第三
ごくり。
自分の喉の音が聞こえた。俺の目の前には、色とりどり、というか、どちらかと言えばピンク色っぽい花畑が広がっていた。いや、そこかしこに、黒や、南国的な色の花も見える。大きく息を吸ってみると、いい香りだ。どことなく甘ったるく、そこはかとなく、スパイシー。ああ、ここは何だ?桃源郷か?噂にきく、ガンダーラか。それとも天国と書いてパラディソか。
いや、比喩なんて使ってる場合じゃないよ。花でもなんでもない、女性下着の数々がずらりとならんでいるのだ。確実に数百はある。いや、ひょっとしたら千の位まで行くかもしれん。何でこんなに下着が並んでいるんだ。これ、みんな女の子が穿くのか。あるいは着けるのか。男の下着売り場なんて、全体的に黒っぽいのに、この南国的フルーティな色合いはなんだ。
美都は、「あたしがあんまりうろつくのもよくないと思うから」と言って、俺を送り出したわけだ。自分は、さっきの場所に隠れているから、と。
俺は近くにあるデパートにやってきた。他の服は何とか既に購入していた。真由が普段着ている服とかも見たことあるし、それほどプレッシャーは感じなかった。しかし、下着となると話は別だ。見たこともないものをどうやって買う?自分の下着だって買ったことないのに。ううむ、思った以上にこれは難関だよ。
自分の下着を男に買わせる気持ちが俺には分からん。っていうか、抵抗はないのか?でも、余計なことを言って、また平手打ちされても困る。右も左も差し出した俺には、もう打たせる頬は残ってない。
しかし、いざ、女性下着売り場の前に来ると、その彩りに圧倒された。勿論、今まさに買い物をしている若い女性達の姿も見える。店員も二十歳くらいの女性だ。しかも綺麗。
この中に入っていって、美都の下着を買う?俺が?想像できない。
世の中には彼氏の下着を買ったりする女性も居ると聞く。彼女達のその勇気はどこから来るのだ。下着を買うと言うことに関しては女の強さに男は勝てん。それは間違いない。
大体、俺は美都の下着が消えちゃってもいいのだ。むしろ、消えちゃっていやーんばかーんうふーんな展開が見たかったりするのだ。いや、うふーんはさすがにないか。
このまま買わずに、帰る。
そういう選択肢だって、ある。でも、そうした場合、美都の平手打ちが飛んでくるのは間違いない。そして、繰り返すが、もう俺には平手打ちさせる頬は残っていないのだ。
その時、下着売り場の若い店員が俺をちらちらと横目で見ているのに気づいた。
そりゃそうだ。俺がここにじっと立っているのが、おかしいのだ。もしかしたら、変態と思われている可能性だって十分ある。しかも若い女性店員は今にも警備員に言いつけにいきそうな雰囲気をかもし出している。警備員に言いつけられた場合、どうなる。俺の罪状は。将来は。
――――設定だ。
そう、設定を作るのだ。俺がここに居ても不自然でない、設定をだ。
「実は母親に買ってくるように頼まれまして、ええ、親孝行だとよく言われます」
これはない。大体美都の下着を俺は買いに来たのだ。母親が付けるような下着を買っていった日には美都に殺されるだろう。
「実は妹に買ってくるように頼まれまして、ええ、妹にはいつもお兄ちゃんが好きって言われます」
――ないな、これもない。しかも後半、若干おのれの希望が混じってしまった。
「実は彼女の下着を買いに来たんですけど。ええ、プレゼントです。でも、どんなのがいいかよく分からなくて。すみません、適当なの、選んでもらえませんか?」
これじゃね?っていうか、これしかない。
その時、女性店員が誰かを呼びに行きそうなそぶりを見せた。警備員を呼びに行くのか。まさにピンチ。
ピンチに陥ったボクサーは、引いたら負けるという。ピンチの時こそ、前に出るのだという。
俺は、下着売り場に足を踏み入れた。ゴングの音が聞こえた。勿論幻聴だ。
いかにも、恋人の下着をプレゼントで買いに来た男、という設定をイメージしながら、下着の中を歩いていく。今、俺は役者だ。しかし、凄いな。こんな下着もあるのか。これなんかもうありていに言って、着るものじゃないよ。ただの布着れだよ。これにいたっては、ただの紐だよ。紐に布がちょびっとついている、って感じだよ。一体これをどうするんだよ。
「うーん、どういうのがいいかなあ~」
ちょっとわざとらしく、声を出してみる。勿論、ターゲットはさっき俺を見ていた女性店員だ。理想的な展開は、俺を変態と思ったであろう彼女に、俺が変態ではないのだということを理解させ、さらには、彼女自身に買うべき下着を選んでもらうことだ。被害は最小限に食い止められるような気がする。
ちらり、と盗み見てみると、女性店員は別の仕事をしていて、俺の方を見ていない。なんてこった。さっきまでの俺に対する熱視線はどうした。
「うーん、彼女のプレゼント、どういうのがいいかなあ」
もう一度、聞こえるように言ってみる。頼む、気づいてくれ。
再び女性店員を見てみると、まだ別の仕事をしている。どういうことだ。さっきは俺を変態扱いしたくせに、いざ秘密の花園に踏み込んだら無視か。
「彼女、どういうのが似合うかなあ」
「大橋君?」
おいおい、やっと気づいてくれたよ。
――あれ?でも、何で女性店員、俺の名前を知ってるんだ?
