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無意識だった。
震える指先が、通話のマークをタップする。
ぶらさがっていた半透明のイルカが小さく揺れた。
『――もしもし?』
画面の表示が通話中に変わり、携帯からは七瀬の声がした。
携帯越しの振動に、体がびくりと震える。
この世界に居るはずのない、七瀬の声。
――どうして……
『もしもし? 真魚?』
もう一度呼ばれ、はっと慌てて携帯を耳にあてる。
「あ、ごめん、な、七瀬……?」
『……』
あれ、沈黙?
もしかしてこれ、あたしの錯覚?
そうか、そうだよね。だって電波が入るわけない。
ここは世界が違うのだから。
いくら心許ないからって、そんな都合の良いことあるわけ――
『……ごめん、俺、すっごくしつこかったよね、電話……』
数秒の間を置いて、再び聞こえてきた七瀬の声はどこかくぐもっていて。
その内容を理解して、あたしは慌てて首を振った。
「あ、ちがう……! あたしがわるい! ごめん、たくさん電話くれてたのに、その、出られなくて……」
『ううん、いいんだ、その……心配だったし、いろいろ……真魚、家には着いたの? ちゃんとお風呂入った? 玄関の鍵閉めた?』
電話の向こうで少し照れた様子の七瀬の顔が浮かんだ。ただでさえ今日は、心配かけてばかりだったのに。
それにそう、七瀬は。あたしのこと好きだって、言ってくれた。抱き締めてくれたひとだ。
あれから何時間も経ったわけじゃないのに、それがすごく前のことのように思えた。
なぜだか懐かしいだなんて感じて、胸が締め付けられた。
加南や早帆と放課後の教室でムダにおしゃべりしたり、三波や凪沙のいつも突発で無計画な企画に振り回されたり。
あたしはいつも適当に合わせてるだけで、楽しいフリをして取り繕っていただけで。
だけどきっとあたし以外のひと達はあの場所で、心から笑っていたはずだ。
今ならそう思える。
薄情だったのは、あたしだけだ。
「……七瀬、お母さんみたいだよ」
くすりと笑いながら、知らず零れた涙を手の甲で拭う。どうして涙が流れたのかわからない。
ううん、あたしはいつも。知らないフリ、気付かないフリをしていただけ。
本当にこういうところは、お父さんそっくりだ。
『……真魚? 泣いてるの?』
「ちがうよ、大丈夫。今日はいろいろと疲れちゃったから、もう寝るところだったんだ」
『……本当に?』
珍しく七瀬が、踏み込んでくる。
でも、そうか。今まで七瀬はわざと、距離をとってくれていたんだ。
あたしがすぐに逃げてしまうのを、知っていたから。
「大丈夫だよ、声、聞いたら……元気出た」
『……そっか。真魚がそう言うなら、わかった』
耳元の声がくすぐったかった。
単純に自分を心配して、気にかけてくれるその心が。
「電話、ありがとう。おやすみ、七瀬」
『……おやすみ、真魚。また明日ね』
また、明日。明日、会えるの?
あたし達はまた、会えるの?
でも、一度は戻れたんだ。理由は分からないけれど、戻れないことはないはず。戻りたいと、心から願う気持ちがあれば。
「また明日」
最後の語尾が震えたのは、それが叶わないからじゃない。信じる心が唇を震わせた。
通話の切れた少し熱を持った携帯を、両手で握りしめる。
帰るんだ、あたしは。だってここは、あたしの世界じゃない。
「……あの、マオ? だれか、居るんですか?」
背中からかけられた声に、はっと息を呑んで振り返る。
そこには目を丸くしたジャスパーが、木戸に手をかけてこちらを見ていた。
そうだ、こちらが。この世界が今の、現実だ。
「……あ、その、ちょっと、呪文のおさらい、的な……」
引き戻される現実に自分の設定を思い出しながら、しどろもどろと答える。
どうして携帯が通じたのかは分からない。
だけどこれ以上余計な印象を与えるべきではない。
そっと後ろ手に携帯の電源を切った。
「そうなんですか、ぼくはぜんぜん魔力を持って生まれなかったので、そういったことは分からないのですが、本当に魔導師さんなんですね」
無垢な笑顔を向けられて、僅かに胸が痛んだ。
だけど仕方ない。生きる為の嘘だ。
それからひとまずお風呂を再開する。
脱いだ制服はジャスパーが洗って塩を落としてくれるというので預ける。
携帯だけは、手元に残して。
結っていた髪を解くと、塩の粒がざらざらと手につく。
限られた湯で少しずつ洗って、顔と体はさっと洗って流した。
それから少し覚めた湯に体を沈める。
冷え切っていた体に、温度がしみわたる。手足の指先からじんわりと。
湯船の中で体を縮めて、瞼を伏せた。湯嵩が減って、届かない肩がひやりと冷えていく。
シアの手をとった。
それからこの世界に来たいと思った時、シアの元に行きたいと。シアの力に、なれたらと――
だけどやっぱり、あたしには無理だ。
そんなこと、できるわけない。
こんな、自分の身を守るだけで、精一杯なのに。
シアに抱くこの感情は、もうわかっている。
幼い自分と重なるその影。
同情だ。
それじゃひとは、救えない。
温かな水面が揺れる。
お守り……お母さんの石だけは、絶対に取り戻したい。
あたしにとっての一番はそれだ。
だってあたしには、何もできない――
ぎゅっと、掴んだ指間でお湯が撥ねる。
それがそのままゆっくりと、ふわりと浮かび上がった。
視界の端でそれを見つけた時にはもう、浮かび上がる滴の群れに囲まれていた。
「な、に……?!」
その光景に思わず身をひくも、そこは狭い木槽で。
自分の一動で作り上げる湯の滴は湯船に落ちず、重力に逆らってふわりと漂う。
微かに香る花の香りは、石鹸に練りこまれたもの。湯にも染みたそれが、充満する。
――マオ
「……! この声」
旧校舎の、プール。あたしを導いた、あたしの内から聞こえた声。
「あんた、なんなの一体……っ」
予感はしていた。予想はしていた。
だけどそれを確かめるのも認めるのも、自分で口にするのもイヤだった。確かめるのがこわかった。
――知っているはず、ボクの名
「……卑怯よそれ……!」
滴の漂う虚空を睨みつける。姿はない。見えない。だけど確かに、ここに居る。
それが分かって、受け入れてしまう自分もイヤだった。
平凡な女子高生で居たかった。あの世界にまた、帰る為に。
――王の末裔は約束を違えた
王の、末裔……一族?
シア達のことを言っているの?
――人間は思いあがりをたださない限り、加護も叡智も得られない。待っているのは亡びだ
「……間違いを、おかしたっってこと……?」
――ボクは、約束を守る為に王と契約した
「……約束……」
シアの話に、似たような言葉が出てきた気がする。
約束を、守るために――
――その約束は、マオ、君でなければ叶えられない
「そんなはずない、やめて……!」
思わず耳を塞ぐ。ムダだと分かっていても。
叫んだ声に弾かれるように、漂っていた滴が一斉に落下した。
ばしゃばしゃと勢いよく、肌と水面を激しく打つ。
――呼べば、力を貸してあげる、ただしく使う意思があるなら――
胸にじわりと破門を残しながら、その声はまたあたしの内に消えていった。