考えと行動が連携していない。
「――な、なに――?」と体の線を出来るだけ隠そうとしながら、後ろに下がる美都。
「――う」とさらににじり寄る俺。もう言葉が出なくなっている。だから、駄目なんだってば。美都は未来の人間なんだ。それに俺には細川が。俺は細川が好きなんじゃなかったのか。確かに気持ち悪いって言われたけど。振られたからすぐに別の子に気持ちが向かうってあんまりじゃないのか。ベッドが俺の膝の下でギシっと軋む。
「――ちょっと――ねえ――」と下がる美都。しかし、その背中が壁にぶつかってしまう。もう後がない。
駄目だ。とまれ、俺。
何をするつもりなんだ。
確かに、こんな状況は今までなかった。女の子ときちんと話したことだってほとんどないのだ。なのに、俺の部屋に二人っきりなのだ。しかも、二人ともベッドの上で、しかも、女の子の方はいま、下着を着けていないのだ。
こんな展開いまどきアニメでだってないよ。しかし体と気持ちがまったく連動していない。
「――うう」わけの分からない声を出しながら、俺はついに美都の肩に手を触れようとした。びくり、と美都の体が震えたのが分かった。
もう駄目だ。何が駄目なのか自分でもよくわからないけど、とにかく駄目だ。勢いよく美都に覆いかぶさろうとした瞬間、大きく動かした膝にスーツケースがぶつかり、俺は転んだ。
「うわあ」
「きゃあっ」
俺はそのまま、美都をベッドの上に押し倒す格好になった。右手に、美都の柔らかさが直接感じられる。
「あ、あ、あ」と俺はわけの分からない声を出しながら、美都の上で固まった。
これからどうしたらいいんだ?まずは何をすればいいの?いやその前に了承を得ていないけど、それはいいのか。美都がじっと俺を見る。強い視線だ。待って、そんな目で見ないで。
「ご――ごめんっ――俺――何ていうか――こんな風に女の子と一緒にいたことがなくて――いや、つまり、二人っきりで俺の部屋に。いやそれは俺が誘ったから君はここにいるわけだけど、それで、君が可愛いから、何ていうか、俺、自分でもよく分からなくなって――」
「だったら早くどいてよ!」
「ああ、そ、そうだね」
美都の上から移動しようとして、しかし固まってしまった俺の体は言うことをきかず、再び美都の胸の上に顔を落とした。むにゃん。
「きゃあ!」
「ご、ごめん。わざとじゃないんだ!」
その瞬間、俺の部屋の扉が開いた。
「兄貴、ちょっと借りたい本があるんだけど」
「お兄ちゃん」
扉が開いたのと同時に響いた二つの声。俺がおそるおそる顔をそちらに向けると、いつの間に帰ってきていたのか、真由と、クミちゃんがそこに立っていた。
変で静かな間があった。
「ちょっと――兄貴――その女の子、誰?」
「知らない人」と思わず答えてしまう俺。
「――」
「――」
「――」
「――」
次の瞬間、真由が走り出した。
「大変!兄貴が知らない女の子を監禁してる!おかあさーん!警察に電話!」
「か、監禁!?警察!?」
慌てて立ち上がり、真由を追う。真由は既に階段を半分下りている。俺は二階の廊下から手すりを飛び越え、階段に飛び降りた。自分でもこんなアクション、初めてだ。
「おかあさ――むぐ!」
真由に追いついて、その口をふさぐ。
「もがもがもが」と漫画のような声を出して暴れる真由。暴れる手や足が俺の腹や顔に当たって痛い。
「いて、いてて。ま、真由、頼む、静かにしてくれ。静かにしてくれれば、ちゃんとわけを話す」
こうなったら、やむを得ない。正直に事情を話さなければ俺は犯罪者にされてしまう。それはまずい。『男子高校生、女子中学生を自宅に監禁』新聞の見出しが躍るのが脳裏によぎる。いやまて、最近の人は新聞あんまり読んでないから大丈夫か。いやそんなことないだろ。テレビのワイドショーでもやるだろうし、インターネットにも載るだろう。
「前から気持ち悪い人だと思ってました」
インタビューに答えている細川。顔にモザイクはかかっているが、俺にははっきりとわかる。駄目だ。それだけは全力で阻止しなければならん。
「頼む、真由。一生の頼みだ。静かにしてくれるか?静かにしてくれたら、わけも話すし、お前の言うことを何でも三つ、聞く」
真由は、じっと俺を見て、手のひらを開いた。願いは五つだと言うことのようだ。
「五つ?せめて四つ」
真由が再びもがもが言って暴れだした。
「わかった、五つで手を打つ!だから静かにしてくれ」
真由は小さく頷いた。やれやれ。俺はゆっくりと手を離した。ふう、とため息をつく真由。俺が押さえていた口のあたりを手でぬぐっている。俺の手はそんなに汚くないぞ。今日帰ってきてからまだ洗ってないけど。
「で、わけって、なに」
口の周りを拭き終わった真由が、俺に向き直り、言った。偉そうだ。この場合の上下関係は確実に真由が上だ。いや、いつもそうだけど。腰に手を当てて、さあ、早く理由をいいなさいよ、という雰囲気を醸し出している真由。俺は口を開いた。
「――いや――実はあの子、未来から来たんだ」
俺は直球で勝負してみた。
「――」
「――」
「――」
真由の反応がない。あれ?俺、また妄想してただけかな。口に出てなかったか?
