欲求
手のひらに収まるその物体。その中に"恵み"そのものが凝縮している。
艶やかで滑らかなその表面は鮮やかに赤く、見た目よりも少し重みを感じるそれは、そのエネルギーが内部の隅から隅まで満ち満ちている事を示していた。見かけ倒しなどではない。
淡く、そしてかぐわしい香りが、その物体の周辺に甘く漂う。これを手にしている自分が特別な存在なのだと思わず錯覚してしまいそうなほどで、そしてこれを手にしている自分はやはり、特別な存在なのだと思うのだ。そしてそれを今から口にしようとする自分に、罪悪感と背徳感すら覚えてしまう。
それを両手でゆっくりと、自分で自分を焦らすかのようにそろそろと、顔の前に持っていく。鼻を優しく刺激するその香りが、心拍数を上げさせる。無意識のうちに開けていた口から唾液が垂れ落ちた。
歯を、その表面に突き立てる。一瞬固さを感じたが顎に力を込めると、かしょ、という音と共に口内で割れ、その甘い蜜が舌を瞬く間に支配した。溶けるような、それでいて口の中でその存在感はいつまでも消える事がない。しゃくしゃくと噛み砕くごとにその甘味は脳すらを染め上げていくようだ。その液が手を濡らし服を汚していくのを感じながらも、それを食い尽くして身体の中に収めたい欲求の前にはあまりにも小さかった。
「やっと見つけた……朧神さん、こんなとこで何やってるんですか」
研究所の外、すぐ近くの林。鳴瀬は、その木々の隅で膝を突き、土と汁で白衣を汚しながら林檎を一心不乱に食べていた朧神に見つけ、向かい合うように近付いた。
「未知君」
朧神は鳴瀬の声を聞いて反射的に、瞳だけをその声がする方に向ける、見開いた両目で、凝視するように。
「食事の邪魔、しないでくれます?」
クリーム色の巻き毛の間から覗かせる銀の双眸は、まるで野生の生物のようにぎらついていた。肩を上下させ、残った芯にしゃぶりつく。そんな朧神を見て鳴瀬はたじろぎそうになったが、何回もこんな光景を見た事があったからか、表情にそれを出す事はなかった。
「もうすぐお客さんが来るんですよ、準備しなきゃじゃないですか。怪しまれたら大変ですよ。……ほら、眼鏡はどこにやったんです? 普段掛けてるのに、変に思われますって」
そう言いながらも鳴瀬は、仕方ない事だと分かっていた。朧神は、こうなのだ。知っていた。
でも、言葉をかけていないといつか本当に、狂ってしまうのではないかと、鳴瀬は恐怖すら抱いていた。
「眼鏡?」
芯まで林檎を食い尽くし、朧神は果汁まみれの両手を舌で舐める。
「アレは、ボクがヒトである時だけ、掛けているんです。知ってるでしょ?」
朧神は言う。
「食事の時くらい、ヒトである事を忘れちゃダメなんです? 」
首をかしげながら、感情のない虫のように。