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未知との対面

蝶に花。飢えた蝶が蜜を吸いにくる行為はごく自然でありふれた光景。三国蓮二はその光景を愛おしく感じていた。

 自分が生きているこの世界は優しくも残酷で、好ましく思うと同時に嫌悪感が募る。その相対する心が蓮二の心を軋ませていた。

「蓮二君君おはよう」

 幼馴染の青園美礼(あおぞのみれい)が声をかけてくれた。

 蓮二は希死概念に囚われていたが、美礼の声を聞いて我にかえる。

「美礼はこれから仕事か?」

「うん。蓮二君はまた眠れなかったの?顔色良くないよ」

 美礼は心配そうに蓮二の目元を摩った。

「気軽に触れるな。ん?」

 美礼はクスリと笑って頭を撫でてきた。

 昔から同い年なのに姉ぶるのが少し鬱陶しかったが、嫌悪感はない。幼い頃から孤立しがちな蓮二を引っ張ってくれていたのが美礼だった。蓮二は一人でも孤独を感じなかったが、美礼はそれを許してくれない。一人でいるのをよしとせず、友達の輪に引き込んだ。それは蓮二だけでなく、常に周りに人を寄せつける、花のような女だった。

「美礼、香水変えたか?」

 美礼はもとより香水が好きだがいつもと異なる匂いがするのでもしかしたら新しい男ができたのかもしれないと思った。

 しかし今の男とは長く付き合って結婚も視野に入れていると言っていたので少し意外ではあった。思わず口に出しそうになったがグッとそれを飲み込む。そんなこと聞くのは野暮だ。蓮二はあくまでもただの幼馴染なのだから。

「あ。わかった?お店で一目惚れした香水があったからそれに変えたの」

 美礼はふわりと笑うと長くてふわふわとした猫っ毛を風に靡かせて去って行った。

 その残り香には昔嗅いだことのある懐かしい匂いが混じっていた。だがそれがなんの匂いなのか思い出せない。

「寝直すか…いや。今日は客が来るから無理だな」

 蓮二の仕事は何でも屋。廃品の回収から人探し、不倫調査までなんでもこなす。今日は長年不倫に悩んだ依頼主が離婚を有利にするための証拠を探してほしいというものだった。依頼主の配偶者は愛人をかなり愛しているようで、大切に隠していたが、そんなもの蓮二にとっては簡単に突破できるものだった。

 自宅兼事務所に戻ると長椅子に寝転んだ。蓮二の不眠は今に始まったものではない。随分と昔から。いつからかも思い出せないくらい長い間悩まされていた。

時計を見ると約束の時間から十五分過ぎたとろでドアベルが鳴った。

 扉を開けて入ってきた女は歳が四十代だがきている服や化粧でそれより随分若く見えた。

「少し遅刻してすみません。実は夫に殴られて、傷を冷やしていたんです」

「どうして殴られたんですか?」

 全く動じず原因を聞いてきた蓮二に依頼主の女は驚いた顔をした。心がこもってなくても心配の言葉をかけるのが普通の人の反応だったからだ。だが蓮二は何でも屋をやってきてこういうことが普通に行わられていることを知っているので全く興味がなかった。要は金さえ払ってくれればそれだけでいい。それさえ満たしてくれればなんでもやって不倫の証拠を押さえてやる。そんな男だった。

「夫の携帯に女からの着信があって、ついカッとなって問い詰めてしまったんです。そしたら逆上した夫に殴られて」

「なるほど。それはボイスレコーダーに記録は?」

 以前女には証拠は多い方がいいから女について何か行動を起こす時は記録を取るようにアドバイスしておいたのだ。女はボイスレコーダーを取り出して再生ボタンを押す。

「うるさい!お前には関係ないだろう!」

「嫌!やめて!」

「お前なんて消えてしまえばいい!」

 そんな音声と共に殴られる音や人が倒れる音などが録画されていた。

「うん。これで十分ですね。それから付き添いますからこれからすぐに病院に行きましょう。暴行を受けた証拠を残したいので」

「はい…。なんだか疲れてしまって。もうお金はいいからすぐに別れたいんですけれど…それも悔しくて…」

 女は疲れた様子だったがまだ目から希望の光は消えていない。

(まだ耐えられそうだな。だが…暴力を振るわれたらそれで心が折れる依頼人も多い。急いで片付けないとまた依頼料が減る)

 不倫調査は途中で依頼主が疲れてやめてしまい、依頼料が満額支払われないことが多いのだ。

 今回の依頼主は金払いがいいのでなんとか満額いただきたいと思っていた。


「それじゃあ病院にいきましょうか。朝食は?」


 女に聞いたのは自分が空腹だったからだったから。一人だけ食べるのも気まずいので気を利かせたのだが、女は案外素直に頷いた。


「まだです。ご一緒していいのなら…」


「じゃあ病院に行く途中で喫茶店に寄りましょう。俺のおすすめの店があるので」


 蓮二は車のキーと事務所の鍵を手に取ると鞄を斜めにかけて女を促して事務所から出た。

 冷房の効いた室内から一歩出ると、まだ午前中なのに既に日本特有の湿った暑くて重い空気が漂っていて辟易した。



「あなたは…ちょっと変わってるって言われませんか?」


「ああ。言われますよ。自分ではよくわからないけど普通ではないのでしょうね」


 蓮二は特に腹を立てることもなくさらりと答える。女はその答えに少し気まずそうに手元を見ていた。

(困るくらいなら聞かなければいいのに)

