稲の絆
第一部 一粒の重み
第一章 夏の雨の匂い
じりじりと肌を焼くような丹後の夏の午後だった。湿度を飽和させた空気が重く垂れこめ、遠くの山々の稜線が陽炎のように揺らいでいる。もうじき、夕立が来るだろう。
「申し訳ありません。うちの米はもう、行き先が決まっておりまして」
受話器を耳に押し当てながら、花は何度繰り返したかわからない言葉を口にした。二十六歳。焼けた肌に、農作業で鍛えられたしなやかな筋肉が浮いている。古びた農家の事務所には、土の匂いと古い木の匂いが混じり合っていた。窓の外では蝉が最後の力を振り絞るように鳴き、遠雷が低く唸っている。
ここ数週間、こんな電話が鳴りやまない。テレビや新聞が「記録的猛暑による米不足」を連日報じてからだ 。猛暑で米粒が白く濁る「白未熟粒」が増え、出荷できる米が減ったのだという 。都会のスーパーの棚から米が消え、人々は藁にもすがる思いで生産者に直接電話をかけてくる。今日だけで、五本目だった。
花は苛立っていた。電話の相手にではない。何もできない自分と、このどうしようもない状況に対してだ。視線を上げると、父が黙々と農具の手入れをしていた。土の色が染みついた、節くれだった指。その背中には、何世代にもわたってこの土地を守ってきた農家の重みが刻まれている。
この京丹後という土地は、不思議な場所だ。市域の四割を占める山地には北近畿最大級のブナ林が広がり、そこから流れ出す清らかな水が田畑を潤す 。山を抜ければ、竹野川の流域に盆地がひらけ、その先には、きらめく日本海が横たわる 。山と川と海が、手の届く範囲に凝縮されているのだ 。この豊かな自然と、夏は猛暑、冬は豪雪という厳しい気候が、米に独特の甘みと粘りを与える 。うちのコシヒカリが、米の食味ランキングで最高の「特A」を何度も獲得してきたのは、この土地のおかげだった 。
しかし、その気候が牙を剥き始めている。近年、夏の暑さは異常で、天気予報はまるで役に立たない。「弁当忘れても傘忘れるな」と言われる丹後特有の「うらにし」のように、天候は気まぐれで暴力的になった 。気候変動という、抗いようのない大きな力が、父が長年かけて築き上げてきたものを根こそぎ奪い去ろうとしている 。
電話の向こうで、落胆したようなため息が聞こえた。花は丁重に詫びて電話を切る。受話器を置く音だけが、やけに大きく響いた。父も母も高齢になり、後継ぎであるはずの自分は、この状況を前に立ち尽くすばかりだ 。米を求める声に応えられない無力感。それは、生産者としての存在意義を揺るがす、重苦しい感覚だった。米不足は単なる供給の問題ではなく、作り手である私たちの心を蝕む、静かな危機なのだ。
第二章 違う種類の飢え
夕立がすべてを洗い流した後だった。濡れた土と草の匂いが立ち上る中、農家の細い道には不釣り合いな、都会的なデザインの乗用車が静かに停まった。運転席から降りてきたのは、四十代後半と思しき男性だった。こざっぱりとした服装で、落ち着いた物腰をしている。
「突然すみません。鈴木と申します」
また米を求める人だろうか。花は警戒しながらも、玄関先に出た。しかし、男の口から出たのは意外な言葉だった。
「こちらの『丹後こしひかり』について、少しお話を伺えませんか」
鈴木と名乗るその男は、パニックに陥った買い手ではなかった。彼は、丹後米が「特A」評価を受けていることや、この土地の水が米作りにいかに重要かということを、すでに知っていた 。彼はただ米が欲しいのではなく、ここの米が欲しいのだと、その眼が語っていた。
「冷めても美味しいと聞きました。おにぎりにしても、一粒一粒の味がしっかりしている、と」
