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―――――――…


 何を見ているの

 何を思っているの

 ひとりは、寂しい……?


 ぼくらに人間の感情は上手く理解できない

 きみがおしえた、愛というもの以外は

 ぼくもずっとはここには居られない

 きみをひとりには、したくはないのに


 ぼくがきみを引き留めた

 ひとりきりのこの世界に 

 きみはぼくのことなど、ほんとうは愛してもいなかったのに


 ただきみはきみの大切なものを守るために、ここに居ること

 ぼくが気付いていないとでも思っているのか

 きみの大切なものは、ここにはないのだということを

 ぼくはとうに知っている


 だから、ここから逃がしてあげる代わりに

 ひとつだけ約束をした


 慰めの愛を吐くきみに

 ぼくを愛してはくれないきみに

 きみの心を、どうしてもしりたかった


 ――きみの、子どもが欲しい


 そこに、

 愛はなくても


―――――――…


 今にも壊れそうな古井戸の淵に立つ。リュウと向かい合うように。

 底の見えない古井戸からは不思議な空気が漂っているような気がした。

 水音だと思っていたものが、段々と別のものに思えてくる。


 淡く、リュウのその体が蒼い光を放った。


「セレスが扉を繋ぐ。どのくらいもつかは分からない。すぐ俺のあとについて来い」

「……わかった」


 そう言ってリュウは、躊躇など微塵もなくまっすぐ井戸へと吸い込まれていった。

 水音はするけれど、リュウの落ちた音はしない。

 本当に別の場所へ繋がっているんだ。あの、世界と。

 セレスの力の残存が、淡い光の粒が井戸の底から浮かんでくる。


 あたしは一度だけ、校舎の方を振り返った。

 木々の隙間から顔を覗かせる校舎の顔。

 それから家族や友達の顔を。


 心残りがないわけじゃない。

 だけどきっと、この心が、あるからこそ。

 すべてが閉ざされるわけではないのだ。


 永遠など無い代わりに、今という確かな瞬間がある。

 不確かな未来よりも確かな今が。


 足元に向き直り、井戸の奥を見据える。

 それから井戸へと飛び込んだ。



 落ちていく、この感覚。

 ――懐かしい。

 初めてジェルスフィアに喚ばれた時と同じ感覚がした。


 ふと、音が耳元を掠める。

 オルゴールだ。お母さんからもらった、あの。

 知らない歌だと思っていた。

 だけど歌だと分かったその音色は、聞いたことがあるからだ。


 むかしお母さんに歌ってもらった子守唄。

 たぶんそう多くはない。

 だけどお母さんがあたしの“お母さん”であったその瞬間。

 それは確かに、あたしの中に刻まれていた。


 あたし、ちゃんと。

 愛されていた。

 そして同時にもらったもの。

 あたしにしかできないこと。


 微かに残る記憶の欠片を、必死にかき集めて言葉を繋ぎ合わせる。

 お母さんはなんて唄っていたの……?


 海の人魚のお姫さまの、ともだちの歌。

 哀しい恋の歌ではない。

 彼女は泡になったのではない。


 誰も知らない物語の最後は、ハッピーエンド。

 幸せそうに海を見る、その横顔。

 これは、この歌は。


 お母さんとそして、リズさんの――

 

 木彫りのオルゴールの箱の隅には、小さく文字が彫られていた。

 誰かの名前ではない。誰かに宛てたメッセージ。

 そしてそれは、あたしではなかった。

 お母さんがあたしに託したものだった。



 重力から解放された体が、水の抵抗を感じた。

 勢い良く体が水中に放り込まれる。

 咄嗟に息を止めて口元を押えた。

 ――水の中。

 違う。ここは……


 足の裏に地面を感じて力を込める。

 重たい水を引きずりながら、なんとか這い出た水の底。

 息を吐き出して、吸って。

 滴る水滴が口の端から舌先で、独特の塩辛さを伝えた。


 井戸の底ではない。

 海だ。

 あの井戸は海に繋がっていたんだ。


「……シェルスフィアじゃない……」


 流れる海水を体に絡ませながら視界を巡らせると、遠くに校舎が見えた。

 さっきまであたしはあそこに居たはず。

 いくら井戸と海が繋がっていたとしても、人ひとりがそこを通るのは不可能だろう。

 おそらく何等かの力の作用が、ここへあたしを運んだのだ。


 リュウの姿は見当たらない。

 もしかしてあたしだけ、弾かれてしまったんだろうか。

 神々の力には相性があると言っていたっけ。


 ただ飛び込む時に感じたあの感覚は、神々の力に他ならない。

 あたしは確実に、どこかの扉をくぐったはずだ。


 それから別の方向に、お母さんが入院していた高台の病院。

 お母さんの病室の窓からも学校が見えたことを思い出す。

 もしかして、ここは。


 お母さんがずっと見ていた場所――? 


 海に囲まれた浅瀬のような場所。

 シェルスフィアのあの青とは違う海が目の前に広がっている。

 だけど自分にとっては幼い頃から馴染んだ海。


 だけど、違う。

 何かが違う。

 そう思った。

 

 空には雲ひとつなく、風もなく凪いだ海。

 あたしの鼓動と声だけが唯一の、この世界での音だった。


 ああ。でも。

 同じような場所をあたしは知っている。

 かつてトリティアにも連れていかれた。

 現実ととても似ていて、だけど決して同じではない場所。


 それはおそらく、記憶と思慕が生み出す情景。

 ここはきっと――


『――きみが、マオ……?』


 背後から突然声がした。

 ついさっきまでここにはあたししか居なかったはず。

 思わず勢いよく振り返り、海水がぱしゃりと撥ねた。

 その水滴が虚空で止まる。



『――やっと。やっと、会えたね。マオ。ぼくの、大切な娘』



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