顔を上げて見る俺。
細川芽衣が立っていた。幻ではない。すらりとした手足。大きな瞳。目が悪いのか、いつも濡れているような瞳だ。髪は長いんだろう。いつも後ろで束ねているから、それをといた時にどのくらいの長さになるのか、俺には分らない。しかも、制服姿でない細川を見るのは、初めてだった。地味じゃない、かといって派手でもない。細川らしい、服のセンス。
「やっぱり大橋君――なんでこんなところにいるの?」
「俺じゃないです」
意味不明のことを思わず言ってしまう俺。俺じゃなかったら俺は誰なんだ。
「は?」
案の定、細川はぽかんとした顔で俺を見ている。
まずい。
女性店員などこの際どうでもいい。細川に変態と思われてはならん。
いや待て。良く考えろ。何故、細川がここにいるのだ。そうだ。ここに居るってことは、細川も下着を買いに来たのだ。
ちらり、と横目で細川を見る俺。
おおう。
彼女の手にはブブブブ、ブジャーがある。慌てすぎて心の中でまで舌を噛むとはどういうことだ。ブラジャーだ。デカイ二つのお椀状のものがある。この二つのお椀の中に細川のアレが納まるのだ。つまり細川のアレもデカイということなのだ。固いのか柔らかいのか。集団縄跳びで細川のアレが揺れるのを俺は以前確かに見た。つまり柔らかいのだ。デカクて柔らかいのだ。ひゃはー!小脇に挟んでいるのは、パパパパパパパパパンティ薄ピンク色小さい蝶の柄が刺繍。意識が混濁して何を考えているのか自分でもよく分からない。
「あっ――!」
俺の視線に気づいたのか、細川は小さく声を上げて下着を自分の背中に隠した。俺から見えないように。しかし、俺の心のハードディスクレコーダーにはしっかりと記録させていただいた。非圧縮で。薄ピンクの蝶ね。
細川がきっと俺を見た。よく考えたら、こんな近距離で細川の顔を見るのも初めてだった。間違いなく、可愛い。顔を紅くしている。まあ、下着を見られたんだ。そりゃ恥ずかしいだろうな。
「――どうして、こんなところにいるの?」
赤い頬をさらに赤くして、細川が言った。
「いや、あの、実はさ」
待て。さっきの設定は駄目だ。細川に、彼女の下着を買いにきたなんて、言えるわけないだろ。俺はフリーをアピールしなければならん。別の設定だ。別の設定を考えるのだ。急げ。時間は刻々と過ぎて行くぞ。
「妹の下着を――」
いや、これも微妙だ。妹の下着を買ってあげるやさしいお兄ちゃん。そう思ってもらえる可能性はゼロパーセントではないが、むしろ妹との仲を怪しまれる可能性のほうが高い気がする。兄妹の禁断の関係。エロゲームのようだ。
「大橋君の変態!」
殴られる俺。泣きながら走り去る細川。細川に殴られるって言うのも、ちょっと試してみたい気はするけど、駄目だ。
「おふくろの下着――」
これも駄目だ。どこに母親の下着を買う息子がいる。しかも、マザコンと思われる可能性もある。
「大橋君のマザコン!」
殴られる俺。そして泣きながら走り去る細川。いや、この場合泣かないかも。
他に設定はないのか。いい設定は。急げ俺。彼女も駄目、妹も駄目、母親も駄目だ。
どうしたらいい。誰のなら良いんだ。
「実は、俺のなんだよ」
「え、大橋君の?」
つい口走ってしまった言葉に、細川が目を丸くして俺を見る。そりゃそうだ。俺のってなんだよ。女装趣味でもあるようではないか、俺。
「ふうん。そうなんだ――」
細川が目をそらした。まずい。目をそらされた。女装趣味があると思われている。
「いや、違う。俺のじゃないんだ。なんていうか、その」
言いかける俺。その時、細川が目をそらしたまま、口を開いた。
「前から思ってたけど」
細川が俺に向かって、つぶやいた。
前から思ってたけど?
