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その場に居た誰ひとり、声を上げなかった。
しんとあたりが静まりかえる。
小娘ひとりに払いきれる金額じゃないと思ったのだろう。目の前のゼストも怪訝そうな目でこちらを見るだけだった。
静まり返るその隙に、あたしは発言を続ける。
「その子には、ある仕事の手伝いをしてもらいたい。それはきっと、この金額相当の働きになる。できないとは言わせない。やってもらう。でも、それが終わったら……彼女に自由を返す。その子の価値は、その子に決めさせる」
ゼストは僅かに目を瞠り、それから口元に手を寄せ意味ありげに笑って見せる。
価値と対価を示せと言った。最高金額を出したって、この男が売らないと言えばムダなのだ。金額以上のものを求められているのなら。
「まず、お嬢さん。払える保障は? 分割は無しだぜ、即金だ」
問われてぎくりと体が固まる。
そろりと視線を上げた先のクオンは、口元を片手で隠して僅かに俯いていた。
その様子に思わず緊張が走る。
もしかして払えないのだろうか。流石にいき過ぎた額なのだろうか。
あたしの視線に気づいたクオンが、ゆっくりと顔を上げた。腕に僅かに力が篭る。
「支払は私が。王国軍中央騎士団所属です」
クオンの言葉にゼストが目を丸くする。
そんな立場の人間がここに居ること自体に驚いているのかもしれない。
周りに居た観客達の間にもどよめきが走る。
暫く思案した後、ゼストは「いいだろうと」軽く片手を上げた。
「それでお嬢さん。この子に何を求めるって?」
「その子にしかできないことを」
「俺たちはそこまでは保障しないぜ? あくまで俺たちが引き渡すのは、述べた口上の通りだ」
「それはあんた達が勝手に決めたことでしょう」
思わずきつくなる語尾に、ゼストはどこか楽しげだった。
それが余計に気分を逆なでする。
結局ここに居る人たちもこの男も、紙の上で書かれた価値だけで物事を見てる。
思わずゼストを睨みつけながら、握る拳に力がこもる。
「人には誰にも、その人にしかできないことがある。価値がある。それはきっとここでは測れないことのはずでしょう」
日が暮れてゆく。夕日が海に沈んでいく。
オレンジ色に染まる海水に浸ったままの彼女は、やはり綺麗だ。この世のものとは思えないくらいに。
琥珀色の瞳がじっとこちらを見据えていた。女のあたしでさえその瞳で見つめられるとドキドキする。
彼女が生まれ持ったものは、彼女を幸せにしてはくれないのだろうか。
静まりかえる会場に、パン!と軽快な音が響いた。
「――いいだろう! 勇ましいお嬢さん。あんたに売った。この場で一番、あんたの提示する価値が高い。この子の価値を認めてくれる人に売るのが俺たちのギルドだ。ここは人身売買所では無いからな」
最後の言葉をちらりと向けたのは、クオンにだった。
僅かにざわつく観客達に、ゼストが本日の全競りが終了したことを告げる。
客たちはちらほらと散っていき、おそらくギルドの他の商人達が場の撤収に取り掛かっていた。
ゼストはあたしとクオンに「少し待ってな」と告げ、テントの奥に引っ込んでしまった。
それがあまりにもあっさりだったので、いまいち事態に追い付けず目を瞬かせる。
「終わったようですよ、マオ」
頭上からクオンの声が降ってきて、ゆるゆると視線を上げる。
「え……あ、の……クオン。お金、本当に……」
思わず口をついて出たのはやはりその事だった。
不安が顔に出ていたのか、クオンが不服そうにじろりと睨む。
「大丈夫だと言ったでしょう。見くびらないで頂けますか。王国騎士はこの国で最高の称号ですよ」
「そう、なんだ……」
改めてクオンがすごい人だったんだなと自覚する。
思えば国王であるシアとあそこまで親密に話せているのも、やはりそういった立ち位置に居るからなのかもしれない。
ようやく安堵した体から力が抜けていく。
そのまま息を吐きながらクオンの腕の中に背を預け、クオンは何も言わずあたしの体を支えてくれて言葉にはせず感謝した。
慣れないことをし過ぎたせいでひどく疲れていた。
「……さっき、彼女のことなんだと思っている、と言いましたね」
クオンがぽつりと呟いた。あたしは視線だけでそれに答える。
クオンはまっすぐ、まだ水槽の中に居る彼女に目を向けていた。
まわされた腕にわずかに力がこもる。
「おそらくこの場に居た大勢の中で、彼女を商品ではなく人間だと思っていたのは、マオ、貴女だけでしたよ。自分に少し幻滅しました」
ゼストに引き渡しの手続きがあると呼ばれたけれど、クオンが全部引き受けてくれた。