花の警戒心は、少しずつ解けていった。鈴木は、自分自身のためだけではなく、友人やその家族たちと、本当に安心で美味しいお米を分け合いたいのだと語った。都会での生活は便利だが、食べ物の「物語」が失われている、と。誰が、どこで、どんな思いで作っているのかが見えない。その断絶が、漠然とした不安を生んでいるのだ、と。
彼の言葉は、花の心の奥にしまい込んでいた何かを揺り動かした。私たちは、ただ米という「物」を作っているのではない。この土地の歴史や、家族の想い、自然との対話、そのすべてを米粒に込めている。鈴木が感じているのは、カロリーに対する飢えではなく、その物語やつながりに対する「飢え」なのかもしれない。
花は鈴木を、雨上がりの田んぼの畦道へと案内した。 「ここの水は、向こうの山にあるブナの森から来てるんです。森が蓄えた養分が、川を通って田んぼに流れ込んで、米の味を深くしてくれる」
鈴木は、感心したように頷きながら、静かになった田んぼを見渡した。彼の真摯な眼差しは、花に忘れかけていた誇りを思い出させてくれた。これまでの一方的な電話のやり取りは、農家が抱える問題を浮き彫りにするだけだった。しかし、鈴木との対話は、そこに新たな可能性が眠っていることを示唆していた。彼の求めるものは、単なる商品取引ではない。それは、作り手との関係そのものを求める、新しい消費の形だった。
第三章 新しい季節の種
その夜の食卓には、炊き立
ての新米が湯気を立てていた。艶やかで、一粒一粒がくっきりと立っている。おかずは、庭で採れた野菜の煮物と、近くの港で揚がった魚の塩焼き。質素だが、完璧な食卓だった。夜のしじまに、田んぼから聞こえる蛙の合唱が響いている 。
花は、昼間の出来事を両親に話した。鈴木の提案を、単なる個人への販売ではなく、新しい取り組みのきっかけにできないだろうか、と。
「直接販売なんて、手間がかかるだけだ」
父は、いつものように懐疑的だった。JA(農協)に出荷するのが、一番確実で安全な道だと信じている。請求書の作成、発送の手配、もしクレームが来たらどうする。個人でやるには、あまりにも煩雑でリスクが大きすぎる 。
父の言うことは正しかった。しかし、その「安全な道」が、今、揺らいでいるのではないか。
「お父さん、今のやり方がずっと続くと思う?」花は静かに、だが強い意志を込めて言った。「国は米が余ってるからって減反政策を進めておきながら、いざ天候不順で不作になったら米不足だって大騒ぎだ 。市場価格が上がっても、それが全部私たちの利益になるわけじゃない 。私たちはずっと、大きな仕組みに振り回されてるだけじゃないの」
それは、世代間の静かな衝突だった。父にとってのリスクとは、目の前の具体的な手間や金銭的な損失だ。しかし、花が感じているリスクは、もっと大きく、根源的なものだった。気候変動、国の政策の矛盾、後継者不足。このまま何もしなければ、農家という生き方そのものが立ち行かなくなるという、存在をかけたリスクだ 。
「私は、ただお米を売りたいんじゃない。私たちがどんな思いで米を作っているか、この土地の素晴らしさを、直接伝えたい。SNSを使って、農業の本当の姿を発信したいって、ずっと思ってた」
花にとって、鈴木の提案は、リスクを増やすものではなく、むしろリスクを管理するための新しい戦略だった。市場や政策という不安定なものから自分たちの暮らしを守るために、顔の見える小さなコミュニティを作る。それは、受け身でリスクを受け入れるのではなく、能動的に未来を築いていくための、ささやかな、しかし確かな一歩に思えた。
食卓に沈黙が落ちる。蛙の声だけが、新しい季節の訪れを告げるように、高らかに鳴り響いていた。
第二部 デジタルの田を耕す
第四章 約束の設計図
