01:元推しは、不燃ごみ
どんな選択肢を選んでも彼が死に瀕するバッドエンドの渦中、血の滲む唇で「お前の選んだ道なら構わない」と諦めたように微笑まれた瞬間、柚希はルカ・ブライトという不可解なプログラムに人生を綺麗に奪われた。
親友の陽菜に、乙女ゲーム『背徳のトガに咲くレガリア』を勧めたのは、柚希だった。布教、というよりは共犯者を作る行為に近かったと思う。一人で好きになるには、あの推しは重すぎた。二人でハマれば、狂気も半分こになる。そういう打算があったのかもしれない。
案の定、陽菜はまんまと堕ちた。二人で貢いだ。アニメ化するほどの規模ではなかったけれど、一部の熱心なマニアのおかげでグッズは定期的に供給され、コラボカフェも開催された。
世界を救うような大ヒットではないけれど、自分たちの小さな宇宙の中で、彼は確かに神だった。
周年記念、追加コンテンツ、その度に発売される推しグッズを、柚希は律儀に三個ずつ買い揃えた。
観賞用。保管用。そして、予備。
予備、という言葉の意味を、柚希は今もうまく説明できない。壊れたときのため、と当時は思っていた気がする。だが、プラスチックでできたアクリルスタンドが、いったいどう壊れるというのだろう。落として割れることはあっても、柚希にとってそれは、「壊れる」というより「死ぬ」に近い出来事のはずだった。
だから予備とは、保険というより、呪いに近いものだったのかもしれない。三つあれば、一つくらい永遠になる、というような。
その呪いが解けたのは、二十三歳の春だった。
柚希の部屋で宅飲みをしていた時、陽菜は「彼氏ができた」と明かしてくれた。出会いはマッチングアプリらしい。
「十歳年上の、銀行員なんだ」
そう口にした瞬間、陽菜の唇の端がほんの少しだけ吊り上がったのを柚希は見逃さなかった。まるで「銀行員」というたった三文字の記号が、そのまま彼女自身の価値を底上げしたかのように、語尾は誇らしげに上擦っていた。
陽菜はグラスを片手に、いつになく真剣な顔で言った。
「ユズ、私たち二十四になるんだよ? そろそろ二次元に貢いでないで、現実見たほうがいいって」
一緒にリアル充実させようよ、と彼女は続けた。あたしはあんたが心配と言って、グラスに注いだ強くてコスパが良いストロング系のチューハイを喉を鳴らして飲んでいた。
その言葉は、たぶん善意で出来ていた。少なくとも陽菜の中では、それは裏切りではなく救済のつもりだったのだろう。
だから柚希は、怒りを覚えるべきだった。「私の人生じゃん、関係ないでしょ」と啖呵を切って、そのまま絶交してもよかった。物語としては、その方がずっと健全だ。
けれど実際に柚希の口から出たのは、「そうだよね」という、拍子抜けするほど素直な相槌だった。
なぜそんな言葉が出たのか、柚希にも分からない。彼氏が欲しかったわけではない。推し活に疲れていたわけでもない。ただ、沸騰し続けていた鍋の火を、誰かが黙って消したような感覚があった。あれほど滾っていたはずのものが、一晩で常温に戻っている。
裏切られたのは陽菜にではなく、自分の熱量に対してだった。
その日を境に、柚希は推しを推すのをやめた。
グッズを売るのは面倒だった。そもそもそこまで大きな界隈ではない。転売したところで、雀の涙ほどの価格にしかならないことは分かりきっていた。それに、状態のいいものを求めるファンから保存状態のクレームをもらうことを想像すると、オークションアプリを開く気すら起きなかった。
だから柚希は、飾ったままにしておくことを選んだ。放棄というより、先延ばしだった。
埃は、律儀に積もった。
ぬいぐるみの繊維の隙間に、アクリルスタンドの縁に、色紙を覆う透明なケースの表面に。それはまるで、時間そのものが可視化されているようだった。そしてある朝、目が覚めるとくしゃみが止まらなくなっていた。アレルギーだった。
推し活をやめて、二ヶ月。見て見ぬふりをしてきた体が、ようやく声を上げたのだ。
その日、鬼のように課金してきたアクスタやミニ色紙のコレクションが、初めてただの物質として柚希の目に映った。紙とプラスチック。それ以上でも、以下でもない。
