6
霧のようにエリオナスの姿が消えていき、広がる海は静寂を取り戻していた。
残されたのはあたしとリズさんのふたりだけ。
おそらく自分の意思では出られない場所に置き去りにされたのだ。
エリオナスのつくったこの閉ざされた世界では、すべてが無に等しかった。
時間も何も存在しない。
おそろしいくらいに静かで寂しい場所。
でも、そうか、だからこそ。
リズさんが消失を免れているのはその所為なのかもしれない。
真名を取り戻したいま、リズさんは僅かながらも力と記憶を取り戻したように見える。
この事態にも動じることなく、その瞳をあたしに向けた。
『……エリオナスの言うことは一理ある。アンタはどうしてそこまでして、あの世界を救いたいんだい……? アンタもおそらく身勝手に、あの国の為だけに喚ばれたんだろう?』
「……はじめは……そうかもしれない。一番さいしょは、シアの望みだった。でも、今は。もうあたしの望みでもある」
思わず膝をついた砂浜。
馴染んだ砂の感触が、懐かしくもどこか色褪せて感じる。
見た目だけはまるで同じ世界なのに、どこか違う。
ここにあるものは全部、エリオナスが作ったもの。
自分の思い出とお母さんの為だけに作った仮初の地。
――彼の心の拠り所。
彼の思いにしか開かない。
だけど、あの地は。
あの世界は――
「あの世界は……シェルスフィアは。あたし達が出会った場所だから……そしてこの先も大事な人たちが……未来を生きていく場所だから……!」
あたし達が出会った海。
すべてが始まった場所。
「守りたいの、あたしは……」
そこで生まれた名もなき感情。
知らぬふりして押し込めた言葉たち。
だけど捨て去ることなどできなかった、あたしだけの想い。
あたし達のすべてが、あの王国にはある。
あたし達のキセキを生んだ、あの海に。
「そうでしょう、リリ……!」
そう叫んで思わず。
はっと、口元を片手で覆う。
いま、何を。
自分の意思を置いて口から出た言葉は、まるで憶えのないものだった。
あれは自分の言葉ではない。
あれは、まるで――
『……そうだね、あそこは……』
あたしの言葉にリズさんは、その瞳をそっと細め。
それからまっすぐ目の前の海を見据えた。
『約束の場所だ、アタシたちの。マナを探すことばかりを考えて、永い時を待ち過ぎて……遠回りをしてしまった』
そう呟いたリズさんの、体が僅かに発光する。
空へと昇る光の泡粒。
お城の地下、リズさんの部屋で見たものと同じものだ。
何故だか懐かしくて堪らないその光。
僅かばかりのリズさんの魔力が光を放つ。
『マオ、アンタ…貴石を持っているだろう。おそらくマナがアンタに託したものだ』
「…貴石…」
言われて握りしめたままだった、自分の拳をようやく解く。
そこにはシアの短剣と、ふたつの貴石。
ひとつはお母さんから奪い、ひとつはお母さんから贈られたもの。
シアの短剣はいったん鞘におさめる。
手の平に並べたそれを見つめたリズさんは、両の瞼を押し付けるように強く瞑った。
『そこに居たのか、マナ……』
「……? どういうこと……?」
わけが分らず戸惑うあたしに、リズさんはゆっくりと瞼を持ち上げて微笑んだ。
苦笑いにも似た、その儚い笑み。
どこか泣きそうなようにも見える。
『……ひとつはマナが生み出した貴石だ。もとはひとつのものを、マナの力でみっつに分けた、約束の貴石。そしてもうひとつは……むかしアタシがマナに贈ったもの。アタシが初めて零した貴石』
僅かな大きさが違うだけで見た目はまるで同じその貴石の、どちらがそれであるかはすぐに分かった。
お母さんがずっと身に付けていたお守り。それがきっとリズさんの貴石。間違いない。
お母さんの本心は、本当の想いはあたしにはやはり分からない。
だけどいつも肌身離さず、死ぬ瞬間まで傍に置いていたもの。
本当は肉体と一緒に焼かれるはずだったのだ。あたしが勝手に奪うまでは。
身勝手に引き離したのはあたし。
そんな大事なものを、あたしは――
