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「……イリヤ?」
さっきからイリヤの様子がなんだか変だ。
ただ力を見せるだけのはずだった。そしてイリヤの持っている情報を、少しでも引き出せればと。
イリヤにこんな顔をさせる為ではなかったはずだ。
「イリヤ、どうしてそんな顔をするの?」
あたしの問いに、イリヤはそっと瞼を伏せて俯く。
その華奢な肩が、零れる滴が震えていた。
「本当は何が知りたかったの……?」
その言葉にイリヤはゆっくりと顔を上げ、それから自分の両手であたしの両手を握った。
冷たい手だと思った。意外と骨ばった、細くて長い指。あたしはそっと握り返す。
そしておもむろにイリヤはあたしの両手を自分の首元に導いた。
絡めた指を解き自分の首の輪郭をなぞらせるように、添えられるのはあたしの手。
そこには真珠の首飾りが幾重にも巻かれたイリヤの細い首がある。
指先に触れるその感触はさっきの結晶と似ていた。
イリヤはあたしと視線を合わせ、それから微笑んだ。
はじめて見た時のようにひどく儚げで美しい笑みだった。
その口元が小さく動く。だけどあたしにはなんて言っているのか分からない。
その声は、あたしには――
『――解放を』
その瞬後。
指先に触れていた感覚が、形を変えた。
視界に上がる水飛沫。散らばる、透明な水の色。
あたしの手とイリヤの体を濡らしたそれは、肌や布や床に染み込んでいく。
目の前には顕わになったイリヤの、細い首筋。
先ほどまでの首飾りはそこにはもう無くい。
ただ口元に笑みを浮かべたまま涙を流すイリヤの姿が、あたしの脳裏にまでくっきりと刻まれていた。
クオンも驚きのままその様子を見つめている。
事態が上手く呑み込めなかった。
どうして、イリヤの首飾りが水に?
だって今までの流れだと、この力が及ぶのは同じ力の元でだけだ。
きっとただの石を液体にすることなんてできない。同じ力のもとに、結晶化されたものでなければ――
「……トリティアを……知ってるの?」
ほぼ無意識に、そう呟いていた。頭に沸いた疑問がそのまま口をつく。
イリヤはゆっくりと首を振った。
「……でも」
小さく聞こえてきた声に、あたしもクオンも目を瞠る。
それは紛れもなく、イリヤから聞こえてきた声だったのだ。
少し掠れた、だけどあたしにしか聞こえなかったあの歌声と同じ声。
「ずっと、あなたに会いたかった。あなたのこと、ずっと待っていた――」
―――――――…
ベッドで眠るイリヤの姿を再度確認して、そっと部屋から出て扉を閉める。
念のため鍵は閉めておくことにした。それから部屋の外で待っていたクオンと共に再び人気の無い船尾へと向かう。
あの後意識を失ってしまったイリヤをクオンが部屋まで運んでくれた。
船医に診せようか迷ったけれど、クオンが寝ているだけだというのでひとまず様子を見て寝かせておくことにしたのだ。
「……どう思う?」
人が居ないことを確認してから、そう切り出す。
隣りに並んだクオンは相変わらずの無表情で視線だけちらりとあたしに向けた。
「……以前も説明した通り、海の神々の力に関しては不明な点が多過ぎます。なのでこれは私個人の憶測になりますが」
「それでいいよ、それが聞きたい」
あたしの返事にクオンは視線を真っ直ぐ前に戻した。
その先にはシェルスフィアの海が広がっている。
「貴女の手によって彼女の首飾りは液体化しました。そこから推測できるのは、あれが貴女……いえ、貴女の中のトリティアが過去に結晶化した物だったからだと推測されます。どうしてそれを彼女が持っているのかは分かりませんが、貴女の力を見た彼女は貴女なら“できる”と確信を得た。だから貴女に、半ば無理やりに“解かせた”――」
――“解いた”。
それはつまり、そこに“何か”があったということだ。
「……何を、解いたの? あたしは、何を……」
「それは彼女に確認しなければ分かりません。現状分かっているのは、それを“解いた”後彼女は声を取り戻し、そしてその為に貴女を待っていたということです」
声を失ったというのがイリヤがついた嘘だとは思えなかった。
あの、あたしにしか聞こえない歌。あれはイリヤの声にならない声が奏でていたものだ。
「ですがここまでの状況からおそらく、それは“呪い”でしょう。あの首飾りはトリティアに呪われていた。そしてその所為で彼女は声を失っていた。だからこそ貴女を……正確にはトリティアをずっと待っていたのではないでしょうか。呪いを解いてもらう為に」
思わず自分の手をぎゅっと握る。
それをはっきりと言葉にされて心臓が痛みを覚える。
“呪い”と聞いて真っ先に思い浮かんだのはシアの姿だった。
その所為で親族達の命を奪われ、今も自身の命を削られ続けている。
そこにあるのは悪意だ。
「“呪い”をかけるのって……どういう時だと思う……?」
訊いた声が知らず震えていた。
クオンは気に留める様子もなく口を開く。
「一番単純なのは、憎悪の対象となり得る場合です。相手の存在を抹消したい時、相手に最も多くの苦痛と絶望を与えて死に追いやる方法を我々はそう呼びます。ただもうひとつの可能性もあります。呪いではなく、“封印”です。何らかの意図と意志を以て封じる――それはある種の防護と同義と言えるでしょう。多くの場合が外界からの侵害と、もしくは永く守り続けてきた歴史と真実がそういった対象となり得ます。ですが今回のような人体に影響を与える、もしくは奪う場合というのは呪いというのが一番近いでしょう。彼らは奪うのだけは得意ですから」