おやおや?何か、フラグ立ってませんか?
前から思ってたけど、あなたのこと、気になってたの。
おお、きた。前から思ってたけど、のあとに続く言葉ってそれしかない。気になってたのって、つまりあれだ、好意を持ってるってことだな。
え、本当に?自分で言うのもなんだけど、何で?いや、でも他に考えられるか?
「前から思ってたけど、大橋君のこと、気になってたの」
ほら、来たよ!俺の心臓がばくばく言ってる。夢が、想像していたことが、現実になろうとしている。
「え、まじ?ホントに?まさか細川がそこまで思ってるとは予想外だったけど。いや、勿論、嫌ってことじゃないよ。嫌どころか、嬉しいし、嬉しいに決まってるよ」
「ほ――ほんと?」と、上目づかいで俺を見る細川。その上目使い、破壊力抜群だよ。まじで可愛いよ細川。下着が蝶と化し、背景を舞う。
「ほんとに決まってるだろ?いつも、学級委員会のときとかさ、君が委員長の横に立ってるの、見てたんだ」
「うん、大橋君があたしのこと、見つめてるってこと、知ってたよ。だから、顔が赤くなっちゃいそうでいつも困ってたんだもの」
「そ――それはごめん」
「それにね、前から思ってたけど――大橋君って――学校でもいつも下向いててさ、何考えてるのか分からないの」
何考えてるの?ってそりゃ、君のことさ。学校に居る間の83パーセントは君の事を考えてるね。後の17パーセントは学コンのことと、昼ご飯のことです。
ああ、勉強のことも2パーセントは考えてるかも――――。
って、ん?あれ?途中からおかしくなったぞ。
「ちょっと、細川?今なんて言った?」
「だから――大橋君、何を考えてるか、わからないの。それなのに」
「それなのに?」
「それなのに、何ていうか、よく目が合うっていうか」
そりゃそうだ。確かに俺はよく細川を見てる。だからだ。
「だから――あの、えーとね、あんまりいい気持ちがしないって言うか」
細川が若干言いにくそうに、言う。いい気持ちがしないっていうか。どういうこと?
「細川?あの、何言ってるのかよくわからないっていうか」
「前から思ってたの――――大橋君、なに考えてるか分からないし、それに時々あたしのこと、見てるでしょ?それが、あのね、気持ち――悪いの」
ああ、なるほど。気持悪いんだ。俺。ああなるほど、そういうことか。いや待て、でも細川は一度俺に告白しなかったか?確かに言ったよな、あなたのこと、気になってるって。あれ?言ってない?ああ、いつものあれか。途中までは俺の妄想だったってわけか。で、何だって?