一週間後、花は鈴木とビデオ通話で向き合っていた。画面に映る、彼女の背後の古びた農家の事務所と、鈴木の背景にある都会のミニマルな部屋が、鮮やかな対照をなしていた。しかし、二人の間には、場所の隔たりを感じさせない熱気があった。
「もしも」の話は、「どうやって」という具体的な計画へと姿を変えていった。彼らが目指すのは、「CSA(Community Supported Agriculture/地域支援型農業)」という形だった 。消費者が年会費という形で農家の生産を前もって支え、収穫物を分かち合う。それは単なる売買ではなく、運命共同体としての約束だ。
彼らは、一年を一つのサイクルとする「米シェア」会員制度を考案した。春の田植え、夏の草取りと農園見学、そして秋の稲刈り。会員は、米を手に入れるだけでなく、その生産過程に参加する権利を得る 。
最大の難関は、価格設定だった。JAの買い取り価格に慣れている花は、高い値段をつけることに強い抵抗を感じた。しかし、鈴木は消費者側の視点から、その価値を説いた。
「花さん、僕たちが買うのはお米だけじゃない。安心と、物語と、あなたたちとの繋がりです。その体験には、価格以上の価値がある」
二人は、農業体験イベントの参加費や、直販サイトの手数料などを参考に、会員が納得でき、かつ農家としても持続可能な価格を慎重に探っていった 。
プロジェクトの名前は「棚田テラス」に決まった。京丹後の美しい棚田の風景と、人々が集う開かれた場所というイメージを重ね合わせた名前だ。
花は、話し合いながらノートに計画を書き留めていった。そのページは、彼女たちの希望の設計図だった。
はなちゃんのノート
プロジェクト名: 棚田テラス・コミュニティ
会員制度: 年間会員(1年サイクル)
年会費: ¥XX,XXX
会員特典:
収穫後、京丹後産特Aこしひかり 30kg を保証
会員限定の農作業イベントに招待(全3回)
春:みんなで田植え体験
夏:草取りと農園バーベキュー
秋:稲刈りと収穫祭
農園の様子を伝える月刊ニュースレター
農家との直接コミュニケーション窓口
ノートに描かれた稲穂のイラストが、まるで風にそよいでいるように見えた。これは、ただのビジネスプランではない。土地と、人と、未来との、新しい約束の形だった。
第五章 はじめての投稿
その夜、花は一人、自室でノートパソコンを開いていた。部屋の明かりは消え、画面の光だけが彼女の真剣な横顔を青白く照らし出している。外では、虫の音が絶え間なく続いていた。
インスタグラムのアカウントを作る。それは、デジタルの世界に、自分たちの畑を耕すような行為だった。ユーザーネームを考え、プロフィール写真を設定する。何気ない作業の一つ一つに、心臓が小さく脈打った。
最初の投稿に、どの写真を選ぶか。長い時間をかけて、三枚を選んだ。朝靄の中に朝日が昇る棚田の幻想的な風景。土を握りしめる、父のごつごつした手。そして、食卓の上で完璧な輝きを放つ、一膳の白米。
最も時間をかけたのは、キャプションの文章だった。書いては消し、消しては書き直す。正直でありたい。でも、感傷的になりすぎてはいけない。自分たちの物語を、誠実に伝えたい。
彼女は綴った。何代にもわたってこの土地で米作りを続けてきたこと。特A評価を受ける米への誇り。しかし、気候変動や後継者不足という、今直面している不安。そして、「棚田テラス」という新しい挑戦に込めた希望。それは、消費者に媚びるのではなく、仲間を募るための、心のこもった手紙だった 。
書き終えた文章を、何度も読み返す。これで、本当に伝わるだろうか。不安が胸をよぎる。しかし、もう後戻りはできない。
花は、深く息を吸った。震える指先が、「シェアする」のボタンの上で一瞬ためらい、そして、静かにクリックされた。
