第一章 1話 鳥カゴからの脱却 改稿版
彼の朝は早い。
日が昇ると共に起き、朝食の準備を始める。といっても用意するものは前日から仕込んでおいたところに取りに行くだけだ。
寝床から用意した場所まで行くまでの間は、
彼の周囲は多少湿った草花と土の香りが僅かに漂い、仄かに朝露を連想させる霧が薄く立ち込めていた。
霧を掻き分けて少し、川のせせらぎが聞こえてくる。
ここで大きな欠伸を一つ。日々の習慣とはいえ、眠いものは眠い。
用意していた仕掛けに到着。仕掛けと言っても罠や餌でもなく、ただ単純に川の水を一部頂いているに過ぎない即席のダムと言っていいだろう。
到底一人では成し得ない、ましてや一夜で用意するなど真っ当な手段では難しい規模の即席ため池がそこにはあった。
『今日は見やすくていいね』
池の中の水は透き通り、自然の恵みが惜しみなく流れ込んでいる。
狙い通り魚が四、五匹池に迷い込み、池の外周を泳ぐ。
スッと右手を魚に方に向け、指先に意識を向けると、体を包んでいる自然魔力が指先に僅かに集まり、集中しなければ見えないほど細長い糸が魚目掛けて伸びてゆく。
その糸と形容するものが空中を真っ直ぐ伸びてゆき、水中に入ってからも真っ直ぐ魚に向かって伸びる。
着水しても水飛沫は立たず、泳いでいる魚はその糸に気づかない。
泳ぐ魚を追跡するように伸びた魔力糸が魚に命中すると同時に、彼が纏っていた自然魔力と同様のオーラが魚を包む。
『よっと』
掛け声と同時に空中に引っ張られるように魚が自ら飛び出てくる。その数は池にいた魚全て。
朝食用に二匹見繕い、まだ成長していない魚はそのまま川にリリース。魔力糸と接続が切られた魚が再び元気に川を泳いでいく。
魚と接続している魔力糸が出ている手とは反対に、左手からも魔力糸を出してゆく。
その数実に二十本。川の流れの一部を拝借して作った池を無くす作業だ。
魔力糸が石へと伸びてゆく。石に接続した魔力糸は、石から石へと更に広がり、一度に接続した石は大小様々で百個は下らないだろう。
数秒も経たないうちに石が池に入ってゆき、瞬く間に池だった場所が河原へと還る。
一つだけ接続を残された石が、それよりも大きい岩に向かって急加速を始め、勢いよく衝突する。
ガキィン
と大きな衝突音と共に石が割れ、鋭利な破断面が顕になった。
簡単な石包丁が出来たら、後は魚の腸抜きを空中で行ってゆく。
石包丁の操作を誤ると中の腸が傷つき、せっかくの朝食が不味くなるが、慣れた魔力操作でスピーディーに腸抜きが二匹分完了する。
後は火おこしだが、彼には必要がなかった。
魔力糸と同様に手を前にかざすと火の球が音無く現れる。火球にも魔力糸が接続されており、正確な円を描く薄い魔力の膜で包み込まれていた。
元来魔法や魔術は発動から操作の工程を挟む。
発動してから操作が終わるまでの間は維持の為に魔力が消費される。
それが低級だろうが、上級だろうが、或いはそれ以上の魔術行使に至るまで、魔法維持の難易度や効率の違いはあるが変わらない普遍的な事実だ。
彼の使っている火球を発動した魔法は今この瞬間に発動工程は既に終了しており、消滅までの秒読みに入っているはずだ。
しかし、魚が焼けるまでの間、この火球の炎は揺らめきもせず、真円に近い形状のまま固定されていた。
からくりとしてはこうだ。
火球に伸びた魔力糸から纏わせた薄い膜が火球の輪郭を正確に捉え、一つの形と仮定し空中で静止させる。
言葉にするのは簡単、だが火球はおおよそ丸の形であれ、完璧な真円ではない。
コンマで変化し続ける火球の形を切り取るが如く、正に離れ業が必要と言えるだろう。
だが彼の顔は汗が出るわけでも無く、神経を使った作業特有の緊張感すら感じさせることはない。
『頂きます』
こんがりと焼けた魚を口元に持っていき、パリっと音を立てながら大きな口で豪快に頬張る。