思考がやっと追い付いてくる。
いや待て、なんだこれ。細川が俺のことを気持ち悪いって言ってるぞ。
「――気持ち悪い?」
俺の言葉に細川は頷いた。小さくだけど、しっかりと。
「それに、高校生が彼女に下着をプレゼントするなんて、おかしいと思う」
細川はそう言い放つと、隠し持っていた下着をばさっとワゴンの中に放りこむと、足早に去っていった。
俺は、その後ろ姿をただ、見つめていた。なんだ、設定はすでに聞かれていたのか。俺の努力はなんだったんだ。あんなに悩む必要、無かったな。いや待て、問題はそこじゃない。
気持ち悪いの。
唐突に、細川の言葉が頭の中に渦巻いた。
そうだ、問題はそこだよ。
なんだ、これ。告白もしてない。いや、そもそもそんなことなんか期待してなかったし、ありうるとも思ってなかった。ただ、学校帰りにばったり会うとか、ちょっと話すだけで幸せになれる。そう思っていた。それくらいの事件は俺にもあって欲しい、と思っていただけだ。そして、さっきまでの展開はまさにその通りだった。偶然ばったり出会った。話もした。なのに。
気持ち悪い。
事件は確かに起こった。決定的に悪い方に。俺は、何もする前に、壊滅的にフラれたんだ。ワゴンに残された、細川が買おうとしていた下着を手に取った。
この下着を買おうとしていたんだ――。
ほんのりと甘酸っぱい気持ちが体の中に沸き起こる。俺は、細川の大きな胸を包むはずだったブラジャーを握り締めた。ぐにゃり、とワイヤーが俺の手のひらでひしゃぐ。
「ちょっと、お客様」
ブラジャーは思ったよりも固かった。もっと柔らかいものを想像してたけど。
「ちょっとお客様!」
顔を上げると、女性店員が二人、俺の横に立っていた。
「そのようにされては困ります、売り物ですので」
「え――あ――あの――」
そうだ、設定を言うんだ。何だったっけ。そうだ、俺は彼女のプレゼントを買いに来たんです。
「あ、実は――」
俺が言いかけたその瞬間。
気持ち悪い。
細川の言葉が再び脳裏をよぎった。
「――」
「お客様?」
「何でもありません!すみませんでした!」
俺はその場から逃げるように走った。
「お客様!」
振り向かずに俺は走った。何故走るのかはよく分からなかった。でも、そこから一刻も早く、逃げ出したかった。恥ずかしさで一杯だった。下着売り場にいる、恥ずかしさではない。なんと言うか、俺は俺自身が恥ずかしくて仕方なかったんだ。
「お客様!商品を!」
女性店員がまだ叫んでいる。見ると、俺は手に細川の買うはずだったブラジャーをにぎりしめたままだった。俺はそれを、近くのワゴンに放り投げると、そのままエスカレーターに飛び乗った。
「ごめん」
俺は待ち合わせの場所に行って、まず美都に謝った。
「ごめんって?」と美都はぽかんと口を開けて、言った。
「幾つか、服は買ってきた。でも、下着だけは買えなかった」
買ってきた服の袋を手渡して、俺は正直に告白した。美都は袋から服を取り出して、広げて見ている。自分の体に当ててみたりして。
「あんまりセンスが良いとは思えないけど――ま、いいか」
「ごめん、女の子の服なんて、どういうのが良いかなんて、分らないから」
「どうしたの?急に素直になっちゃって――何か変だよ」
そうなんだよ、たった今、俺は好きだった女の子に振られてきたんだよ。しかも、気持ち悪いって言われたんだよ。変にもなるってもんだよ。
「大体、下着を買うなんて無理だよ。じっくり見たこともないのにさ」
「彼女とか、居ないの?ま、いるわけないか」
俺が答えを言う前に、あっさり断定する美都。まあ、いないけどさ。
「悪かったね、いなくてさ」
別の服を取り出して、体に当てている美都。
「うわあ、これはないな――。うん、これはない」
「悪かったよ。次はもっと良いの、買ってくる」
美都が俺を見た。笑っている。
「ホント?」
「勉強するよ。そうすればもっといいの、選べるようになる」
「勉強?どうやって勉強なんてするの?」
そうだな。そう言えばそうだ。どうやって女性の服のセンスを勉強するんだ?いや、そもそも美都の服の趣味を知らなければならないじゃないか。制服じゃあ、趣味は分らん。いや待て、でも、下着はどうだ。下着は制服と違って画一的なものではないだろう。趣味が出るはずだ。そうだ、下着を見ればいい。
「君の下着を見せてくれればいいんじゃないかな」
「――――」
みるみる美都の顔が紅くなった。照れてるのか?違うな。眉がつりあがってるもんな。これは怒ってるんだな。
バチン。
案の定、美都の平手打ちが頬にヒットした。ああ、もう平手打ちされる頬は残ってなかったはずなのに。そうだよね、別に二回叩いたっていいんだもんね。
「この変態人間!」
また口汚く罵られた。でもさ、変態だけでもいいじゃないか。人間までつけることないよな。