 女の戸惑いなど知ったことかと蓮二はビルの3階にある事務所から近くに契約してある駐車場まで黙々と歩いた。 

 女は先ほどの気まずさから抜けきれていないようで、沈黙したまま早足の蓮二に遅れないように小走りでついてきてた。


周りに合わせることができない。馴染めない。

 蓮二は幼い頃からそうだった。

 それにはある理由があったが、それを口に出すとますます孤立していくことを少しずつ学習し、大人になった今、それは誰にも言えない秘密となっている。


「じゃあ助手席に」


 女に言うと蓮二はさっさと運転席に腰掛ける。女は戸惑いながらも助手席に乗り込んでシートベルトをつける。それを見届けた蓮二はエンジンをかけて車を発車させた。


 蓮二の車は中古のミニ

 色はあわい黄色でかなりのお気に入りだった。


「三国さんは体が大きいのにこんな小さな車に乗ってらっしゃるんですね」

 

 女はまた軽く蓮二の地雷を踏む。こう言うところが夫の尺に触ったのではないのかと蓮二は思ったが、それでも暴力を振るうのは許されることではない。そう思って女の言葉に答える。


「ああ。昔から好きなんですよ。ルパン三世みたいでかっこいいじゃないですか」


「それで…」


 女は納得したように頷くと話が続かないことに気まずさを感じてか車窓から外を眺め始めた。その横顔にははっきりと赤黒いあざが浮かんでいる。これほど酷いあざが残るには相当強い力で殴らないといけない。女の夫が何を考えてこんなに酷い暴力を振るったのか、蓮二は微塵も興味がなかったが、殴った腕は痛かったのか。それだけが気になった。


「ここです。モーニングは1種類しかないですが味は保証しますよ」


 たどり着いたのは外壁が樹木に覆われた喫茶店だった。ここは蓮二のお気に入りの店。こんな外観だが味がうまいので、常に客足は途絶えない。


今朝も開店早々席はほとんど埋まっていた。

そこに顔見知りの店員である笹野がやってきた。彼女は長い髪を後ろで一つに縛り、そばかすがあるが整った顔立ちをしているため、来客の中には彼女を目的にしている者も少なくない。


「蓮二君おはよう!そっちの人は依頼主さん?」


「ああ。モーニング二つ」


「はあい。じゃあ奥の席にどうぞ」


 俺は勧められるまま奥の窓際にある席に座る。女もおずおずとついてきて俺の向がわの席に座った。

 窓の外を見ると、絡みついた蔦の間から忙しなく行き来する人々をのんびりと眺める。この喫茶店に入るとまるで現実世界から切り取られたかのような不思議な気持ちになるのだ。駅が近いこともあって、往来は人に溢れかえり、その誰もが急足で前をこちらを見ることもなく歩き去っていく。


(俺はここで止まっている。どこにもいかけずに。いつまでも)


 ふっと自分の世界に入りかけて今日は連れがいることを思い出した。

 

「ああ。すみません。ここにくるといつもぼーっとしてしまって。それで、何か話したいことはありますか?」


 女が何か話したそうなそぶりを見せていたのでそう聞くと、女はほっとした顔をして話始めた。


「私、夫とここまで拗れたの今でも信じられないんです。実は去年まで周りが羨むような仲良しの夫婦だったのですが、私が初期流産してから全てが変わりました。子供を心待ちにしていた夫は私がちゃんとしていなかったから子供が流れたのだと私を責めるようになって…」


 その話を聞いて俺は少し引っかかりを覚える。


「その時から暴力を?」


「はい。初めて殴られたのは子供が流れた日の夜でした」


 流産して傷ついている上に夫に殴られてこの女も気の毒だと思う。だが思うだけで同情も何も浮かんでこなかった。


「それから今まで?」


「ええ。ことあるごとに殴られて、私は怖くて実家に逃げようとしたんですけど、職場も知られているから…」


「殴られるのは服に隠れる範囲だけでしたね?」


「はい。顔をなぐらたのは今日が初めてでした。どんどんひどくなっていくので、もうお金はいいから別れたいのが本音ですが…ここまで我慢したのに何もないのも悔しくて」


 そんな話をしている間にモーニングが届く。


 ふわふわの丸パン二個にバター、コーヒーとサラダがついていて、そこにビシソワーズがついてくる。


「美味しそう!」


 女はさっきまでの憂鬱そうな表情が一気に明るくなる。彼女はまだ20代後半、まだ若い。そういう無邪気さを持っているのも頷ける年だった。


「まあ。いただきましょうか。腹が膨れたらきっと気力も戻りますよ」


「ええ。なんだか元気が出そうな朝食…ちゃんとした朝食を食べるの…1年ぶりくらいです」


  おそらく暴力が始まる前には毎朝仲良く朝食を食べていたのだろう。

 

 女は泣いていた。泣きながら美味しい美味しいと言ってスープを飲みパンを齧る。


 蓮二はそんな彼女を見ながら自分も黙々とモーニングを食べ勧めた。

 ビシソワーズを飲み終わると蓮二は紙ナプキンで口を綺麗に拭った。女もちょうど食べ終えたところで同じように紙ナプキンで口をそっと拭いていた。唇に塗った口紅が取れないように、慎重に。


「その口紅は?」


 控えめな服装の女がつけるにはあまりに毒々しい赤だったので尋ねてみると、女は少し悲しそうな顔をした。


「夫が仲良しだった頃に海外で買ってきてくれたものなんです。今だに…気合を入れたい時とか、勇気が欲しい時に塗っているんです。私、バカですよね。こんなことされているのに。本当はまだ好きなんです」


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