『そのふたつはきっと、いまここにこうして在る運命だったんだろう。マナもそれを予測していたのか……紛れもなくマナがふたつとも、アンタに託したんだ。むすめである、アンタにね』
「……でも、これは……リズさんの貴石は、本当は……っ」
『その証拠に、これから。その貴石がアンタに力を与える。アンタの望みを叶える為に』
「……え……?」
『ここから出て、あの王国に行きたいんだろう?』
「……っ、できるの……?!」
思わず勢いよく、リズさんを見上げる。
リズさんはあたしの勢いに苦笑いを漏らし、それから再び水平線に視線を向ける。
『今のあたしじゃエリオナスの作ったこの箱庭に穴を開けることすらできない。だけど、マオ。アンタの力なら――』
「……あたし……?」
『マナが持っていたいたアタシの貴石を……アタシに返しておくれ』
言われるままに、手の平の上の貴石……お母さんがずっと身に付けていたほうを、リズさんに差し出す。
これがもとはリズさんのものであるならば、あたしにはもうそれどうこうできる権利はない。
リズさんがあたしの手の平に両手をかざし、それに応えるように貴石が光った。
眩いばかりの白い光。
もう片方の手でそれを遮りながらも目の前で、リズさんの貴石が少しずつ光に溶けていくのが見えた。
リズさんの中に。還っていくのだ。零れたもの、力の欠片が。
『……おそらく、これは。マナがアンタに残していったんだよ』
「……そんな、はずは……」
『マナは貴石の扱いは心得ている。もしもこれを誰にも渡す気がなかったのなら……きっとマナは死ぬ前に自ら飲み込んでいた。それくらいならできたはずだ。だけどわざと、遺していった。マオ、残せばきっとアンタの手に渡ることをマナは知っていたのさ』
幼い頃、確かに何度もお守りの石を欲しいとねだったことはあった。
お母さんは笑って流すだけで、それが叶えられることはないと思っていた。
だからこそ。あんな幼稚な手段でしか、手に入れられなかった。
『それはきっと……いずれこうしてアタシの元へ、返す為。この瞬間の為に……マナが託したんだよ。いつかのアンタを、救う為に』
そう言ったリズさんは、一粒だけ涙を零す。
光る雫はゆっくりと、液体から結晶へとカタチを変える。
――貴石、だ。
さっきのリズさんのものとは違う。
それはこの手の中に残ったもうひとつと同じかたち、同じ色の貴石――
『アタシの分の、約束の貴石だ。消えかけたアタシと同化して、取り出す魔力も残っていなかった。あのままではアタシと共に滅びる運命だった。アンタが、くるまでは』
最後の奇跡を差し出すのと同時に、リズさんから光が失われていく。
状況が上手く呑み込めないながらも震える手でそれを受け取って、手のひらに並べた。
かつてお母さんがみっつに分けた、約束の貴石。
お母さんの分と、リズさんの分。
残るは、ひとつだけ。
「……これが……どう、関係して……」
『もうひとつは、ベリルが持っていた。シェルスフィア最初の王で、アタシの夫だった男。アタシ達三人はあの頃……戦友だった』
シェルスフィアの最初の王様。
つまりはシアの、遠い祖先だ。
シェルスフィアの建国は900年も前。
その貴石は、おそらくはもう――
『分かたれたみっつの貴石。アンタならひとつに戻すことができる。……そうだろう……?』
貴石を、ひとつに……?
ふと、アクアマリー号の船員たちへの、お守りとして作った貴石のブレスレットが頭に浮かんだ。
液体を結晶化し、繋げたもの。
加護を施したお守りだ。
あの作業のおかげでか、結晶化の作業は大分慣れたものとなった。
そして、イリヤの首飾り。
イリヤが言ったのだ。
“逆もできるか”と。
そうして解いたイリヤの呪い。
結晶が、液体になり――
そして液体はまた、結晶になる。
『遥かな時と世界を越えて……アタシ達の約束を繋げておくれ、マオ。そうすればアンタの望む力になる。道が拓く。それはきっと、アンタにしかできない』