16
トリティアの突然の拒絶に息を呑む。
あたしを見下ろす、その冷たい瞳。
じゃあどうしろというのか。
もうあたしには帰る場所がないのに。ここ以外に。
『それに、ぼくは。約束を守らない人間は大嫌いだ。かつての彼女も……ぼくとの約束を破って、いってしまった。身勝手で傲慢、無力で愚か。ぼくはそんなきみたちを心底軽蔑し――』
冷たいはずのその瞳の奥。
僅かに灯る熱の色。
――遠い世界で。
あたしを呼ぶ声がした。
あたしの魂を、手繰る手が。
そしてあたしの内側で、ずっとあたしに問いかけ続けてきたのはトリティアだった。
それで、良いのかと。
ただしさは選べない。
だけど心は嘘をつけない。
ずっとその傍らに居た。
『愛しいと、思ってしまうんだ』
とん、と。
触れた手が肩を押し、ゆっくりとあたしの体はそのまま傾く。
いつの間にかトリティアの隣りにはふたつの影。
アトラスとセレスだ。
――どうして。
『さよならだ、マオ。誰も奪うことなく奪われることなく……きみはきみのただしさで、人とそしてぼくらを導いてみせた。きみの役目はこれで終わりだ』
「どういうこと……ねぇ、トリティア……!」
思わず伸ばした手が空をきる。
無数の泡粒に体が包まれていく。
トリティアはあたしの手をとろうとはしない。
ただ離れていく距離を見送るだけ。
トリティアが微かに笑って、隣りに居たアトラスとセレスに何かを命じた。
それに応えるようにあたしの身体は淡い光を放つ。
どうして――
どういうこと?
また、あたしを。
不必要だと突き放すの?
誰も求めてくれないの?
『ちがうだろう、マオ。誰でも良いのではなかったはずだ。“誰か”ではなくきみの、望む相手でなければ意味はない。そしてきみはそれを……見つけたはず。あの青の世界で』
「……トリティア……」
ぽっかりと、自分の足元から地面が消える。
落ちていく。
ゆっくりと泡に包まれながら。
『きみの言う通り、これからは新しい風が吹く。きみが与えたもの、残したものは……きっと永遠に受け継がれるだろう。この世界の、キセキとなって』
懐かしい感覚がした。
光の粒が空に溶けて、水中に居るような、すべてが呑まれるような感覚。
ああ、これは。
あたしの身体の――
『愛しているよ、ぼくらの末の妹。約束を果たして――いつかまた』
言って、最後に見せたトリティアの笑み。
それは波に呑まれるように、流されるように消えていき、あたしの体と意識をも奪う。
海の底から見上げる景色。
光はそこまで届かない。
遠く遠くに見えるだけ。
揺れる水面のその影が、海の底にも同じ影を象る。
そうか、あれが。
外の世界と繋がっているんだ。
夜の世界で唯一の、まぁるい月の降り注ぐ光。
そこから、あたしを見ていた。
あたしが生まれるその瞬間を。
見ていたのは、見守っていたのは――あなただったのね。
『きみの旅路の果てで会おう』
遠ざかるその声。
別れの哀しさと寂しさと、息苦しさに涙が浮かぶ。
トリティアはいつから、あたしを帰すつもりだったのか。
分からない、だけど。
愛していると言ってくれた。
そうして見送ってくれた。
もとの世界へ。
すべての世界にあたしを家族と呼んでくれるひとが居る。
なんて、幸せなことだろう。
それだけでもう充分だった。
苦しいと、そう感じたその瞬間。
自分が身体を取り戻していたことを認識した。
そして代わりに、あの世界で得たものを、失ったことも。
神さまの力があたしの中から、消えていく。
おそらく身体と引き替えに。
あたしはもう誰の神さまにもなれはしない。
誰を守る力も糧もない。
ただのひとりの女子高生に戻る。
自分の望んだ、世界で。
――…
はじまりも終わりも水の中。
霞む意識の向こうから、あたしを呼ぶ声が聞こえた。
「真魚」と、何度も。
頬を打つ痛みが現実を引き寄せる。
重たい瞼をなんとか持ち上げる。
瞼だけじゃなくて身体中すべてが水に濡れて重かった。
身体中が重くてだるくてどこもかしこもやたらと痛い。
痛くて痛くて、堪らない。
背中にかたいアスファルトの感触。
真夏の夜だからかほんのりと温かさを感じる。
滴る水滴があたしの頬や目元を滑った。
無意識に相手が泣いていると思った。
これは誰の、涙だろう。
ぼんやりとようやく、霞む視界に相手の顔が映る。
あたしを腕に抱いて泣くその人が。
「……なな、せ……?」
「……っ、真魚……!」
もう何度目だろう。
七瀬にこうし助けてもらうのは。
無意識に苦笑いが零れる。
そんなあたしに七瀬は怒った顔。
それでも涙は流れたまま。
ぎゅっと、あたしを抱き締める。
視界の端にはすっかり見慣れた旧校舎のプール。
あたりは暗く、だけど満月の明かりは眩しいくらいだ。
七瀬だけじゃなく、早帆や加南、未波や凪沙も居る。
どうして、みんながここに。
「なんなの、一体どういうことなの……?! なんで真魚が、プールに沈んでたの……!?」
「びっくりした、なかなか目を開けないし、息もしてなかったし……! もう、ほんとに……!!」
加南と早帆が、ぼろぼろと涙を零しながらあたしを七瀬から奪って抱き締める。
未波や凪沙も脇から必死にあたしの無事を確認して、それからちゃんと返事を返すあたしに安堵の息と腰をついた。
そうして少しずつ醒めてくる頭で状況を理解した。
あぁ、そうか。
帰ってきたのだ。
本当に。
そういえば、言ってたっけ。
夏休みの初日にプールが取り壊される前に、夜中にプールに忍び込むって。
ホントにやるんだから、しょうがないな。
だけどそのお陰であたしもきっと、救われた。
今までずっと、救われてきた。
そんな平穏な世界であたしは生まれ育って
そしてあたしはこの世界を――捨てられなかった。
みんなの泣き声で、あたしの名前を呼ぶ声で、蜩の声は聞こえない。
あんなにうるさく鳴いていたのに。
不思議と今日は静かだった。
月明かりだけがすべてをやさしく包んでいて。
プールの水音は、もう何にも返さない。
あたしの中には響かない。
15歳のあたしの、永い永い旅が終わった夜だった。