「――いや、だから未来からね――」
真由がにっこりと笑った。どうやら声は出ていたようだ。
「なんだ、最初からそういってくれればいいのに、じゃあ、未来人さんにあいさつしようかな」
真由はにこにこと笑いながら、俺の部屋の方に向かって階段を上りだした。やれやれ、理解してくれたか。と、思った瞬間、真由が体を反転させて階段を猛スピードで降りていく。
「おかーさーん!兄貴がとうとうおかしくなっちゃったよ!病院に電話むぐ!」
「わあああああああ!」
再び真由の口をふさぐ俺。
「真由ちゃん?なあに?」と階下からお袋の声。
「な、なんでもない!」と叫び返す俺。
「あら、賢治、帰ってたの?おなか、空いてない?」
「だ、大丈夫!」
もがもが言っている真由の口を押さえたまま、俺は真由を引きずるようにして、階段を上る。真由の部屋を通り過ぎて、自分の部屋へ。参った。どうすればこの事態を抜け出せるのか。こうなったら真由も俺の部屋に監禁するか。
「前から気持ち悪いと思ってました」
細川のインタビュー。『男子高校生、妹を自室に監禁』のタイトルが脳裏に浮かぶ。
駄目だ!どうしたらいい?神様。
待て、そういえば真由だけじゃなくて、クミちゃんも居たはずだ。クミちゃんは?見回すと、クミちゃんの姿が見えない。
俺の部屋の前まで来たとき、部屋の中から談笑する声が聞こえてきた。見ると、美都とクミちゃんが笑いながら話している。
クミちゃんが俺の姿を見て、微笑んで言った。
「とっても、お似合いだと思います」
「は?な、何が?」
「だから、美都さんと、お兄ちゃん、お似合いの恋人だと思います」
見ると、美都が俺にバッチンバッチン、ウインクしている。話をあわせろ、ということらしい。
「もがもが」と真由はまだもがいている。見ると、「ありえねえだろ!」という顔で俺を見ている。いやそうだね、この場合、君の直感は正しい、妹よ。しかし、この事態を収拾するすべはどうやらこれしか残っていないようなのだ。俺は演じきって見せる。この美都の恋人という大役を。
「いや、今まで黙っていて、悪かった。実は、俺と、彼女は付き合っている」
ちょっとうそ臭い台詞になってしまった。しかも最初の方は声が裏返ってしまった。美都が「このヘタクソ!」という顔で俺を見ている。真由はさらに疑ってしまったようだ。俺に口を押さえられながら美都をじろじろと見ている、クミちゃんは嬉しそうに笑って、手のひらを合わせた。
「素敵」その単純さが今は純粋に可愛い。
ここはもうひと押しするべきだろう。真由の疑いを晴らす必要もある。
「いや、まあ、俺には勿体無い、かか彼女だと思うよ」
ホントではないけれど、女の子を、俺の彼女だと紹介するのって緊張するな。思わず噛んでしまった。しかし、さっきよりは自然にできた気がする。美都を見ると、『勿体ない』あたりがお気に召したらしく、その通りだといわんばかりの顔をしている。そうだよ、悪かったな。不釣合いで。もがもが。ああ、真由のことを忘れていた。どうだ、少しはこの兄を見直したか?嘘だけど。
俺は真由の口から手を離した。
「ありえない!こんな可愛い子が兄貴の彼女!?」
見直してもいなければ、信じてもいなかった。
「ねえ、何か兄貴に弱みでも握られてるの?いやらしい写真を撮られてばら撒くぞって脅されたりしてるとか?」
真由がひどい台詞を一息に言った。お前、なんか悪い読み物読んでるな。しかしまあ、自分でも美都が俺の彼女ってのはありえないと思う。っていうか、ただの設定なわけだけど、それにしても、実の兄に向かってこの言いようはないんじゃないか。
「ううん、そんなことないよ。大橋君は、とっても――」と美都が言った。
「とっても?」と真由。
「うん、とっても――」
美都は額に小さくしわを寄せて、考えている。
「――ふふ、内緒」
どうやら俺のいいところを言おうと思ったが思いつかなくてごまかしたようだ。ちくしょう。