その瞬間、デジタルの広大な荒野に、小さな種が蒔かれた。物理的な畑を耕すのとは違う、新しい種類の労働。それは、自らの物語と、家族の暮らしと、未来への希望を、不特定多数の評価に晒すという、心をすり減らすような行為だった。しかし、新しいビジョンを実現するためには、避けては通れない道だった。種が芽吹くかどうかは、まだ誰にもわからない。ただ、夜の静寂の中、彼女は祈るような気持ちで、画面の向こう側からの小さな反応を待っていた。
第三部 はじめての集い
第六章 街からの声
稲刈りが終わり、黄金色の絨毯のようだった田んぼが、静かな眠りについた秋の週末。鈴木が、インスタグラムの投稿を見て連絡をくれたという五人の仲間を連れて、農家を訪れた。小さな子供を連れた若い夫婦、地元のレストランで働くシェフ、そして穏やかな雰囲気の老夫婦。都会から来た彼らは、少し緊張した面持ちで、しかし好奇心に満ちた目で周りを見渡していた。
「棚田テラス」プロジェクトの、記念すべき第一回の説明会だった。花は、緊張で強張る心と体を叱咤し、彼らを案内して回った。米が貯蔵されている薄暗い蔵、古びた精米機、そして、来年の春に彼らと共に苗を植えることになる、がらんとした田んぼ。
ツアーの中心は、会話だった。訪問者たちの質問は、彼らが都会で抱える食への不安や希望を映し出していた。
「農薬は、どうしてるんですか?子供に食べさせるものなので…」 「ここのお水は、本当にきれいなんですか?」
シェフは、専門的な視点から米のデンプン質や炊き上がりの質感について尋ねた 。若い母親は、自分の子供に、食べ物がどこから来るのかを知ってほしいのだと、切実な声で語った。それは、生産者と消費者の間に横たわる深い溝を、言葉で埋めていくような時間だった 。
花は、一つ一つの質問に、自分の言葉で丁寧に答えた。それは、農家としての新しい役割への挑戦でもあった。自分はもはや単なる生産者ではない。この土地の案内人であり、食の教育者であり、そしてコミュニティの主催者なのだ。
説明会の締めくくりに、花は土間の大きな羽釜で、収穫したばかりの新米を炊いた。蓋を開けた瞬間に立ち上る、甘く芳しい湯気。しゃもじで混ぜると、艶やかな米粒が輝きを放つ。
茶碗によそわれたほかほかご飯を一口食べた瞬間、訪問者たちの顔が、驚きと喜びに輝いた。どんな言葉よりも雄弁に、この米の価値を物語る瞬間だった。この土地の空気も、水も、太陽も、そして作り手の想いも、すべてがこの一膳の飯の中に凝縮されている。農園そのものが、最高のプレゼンテーションの場となっていた。
第七章 土地との契約
日が傾き、渓谷が茜色に染まる頃、訪問者たちは帰る支度を始めていた。そして、一人、また一人と、花が用意した簡素な申込用紙に名前を書き込んでいった。来年の春から、「棚田テラス」の仲間になるという意思表示だった。固い契約書の取り交わしではない。それは、春の田植えで再会することを約束する、笑顔と信頼の交換だった。
全員が帰った後、花は父と二人、静かになった田んぼの縁に立っていた。父は何も言わず、花の肩にそっと手を置いた。その無言の仕草が、何よりもの承認の証だった。「俺のやり方が、間違っていなかったのかもしれないな」。そんな声が聞こえた気がした。
花は、がらんとした、眠りについた田んぼを見渡した。数ヶ月前まで、この風景は未来への不安そのものだった。しかし今は、違う。この土地には、新しい仲間との約束が宿っている。
彼女はもう、苦闘する農家を継ぐだけの娘ではない。土地との契約で結ばれた、小さな、しかし確かなコミュニティの創設者なのだ。