ジュワッと魚肉から溢れる油は甘く、この自然豊かな大地の恵みを凝縮した旨味と言っていいだろう。
朝食を済ませた後は、荷物に魔力糸を伸ばし出発の準備を整える。魚と同様に荷物へ魔力が伝わり、全て空中に漂う。
目指す先は近頃トーナメント戦が行われると噂される闘技場だ。
何やら腕に覚えのある面々が集まる大会らしいが、中央で開催されない限りはそう強者という強者は現れない。
参加希望者は只の荒くれ者やお調子者、果ては傭兵崩れの盗賊辺りが参加するような寂れた大会なのだ。
豊かな自然から一変、歩みを進めていくと荒廃した大地が広がる。目指す街まではもう少し。
ここで魔力糸から伸ばしていた荷物を背負い、表面上は大きな荷物を持っているように繕う。
見た目は旅のパーティによくいる荷物持ちといったところだ。
街の入り口にいる衛兵に通行料で銅貨を五枚支払い、手頃な宿を探す。
毎日野宿生活だったからか、久しぶりの宿屋に少し気分が高揚するのを抑えながらも、宿屋が集まっている街路を目指して歩を進める。
途中近道もあったが、寂れた街特有の雰囲気が漂っていたために、遠回りにはなるが大通りで目的の場所を目指す。
そんな歩いている最中に、正面から小走りで向かってくる少女が一人。
『そこのお兄さん。ここら辺では見ない顔だけど、大会参加者さんですか?』
少し芝居がかった声色で元気に話しかけてきた少女は、華美な服装とは似ても似つかない、
しかし要所でおしゃれにも気を配れるだけの暮らしをしていることが伺える格好をしていた。
『あぁ、そうだよ』
彼が言葉を返すと、パァッと少女の表情が更に明るくなる。
『でしたら宿をお探しのはず!この街で一、二を争う宿のおもてなしを受けてはみませんか?』
『じゃあ、お願いしようかな』
普段なら警戒していた勧誘にも、裏表がない表情をされると毒気が抜かれてしまう。
宿屋街を歩いていると、特徴的な看板が吊り下げられていた宿の前で少女は歩みを止めた。
看板には「小鹿と蜂蜜亭」と書かれており、寂れた街の景観にはどこか似合わない、
それでいて少しの安心感を覚えるような装飾の扉に、砂埃がよく舞う街であるにも関わらず、
できるだけ清掃の行き届いた窓ガラス。
ここの店主がお客をどう見ているのかが一目でわかる気配りの良さが伺える佇まいだ。
(これは当たりかもしれない。この子が言っていたことはあながち嘘ではないのかも)
『お待たせしました!これがうちのお店、小鹿と蜂蜜亭になります!ゆっくりとお寛ぎくださいな』
スカートの裾をたくし上げ、上品に挨拶をする。この頃流行している劇団というやつだろうか?
初めて会った時もどこか芝居がかっていたが、行商と一緒に来た旅の一団なのだろう。
店主にあの勧誘方法はやめさせたほうがいいと後でそれとなく伝えておこう。
店のドアを開けると、ベルの音が聞こえ中の店主に来客を告げる。
中から少し太り気味の女店主がやってきた。
『いらっしゃい。旅のお人よ、泊っていくかい?』
『ああ、闘技大会までの間、よろしく頼む』
『あんたも腕試しってわけかい、こんな街までよく来たね、ゆっくりしていっておくれよ。
大会までは、確かあと三日だったね。一日銀貨一枚だけど、まとめて払っていくかい?』
『そうだな、それで頼む』
この辺の宿の中では、かなり、いや、それもサービス次第の金額か。中央なら中から下の宿代といっていいくらいだ。
カウンターに銀貨をまとめて三枚置くと、店主が少し驚いた表情を見せる。するとすぐに柔らかな表情に変わり、少し笑った。
『あんた気前がいいね!本当の代金は一日銅貨十五枚だよ。
他の客なんかこの冗談を言ったら値切りに来るか帰るかのどちらかさ』
『なら、こいつの分のもてなしを頼むよ、期待している』
返そうとしてきた銀貨を手で制止すると、店主は考えた表情をして
『任せときな!』
と大きな声で笑いながら承諾したのだった。