美都とクミちゃんが俺のベッドの上に並んで座っている。俺は自分の机の椅子に座り、真由は床に腰を下ろしている。
「どうやって知り合ったんですか?」と真由が疑いの目でまだ見たまま、美都に聞いた。
「車の事故があってさ」と思わず言ってしまう俺。美都がきっと俺を見た。馬鹿人間と顔に書いてある。
「車の事故!?」と叫ぶクミちゃん。「そこからお兄ちゃんが助けてくれたのが、二人の出会いなんですね?」
ちょっと感動しているようだ。残念なことに、クミちゃんはリアルに小学生な感じだ。きっと頭の中で燃え盛る炎の中から美都をお姫様だっこして助け出す俺の姿でも思い浮かべているに違いない。
「うん、まあ、そういうところかな」
「ありえない!」と真由が叫んだ。「もし事故があったとして、それはどこで?いつ?」
立て続けに聞いてくる。
「学校帰りの広場のところだよ。午後5時25分」
「時間なんて聞いてないわよ、いつの?」
「今日」
美都がまたこの馬鹿という顔で俺を見ている。
「ますますあり得ないわ!学校帰りの広場って、私も通るもの。今日、6時くらいにクミとあそこの横の道を通ったわ。でも、車なんてなかったし、事故の後もなかった」
「それは、もう片づけられたんじゃないの?」
「30分くらいで?仮にそうだとして、事故を起こした車に乗ってた当人がどうして今ここにいるの?それに、今日、出会ってどうしてもう付き合っちゃった、しかもベッドで押し倒そうとしてるの?」
理路整然という真由。こいつ、頭良すぎるぞ。俺は動揺をさとられないようにしながら、美都を見た。美都はもうあきれ果てた顔をしている。
もしかして、俺が馬鹿なだけかもしれない。
「それに、車の事故って、具体的には、どういう事故?」
「壁にぶつかって――」
「壁にはなんの変りもなかったわ。私、今日帰りがけにあの広場に入って行ったんだもの」
「何しに行ったんだよ」
「そんなの別にいいでしょ。で、あそこの壁、見たけど、どこも壊れてなかったし、何かが当たったような跡も残ってなかったわ」
それはおかしい。俺は確かに、デロリアンが壁に激突したのを見た。壁も多少壊れたはずだ。デロリアンはもしかしたら、だれかに回収されたのかもしれない。でも、壁は?もう直されてしまったのか?いくらなんでも早すぎる。確かに、下着を買いに行った後、広場近くにだれもいなかったのを不審に思ったのを俺は思い出した。
俺は美都を見た。美都も、何かを考え込んでいるようだった。
「何を騒いでいるの?」
見ると、母親が俺の部屋を覗き込んでいた。ああ、どんどん傷口が広がってきている気がする。
「おばさん」とクミちゃんが立ち上がってお袋に飛びついた。小さなころからうちに出入りしているせいか、お袋を自分の母親とあんまり変わらない態度で接するクミちゃん。
「あのですね、あの人、美都さんっていうんですけど、お兄ちゃんの恋人なんですよ」
あっさりと報告するクミちゃん。
「え、そうなの?」
お袋は美都を見た。美都は、あいまいに頷く。するとお袋は俺を見て、さらに言った。
「そうなの?」
「う、うん、まあ。そういうことになるね」
「何でもっと早く紹介しないの?へえ、あんたに彼女ねえ。美都さんっていったかしら、この子のどこがいいの?」
母親のくせに言うことがきつい。
「ええ、まあ、色々」
美都も答えにくそうにしている。
そもそも、だれかに会う可能性が低いからこそ、うちに来たのに、あっさりほとんどの登場人物に会ってしまった。美都はすでに身につけてきたものをはずしている。未来が変わってしまったかどうかは今はわからない。
「色々ねえ――。まあ、いいわ。もうすぐ夕食にするけど、クミちゃん、美都さんも食べていく?」
お袋はそんな風に言って、俺を見た。後できちんと説明しなさい、とその顔が言っている。
「いただきます!」
クミちゃんは屈託なく答える。美都は、しばらく考えて、
「じゃあ、すみません、わたしもご一緒させていただいていいですか?」と言った。