17:元推しは、自分の部屋を持つ
新居は、以前よりも郊外寄りの場所だった。
駅周辺の商店街は活気があり、広い敷地を持つ公園もあって、都会の便利さと自然の余白がほどよく共存している街だった。会社までの距離は伸びたが、ほぼリモートワークの柚希にとっては、大した問題ではない。
物件は2LDK、オートロック付きで、ファミリー層も多く住むマンションだった。リフォーム済みの内装は、これまで住んでいた部屋よりも明らかに水準が高い。その分、家賃は当初の予算を二万円ほど超えていたが、柚希は「まあ、いいか」と自分を納得させた。
人間の予算感覚は、快適さの前ではあっさり緩むらしい。
2LDKのうち、一部屋は迷わずルカの部屋にすることにした。
「物置か」
初めて与えられた自分だけの部屋を前に、ルカはそう呟いた。
声のトーンはいつもより幾分か軽い。相変わらず表情筋の動きは最小限だったが、柚希にはそれが、隠しきれない喜びの変形なのだと分かった。何百時間もこの男の顔を画面越しに眺め、観察し続けてきた蓄積は、こういう瞬間にだけ役に立つ。
「物置じゃなくて、あなたの部屋。今日からはここがルカのスペースだから」
「……狭いな」
「贅沢言わないの」
悪態をつきながらも、ルカは部屋の真ん中まで足を踏み入れ、手持ち無沙汰そうにフローリングを踏みしめた。
「荷物、それだけしかないの?」
段ボール一箱にも満たないルカの私物を見て、柚希は思わず聞いた。
「俺の所有物など、向こうにいた時から、ほとんどなかった」
その一言は、思いのほか重かった。
あの黒い騎士服と、いくつかの日用品。それが、「王冠のレガリア」を背負わされた男の全財産だなんて、釣り合わない。
「じゃあ、引っ越し祝いに、ルカのベッド買おうか」
軽い調子で滑らせた言葉に、ルカの視線がかすかに揺れた。底の読めない瞳の奥に、薄い膜のような戸惑いが広がっているように見える。
「……いつか使わなくなるのに、いいのか?」
ぼそりと呟かれた問いに、柚希ははっと息を呑む。
そうだ。ルカには帰るべき場所があり、果たすべき使命がある。それなのに、ベッドという、明らかに「ここに長く留まること」を前提とした家具を買う行為は、彼の生活の重心が少しずつこの世界へ移り始めている現実を突きつけることでもある。
そう思う一方で、がらんとした部屋にぽつんと置かれた一箱の荷物は、一人の人間が生きる光景としてはあまりに寂しすぎた。いつか消える存在だからといって、いま目の前にいる肉体を冷たい床の上に転がしておいていい理由は、どこにもない。
「ルカが向こうに帰る方法を見つけたら、ベッドだけ残して帰っていいよ。要らなくなったらリサイクルショップにでも売ればいいんだし……それに、固い床で寝るより、ちゃんとベッドで寝たいでしょ?」
あえて彼の抱える暗い迷いに気づかないふりをして、柚希は笑ってみせた。
ルカはしばらく無言で柚希の顔を見つめていたが、やがて諦めたように小さく吐息をこぼした。
「……そうしてもらえると、助かる」
観念したように、ルカはもう一度小さく息を吐いた。その顔には、自分を繋ぎ止めるこの世界の利便性に対する、諦めのような色が混ざっているように見えた。
「よし、じゃあ決まり。ネットでいい感じのやつ、今度一緒に探そう」
「ああ」
ルカは床に置かれた段ボールの前に腰を下ろし、慣れた手つきで荷解きを始めた。
自分のテリトリーとして割り当てられた空間を、彼は彼なりの方法で咀嚼しようとしているようだった。その背中はどこか小さく、そしてこの規格化された現代日本のマンションという空間の中で、浮いて見えた。
柚希は彼の不可侵領域をこれ以上侵さぬよう、気配を殺してそっとドアを引いた。
カチリ、と軽快なラッチ音が鳴り、二人を隔てる一枚の板が閉じる。
自分の部屋へ戻った柚希は、積み上げられた段ボールの山を前に腰を下ろした。テープを剥がし、中に詰まった、これまでの生活を一つずつ引き出していく。衣類、文房具、読みかけの小説、生活の雑多な塵芥。
ルカの段ボールが一箱にも満たなかったのに対し、自分の所有物のなんと無駄で、なんと肥大化していることだろう。人間ひとりが息をして生きていくために、これほどまでの物や記号を集積させなければならない現実が、急にひどく歪なものに思えてくる。
段ボールの底から出てきたのは、かつて買い集めた「レガリア」のアクリルスタンドや缶バッジだった。燃えるゴミとして出せなかった、かつての愛の残骸。透明な樹脂の中に閉じ込められたルカは、いつだって完成された記号として微笑んでいる。
けれど今、壁一枚を隔てた隣の部屋には、段ボール一箱の私物しか持たない、生々しい体温を持った彼が存在している。
虚構の彼を買い集めていたかつての自分と、両親の遺産を使って生身の彼にベッドを買おうとしている今の自分。どちらがより狂っていて、どちらがより健全なのか、その境界線は柚希にはもう判別がつかなかった。
段ボールの底から、かつて鍋で煮溶かそうとしたアクリルスタンドを発掘する。熱でいびつに変形したルカのプラスチック片。その滑らかな曲面をそっと指先で撫で、棚の奥の死角へと静かに匿う。箱の底に沈む残りの残骸には蓋をして、柚希は淡々と荷解きの作業へと戻った。
*
その日の夜、ルカは唐突に豚の貯金箱を柚希へ差し出してきた。
「引っ越し代だ」
その豚の貯金箱は以前、家事を手伝う報酬として柚希が彼に渡したものだった。中に溜まっているのは、彼がこの世界でコツコツと稼いできた僅かな小銭だ。
指先から伝わる重みで分かる。中身をすべて合わせたところで、一万円にも満たないはずだった。
「ありがとう」
柚希は、その軽すぎる重みを両手で受け取った。
「貯金しとく」
「気に食わんな」
ルカは不機嫌そうに眉をひそめ、そっぽを向いた。
「お前が好きに消費しろ。そんな風にありがたがられる筋合いはない」
「でも、これはルカが頑張って貯めたお金でしょ? 何か欲しいものでも買えばいいのに」
「必要ない」
吐き捨てるような声だった。
けれど、その頑なな態度を見ていると、この世界で「一方的に与えられる存在」であり続けることへの、彼なりの矜持があるように思えた。
どんなに惨めな金額であろうと、対価を支払うことで、彼は柚希との間に「対等な取引」という線を引こうとしている。
冷たいシステムと利害関係でしか成り立たない現実に、ルカはあまりにも不器用なやり方で適応しようとしていた。
「……じゃあ、分かった」
柚希は貯金箱を胸の前で抱え直し、真面目な顔で頷いてみせた。
「このお金は、次に二人で美味しいものを食べる時の食費として使わせてもらうね。それなら文句ないでしょ?」
ルカは一度だけ柚希を睨みつけるような視線を向けたが、やがて諦めたように短く鼻を鳴らした。
「……勝手にしろ」
無機質な部屋に落ちる、歪で、けれど確かに二人だけの小さなルール。
両親の遺産と引き換えに手に入れたこの新居で、一万円にも満たない豚の貯金箱が、何よりも重く、生々しい存在感を放っていた。