仮にもその“彼”と指す存在が今目の前に居るというのに、クオンは全く気にする様子も無く言い捨てた。
やはりこのシェルスフィアで神と“共生”してきたのは、王族だけなのだろう。
それ以外のひと達は、大きすぎるその力に奪われるばかりの歴史を歩んできたのだ。
「とりあえず、イリヤが海の神と……少なくともトリティアと関わりがあることは確かってことだよね」
「そうとは言えません。正確には、彼女では無い可能性の方が高いでしょう」
「どういうこと?」
「シェルスフィアに加護をもたらしていた6人の神々は、建国以来国王をはじめとする6人の王族に仕えてきました。トリティアも、少なくとも2年前までは前国王陛下が従えていたはずです。その手を離れ呪いをかけることは不可能でしょう。契約とはそういうものですから。すぐ後にジェイド様がに再契約の手続きでトリティアとの接触を試みていらっしゃいましたが、呪いの弊害もありなかなか上手くいきませんでした。その間トリティアはこの国には……正式にはこの世界には居なかったと、リシュカ殿から聞いております」
つまり、トリティアがイリヤの首飾りに呪いをかけたのは、ここ最近の話ではないってことだ。
でもそうすると――
「あの首飾りに呪いをかけたのは、建国前の……すっごく昔ののことだってこと?」
「あくまで可能性の話ですが。あのギルドでの情報の真偽の程は定かではありませんが、もしかしたら彼女は本当にこの国にとって希少な種族なのかもしれません」
「……そうなの? まだあの首飾りがイリヤと関係あるのかも分からないし……だってよくいうじゃない、海で眠ってたお宝の中に呪いの品が混じってたりとか」
「そうですね。ですが近年そういった類のものは一般人の手に渡らないようになっています。発見時に魔導師が鑑定・選別をし適切な処置を施すからです。船に必ず魔導師がいるのはその為でもありますから。マオが聞いたという歌もありますし……単純に一族に受け継がれてきたものを身に着けていたというのが妥当でしょう」
「じゃあ、イリヤのご先祖様が昔トリティアと関わったことがあるとか……そういう話?」
「それだけでは済まされないのも事実です。海の神々と接触できる人間というのは限られています。魔力云々というより、“素質”の話になるからです」
「……まさか、イリヤはトリティアの姿を見れたり、言葉を聞けるってこと?」
「要素としては多くあります。海の近くに住み神々と意志を通わせる一族というのは歴史上確かに存在します。もう500年も前に亡んだとされてきましたが……もしかしたら人知れず生き残っていたのかもしれません」
シェルスフィアは永く王族以外の国民と海に住まう神々の接触を禁じてきた。
王族しか神と契約できないという嘘が成り立ってきたのは、単純にその資格を持つ国民自身が殆ど居なかったからだと言えるのだろう。
でないとその嘘はすぐにバレてしまうから。
だけど最もその資格に相応しい種族が、王族以外に居たとしたら――
「……それって……国にとっては、どうなの?」
「私も詳しくは知りませんが、一時は王国の保護対象であったと聞きます。ですがやはりその存在は国にとって脅威となったのでしょう。他国にその力が渡ることをおそれた当時の国王が、一族全員を処刑したという説も残っているくらいですから。史実上は環境適応能力の退化で種を存続できなかったとなっています。生まれ持つ特殊能力と時代の変化が合わなかったと」
「……」
改めて、思う。感じてしまう。
真実は記述では語れない。目に見えるものすべてが真実だとは限らない。
永く語られている歴史が本当にすべて真実だとは限らないんだ。
「……あたしの世界にも国や世界の歴史を学ぶ授業はあるけど……その歴史が例えば真実じゃないとしたら、何の為に学ぶのかな……」
「歴史とは永い時間をかけて人々の意識に刷り込むものです。過去に学び、尊び、教訓する。未来の子孫が誤った道を選ばぬよう、祖先から贈られる指針のようなものだと認識しています」
相変わらず堅苦しい説明のクオンに思わず苦笑いを漏らす。
クオンはその場その場で自分の考えを素直に口にしてくれた。
それはあたしにとって有り難かった。
多分誰にでもできることではない。
見聞きした情報を一度自分で消化して呑み込む時、そこには多くの主観と感情が介入する。
迷わず間違わず自分にとっての真実を選ぶのは、あたしにはまだ無理だ。自信が無さすぎる。それを口にするのはもっと。
「……そういえば、シアのカラスは」
ふと久しぶりにその存在を思い出し、上空に視界を巡らせる。
最後に見た船のマストにその姿は見当たらない。あれからまだ一度も会話をしていなかった。
「今朝方このあたりの海域をご確認なさると行ってしまわれたきりですね。出航までには戻ってくると仰っていましたが」
「……そっか」
それを聞いて思わず声に力がなくなる。
話を聞いてもらいたかったし、シアの意見も聞きたかった。
シアは王族で現国王だ。多分言えない言葉も語れない歴史も多くあるだろう。
だけどそれでもいいからシアの言葉が聞きたかった。
シアの声が、聞きたかった。