気候変動、脆いサプライチェーン、人々の孤立。世界はあまりに大きく、複雑な問題に満ちている。一つの農家ができることなど、たかが知れている。しかし、このCSAというモデルは、足元から信頼に基づいたネットワークを再構築し、予測不能な時代を生き抜くための、しなやかで強靭な社会の苗床になるのかもしれない。
空には一番星が瞬き始めていた。来年の春、この静かな田んぼは、街から来た人々の笑い声で満たされるだろう。花は、その光景を思い浮かべ、深い希望と目的意識に満たされながら、冷たくなってきた秋の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。新しいサイクルが、今、始まろうとしていた。
第四部 共に育てる一年
第八章 春の泥の感触
雪解け水が川の音を力強くし、山々の木々が一斉に芽吹く五月。約束の季節がやってきた。「棚田テラス」の最初のイベント、田植えの日だ。鈴木をはじめとする会員たちが、家族連れで続々と集まってくる。汚れてもいい服に長靴という出で立ちの大人たちと、水着姿にはしゃぐ子供たち 。その賑やかな声が、静かだった谷あいに響き渡った。
「うわっ、何これ!」「気持ち悪いー!」
水を張った田んぼに足を踏み入れた瞬間、子供たちから歓声とも悲鳴ともつかない声が上がる 。ぬるりと足に絡みつく泥の感触に、最初は戸惑っていた彼らも、すぐに慣れておそるおそる歩き始めた 。
花の父が、少し照れくさそうに、しかし長年の経験に裏打ちされた確かな手つきで苗の植え方を教える。数本の苗を取り、指で泥の中にそっと押し込む。単純な作業に見えて、まっすぐ等間隔に植えるのは思いのほか難しい 。大人たちは腰をかがめ、真剣な表情で泥と格闘していた。
「見て!オタマジャクシ!」
一人の子供が叫ぶと、田植えはいつの間にか生き物探し大会に変わっていた 。アメンボ、小さなカエル、タニシ。都会では見ることのない小さな命の数々に、子供たちの目は輝いていた 。泥だらけになるのもお構いなしで、田んぼの中を駆け回る 。その姿を見て、大人たちの顔にも自然と笑みがこぼれた。
花は、その光景を眩しい思いで見つめていた。これは、ただの農作業ではない。土に触れ、生き物に触れ、人々が笑い合う、かけがえのない時間だ。普段食べているお米が、こんなにも大変な作業を経て作られていることを、彼らは体で感じてくれている 。それこそが、花が伝えたかったことだった。
第九章 夏の緑と生命のざわめき
太陽が容赦なく照りつける八月。春に植えられたか細い苗は、力強い緑の葉を風にそよがせるまでに成長していた。夏のイベントは、田んぼの草取りと、その後のバーベキューだ。
炎天下での草取りは、想像以上に過酷な作業だった。会員たちは汗だくになりながら、稲の間に生える雑草を黙々と抜いていく。「農家の方々の大変さが分かりました」と、鈴木が額の汗を拭いながら言った 。その言葉に、花の父は少し嬉しそうに頷いた。
作業の後、木陰で始まったバーベキューは格別だった。採れたての夏野菜と、地元の肉。煙の匂いと、人々の笑い声が青空に溶けていく。子供たちは、近くの小川で水遊びに夢中だ。
花は、この日の様子を写真に撮り、インスタグラムに投稿した。「#棚田テラス」「#農業体験」「#京丹後」。ハッシュタグを付けて投稿すると、すぐに「いいね!」が付き、コメントが寄せられた。「楽しそう!」「来年は参加したいです」。デジタルの世界で、コミュニティの輪が少しずつ広がっていくのを、花は実感していた。これはもはや、花と鈴木だけのプロジェクトではない。参加者一人ひとりが、この田んぼの物語を紡ぐ、大切な仲間になっていた。
第十章 黄金色の約束
秋風が吹き始め、空が高くなった十月。田んぼは、見渡す限りの黄金色に染まっていた。たわわに実った稲穂が、重そうに頭を垂れている。収穫の時だ。