「こんなの、環境汚染の塊じゃん」
声に出した瞬間、何かが完全に終わった気がした。恋が冷めたのではない。恋という現象そのものが、資源ゴミの分別リストの中に回収されていく感覚だった。
その日のうちに、柚希はすべてを処分することに決めた。
だが世界は、愛を捨てることすら簡単には許してくれなかった。
ゴミ袋を広げ、まずは紙類――コラボカフェのコースターや購入特典のブロマイドを容赦なく放り込んでいく。かつては指紋すらつけないようピンセットで扱っていた紙片が、今はただの古紙としてカサカサと虚しい音を立てた。
ここまではいい。可燃ゴミだ。燃えて灰になれば、この世から影も形も消えてなくなる。
問題は、棚の最奥に鎮座するアクリルスタンドたちだった。
自治体から配られた『家庭ごみの正しい分け方・出し方』の冊子をめくる。そこには冷淡な明朝体で、アクリル製品は「プラスチック資源」または「不燃ゴミ」と記されていた。指定のゴミ袋は透明で、中身が外から丸見えになる仕様だ。
つまり、柚希は彼を、あの完璧な造形をした神様を、透明な袋に詰め込んで集積所に晒さなければならない。
雨に打たれ、カラスに突かれ、あるいは近所の住民に「また若い子がオタクグッズを捨てている」と冷ややかな視線を送られながら、収集車の回転板に巻き込まれて、バキバキと音を立てて砕かれていく。
「そんなの、あまりにもグロテスクすぎる」
死ぬどころの話ではない。それは公開処刑であり、柚希が捧げてきた狂気に対する、最も悪質な侮辱だった。
可燃ゴミとして燃やしてしまえれば、どんなに楽だったろう。炎の中で溶けて、煙になって、神様は正しく昇天できたはずなのだ。けれど現実のプラスチックは燃えない。燃やすことすら拒絶して、歪な物質としてこの世界に留まり続ける。
手元に残された、三個のアクリルスタンド。
観賞用。保管用。そして、予備。
ふと、恐ろしい思いつきが脳裏をよぎった。
もしも、このプラスチックを小さく砕き、熱を加え、自分の手で完全に原型を留めないナニカに変えてしまったなら。それはゴミではなくなり、分別ルールという現実の暴力から逃れられるのではないか。
柚希はキッチンの引き出しを開け、小さめの鍋を取り出した。
コンロに火をつけると、青い炎が静かに揺れる。
「大丈夫」
誰ともなく呟いた声は、湯気の中に吸い込まれて消えた。
愛を失ったあとに残るのは、いつだってタチの悪い後処理だけだ。
ピンポン、と無機質な電子音が狭いワンルームに響いた。その音は、冷たい毒を落とすように、静寂を微かに揺らした。
「……誰よ」
思わず口から漏れた声は、酷く掠れていた。こんな梅雨の夜更けに、訪ねてくる人に心当たりはない。だから無視する。
柚希は鍋の柄を握り直した。青い炎が、コンロの上で舌を巻いている。プラスチックを溶かすための湯は、もう十分に熱を得ていた。
早く終わらせなければならない。この部屋から彼を、あの愛の抜け殻を消し去って、綺麗な自分に戻らなければ。
けれど、音は再び鳴った。
一度目よりも短く、どこか焦燥感を孕んだ不吉な楔のような音。金属のボタンが押し込まれるたび、部屋の気圧が狂っていくような錯覚に襲われる。
「……もう」
舌打ちを一つ。
コンロの火を弱めもせず、柚希は重い足をドアへと向けた。
チェーンはかかったままだ。ドアスコープに目を近づける。だが、覗き穴の向こうはただ真っ暗で、まるで世界そのものが塗り潰されているかのようだった。
「なんで」
壊れているのだろうか。埃アレルギーだけでなく、この部屋のすべてが、自分を拒絶し始めているのかもしれない。
心臓が、不穏な警鐘を鳴らすように脈打つ。
チェーンを外した。金属が擦れ合うカチリという音が、不吉な引き金のように部屋に響く。ドアノブに手をかける。冷たい金属の感触が、てのひらの汗を吸い上げていく。
ゆっくりと、押し開ける。
立て付けの悪いドアが、軋んだ悲鳴を上げた。外から吹き込んできたのは、梅雨独特の湿り気を帯びた夜の空気と、雨上がりのアスファルトの匂い。
そして、そこに。
扉の隙間から溢れ出した闇の中に、その「質量」は立っていた。