実際の手続きや書面上のやりとりはあたしにはよく分からないし、この世界の文字も読めないので正直助かった。
それにクオンに任せておけば大丈夫だろうという気持ちもある。
クオンはテント内に招かれ、あたしは外で待っていることにした。
テントの脇の用意してもらった椅子に背もたれながら、瞼を閉じる。
レイズになんて言おう。この子の乗船を許可してくれるだろうか。
シアはなんと言うだろう。あたしのこの行為を諌めるだろうか。呆れるだろうか。
それでも良い。後悔はなかった。
暫くしてクオンがテントから出てきてあたしの方に向かってきた。
手には書類と何か持っている。
その表情は珍しく少し不機嫌そうだった。
「処理はすべて済みました。彼女を引き取って戻りましょう」
「え、あ、うん。でも、どうやって……」
あたし自身もそこまで考えが及んでいなかったことだけれど、彼女は海水が無いと生活ができないという。しかも足が乾くと歩けない。その為にあんな大がかりな水槽に入れられているのだ。
どうやって彼女をいったん船まで連れていこう。台車か何かでも借りるのか、と考えていたのだ。
「その心配には及びません。マオ、貴女の言う通りでした。彼女に関することは、すべて彼らの勝手で無責任な情報価値でしかなかったようです」
「……? どういうこと?」
「私達が聞いた情報の中で真実なのは、“話せない”ということだけのようです」
言いながらクオンがあたしの手をとりそこに銀色の鍵を乗せた。
彼女の鎖の鍵だという。
クオンが言うには、ギルドの商人がとある海辺で彼女を“保護”した際の状況から、彼女はひどく衰弱し歩くことも話すこともできず、ただ海辺から離れたがらなかった。そこから古くの伝承と勝手に照らし合わせ、伝説の生き物の末裔としてこの競りに出されることになったらしい。
ようは事実確認は何ひとつしてないというのだ。
その話自体もどこまで真実か分からない。彼女自身が話せないことをいいことに情報をねつ造した可能性もありえる。まるで詐欺だ。
だけどゼストは言っていた。彼女の価値を自分で決めて提示しろと。
彼女に勝手に価値を求めたのは、あたし達なのだ。
「まぁ今回私達が彼女を手に入れたかった目的とは関係無い所での事実ですし、現実的に言えばその方が今後は楽ですが。呆れて物も言えませんでした」
だからあんな顔をしていたんだ。いつも無表情なクオンが顔に出すくらいだから、よほど思うことがあったのだろう。
なんだかクオンの人間らしい部分を垣間見れた気がして、不謹慎にも少しだけ笑ってしまった。
「……なんですか」
「ううん、なんでも。でもそれならそれで良かった。流石にあの水槽ごと持って帰るのは無理だと思ってたし、彼女自身の足で歩いてもらおう」
じろりとクオンに睨まれて、思わず口元を隠す。
クオンはまだどこか不満そうだったけれど、大人しく水槽に向かうあたしの後ろに続いた。
水槽の後ろにガラス戸があり、そこは鍵はかかっていなかった。
ずっとこちらの様子を見ていた彼女が、あたし達ふたりをどこか心配そうに見つめている。
「そういえば、名前はなんていうのかな」
「聞いておきました。本人が名乗ったそうですが、それも真実かわかりませんけれど」
まだ尚棘のある言い方に、クオンは相当疑心暗鬼になっているらしい。
クオンが仕えていたのは王城だったというから、こういった港町の治安には疎かったのかもしれない。
「名前はイリヤというそうです」
「……イリヤ」
綺麗な名前だと思った。疑う気持ちは不思議となかった。
そっと口に出して、ガラス戸を開ける。
中の海水より少し上の位置にあり、中から海水が零れることはなかった。
琥珀色の瞳が揺れている。
「……イリヤ。はじめまして、あたしはマオ。こっちはクオン。あなたはこれから、あたし達と来てもらうことになったの」
隔たれていたガラスが無くなり、すぐ傍で酸素を共有する。
イリヤは僅かに目を瞠り、それからじっとあたしの顔を見つめた。濡れた輪郭が光を帯びる。
そっと水の中の彼女の足に触れた。彼女はびくりと体を強張らせ、だけど抵抗はしなかった。
足首に繋がれていた鎖の鍵を解き、その足から鎖を取り払う。
冷たいガラスの床にゴトリと重たい音がゆっくりと鳴った。
それをじっと見つめていたイリヤの手をそっと取った。
イリヤはやはり振り解こうとはしなかった。
「あなたの力が必要なの……力を、貸してくれる?」
少しだけ間を置いて、イリヤがゆっくりと微笑んだ。
それからあたしの手を握り返し立ち上がる。
水を滴らせながら水槽から出、自分の足でゆっくりと歩き出したイリヤと共にあたし達はアクアマリー号へと戻ったのだった。