「稲刈り」イベントには、春や夏よりも多くの人々が集まった。再び集った仲間たちの顔には、自分たちが植えた苗の成長を見届けた喜びと期待が浮かんでいる。
鎌を手に、一列に並んで稲を刈り進んでいく 。ザクッ、ザクッという小気味よい音が、秋晴れの空に響く。慣れない手つきで、しかし一株一株、慈しむように刈り取っていく 。腰をかがめての作業は体にこたえるが、その表情は誰しも充実感に満ちていた 。
刈り取った稲は、数株ずつ束ねて藁で結ぶ。これもまた、熟練の技が必要な作業だ。花の父や母が手本を見せると、皆、感心したように見入っていた。
「見て、バッタ!」「カエルが跳ねた!」
稲を刈り進むと、隠れていた虫たちが一斉に飛び出してくる 。子供たちはそれを追いかけ、田んぼは再び賑やかな遊び場となった。
最後に、束ねた稲を「はざ」と呼ばれる木組みに掛けていく「はざ掛け」を体験した 。天日でじっくりと乾燥させることで、米の旨味が増すのだという。ずらりと稲穂が並んだ光景は圧巻で、誰もがその美しさに息をのんだ。米作りは一人ではできない。昔からこうして、家族や地域の人々と協力して行われてきたのだと、誰もが肌で感じていた 。
第五部 新しい食卓
第十一章 収穫祭の湯気
すべての稲を乾燥させ、脱穀と精米を終えた十一月。農家の庭先で、ささやかな収穫祭が開かれた。主役は、もちろん炊き立ての新米だ。大きな羽釜の蓋が開けられると、真っ白な湯気と共に、甘く芳しい香りがふわりと立ち上った。一粒一粒が宝石のように輝く、炊き立てのご飯 。
会員たちは、それぞれ茶碗を手に、その輝きに見入っていた。自分たちが春に植え、夏に草を取り、秋に刈り取った稲。それが今、目の前で完璧な一膳のご飯になっている。
「……美味しい」
誰からともなく、ため息のような声が漏れた。噛みしめるほどに広がる、深い甘みと旨み。どんな高級レストランの料理も敵わない、最高の贅沢だった 。子供たちも、普段は少食な子まで「おかわり!」と元気よく茶碗を差し出す 。その姿に、花の胸は熱くなった。
「花さん、ありがとう」鈴木が、心からの笑顔で言った。「僕たちは、ただお米を買ったんじゃない。この一年間の素晴らしい体験と、皆さんとの繋がり、そしてこの土地への愛着を手に入れたんです。これは、お金では買えない価値ですよ」
その言葉に、これまでの苦労がすべて報われた気がした 。
第十二章 来春への種蒔き
冬が訪れ、丹後の山々が白く雪化粧を始めた頃、「棚田テラス」の初年度の活動は静かに幕を閉じた。会員たちには約束通り新米が届けられ、花のもとには感謝のメッセージが次々と届いた。
「子供が、お米を残さなくなりました」 「来年も絶対に続けます。今から春が待ち遠しいです!」
花は、がらんとした冬の田んぼを見つめていた。数ヶ月前まで不安の色しか見えなかったこの風景が、今は希望に満ちて見えた。この静かな土の下で、来年の春を待つ無数の命と共に、新しい約束が眠っている。
父も、今ではこの活動の最大の理解者だ。「来年は、味噌作りもやってみるか」と、自分から新しい提案をしてくれるようになった。
気候変動や後継者不足といった大きな問題が、なくなったわけではない。しかし、花はもう一人ではなかった。顔の見える仲間たちと共に、この土地の未来を耕していく。その確かな手応えが、彼女の中にあった。
「棚田テラス」は、単なる米の直販プロジェクトではなかった。それは、食を通じて人と人、都市と農村を繋ぎ、分断された社会に小さな信頼の橋を架ける試みだった 。
冷たい風が花の頬を撫でる。でも、心は温かい。来年の春、この田んぼに再び響き渡るであろう、仲間たちの笑い声を思い浮かべながら。花は、未来へと続く、新しい一歩を確かに踏み出していた。




