うらみあい 3話
[友坂 理恵子:1]
姉が、狂った。
甥から、警察から連絡を受けた時は驚いたが、その一方でどこか納得もしていた。
今まで狂わずにいられたことの方が、私としては驚きだったからかもしれない。
私たちの生い立ちは、誰にも言えないくらいに酷かった。
祖母32歳、母16歳、姉1歳、私0歳。
そんな家族構成を口にするだけで世間からどう思われるか。
今はもう、知っている。
・ ・ ・
いくつかの家族しか住んでいない小さな村では、それが普通のことだった。
どこの家にも若い女や少女がいて、乳飲み子の声がする。赤子の世話はしたい人がして、死んでしまったら仕方がないといった風で。
ただ、他の家と違っていたのは、祖母と母が姉の世話を積極的にしていたことだった。その代わり、年子で産まれた私のことはほったらかしだった、らしい。
どうやら私は、その頃自分の娘を亡くした女の、赤子を失ってもなお出続ける母乳の処理係となることで運良く命を繋いだようだった。乳母と呼んでも差し支えない彼女は、私が物心つく頃には自ら首を括ったが。
1歳しか変わらないというのに、姉は私の世話をしたがった。乳母が死んでからの私は、姉によって生かされていた。
私の身体が特別丈夫だったか、ただ単に運が良かっただけかは知らないが、平均身長にも平均体重にも満たないながら、私はなんとか生き続けることができたのだった。
村には、基本的には女しかいなかった。
男児が産まれると、その子が一人で立てるようになったくらいで村の外からやってきた男がどこかへ連れて行ってしまう。
不定期に村へやってくる男たちは、生活に必要なものを持ってくることもあれば、ただ女を食いにくるだけのこともあった。防音のぼの字もないような家々から聞こえる叫び声に似たものが、そういう行為に伴う声だというのは、下卑た顔で笑うカエルのような男が教えてくれた。
カエル男は割と頻繁に村へやってきたが、女を食うことはなかった。
大抵の場合、ビニール袋に入った肉を持ってきて、それを山に埋めていた。
”狩り”の成果だという割には食べるために捌いたりはしなかったし、どんなに大きな肉だろうと嬉しそうな顔ひとつしなかった。
私の相手をしてくれるのは姉以外ではカエル男しかいなかったため、私はよく彼が肉を埋めるのを手伝った。
・ ・ ・
姉が15歳になった時、妊娠していることが分かった。何度か村に来ていた男が「きっと俺の子だ」と言い出し、体調が思わしくなかった姉をきちんとした病院へ連れて行こうとした。
祖母と母は猛反対したが、男はそれを振り切って姉を無理やり連れ出した。
姉を追い掛けて山を降りると、道路で待つ車の運転席にはカエル男がいた。カエル男は私を見ると少しだけ驚いたような顔をして、それから男のために車のドアを開ける陰で、こっそりトランクを開けて私に目配せをした。
カエル男の目的は分からなかったけれど、こんなチャンスは二度と訪れないと分かっていた私は、迷わず車に乗り込んだ。
長いこと車に揺られ、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。トランクに詰め込まれた雑多な荷物の中で身体を丸めていた私をの肩を、カエル男が揺すって起こした。
姉は栄養状態も悪く、そのまま入院になったのだとカエル男は言った。姉が病院預かりになったことで安心したらしく、男の気が緩んだところで、カエル男は私の存在を彼に知らせた。
「ソレはいらねぇ。てめぇの好きにしな」
「では、そのように」
その二言で、私はカエル男のモノになった。
とはいえ、カエル男……雨宮は私を人間として扱ってくれた。
姉のついでに戸籍を整えられた私を、通信制の学校に通わせてくれもした。
時折自分の仕事を手伝わせるためか、車の免許まで取らせてくれたのには感謝している。
世界に色が付いたようだった。男の影響なのか、祖母も母も私たちを追ってくることはなかったし、姉はみるみる顔色が良くなって、そして無事に悠人を出産した。
悠人と共に退院した姉は用意された一軒家に暮らし始め、少しして男と籍を入れた。姉は、幸せそうだった。
でも、幸せは長くは続かなかった。
悠人が成長するにつれ、男の顔からは笑顔が消えた。そして別の女の家に足繁く通うようになり、悠人が小学校に上がる頃、記入済みの離婚届を持った雨宮が家に来て、男は姉の世界から完全に消えた。
そして雨宮も、私を捨てた。その頃には学校も卒業していたし、学校に来ていた求人情報から小さな会社に就職もしていた。だから雨宮に家を追い出されても、一人で生活することはできた。
だが姉は、何も分からないままに放り出されてしまった。
村でも、町でも、姉は囲い込まれて育ったから、学もなく、到底働くことなど出来なかった。
私は悠人の復習も兼ねて、姉に勉強を教えた。長続きはしなかったけれど、近所の個人商店で手伝いの仕事をこなせるくらいにはなってくれた。
料理の腕は抜群だったから、作りすぎた料理をお裾分けしたりして、近所の人ともコミュニケーションが取れるようになった。
普通の人としてなんとか生きていけると、思っていた。
・ ・ ・
「でも、あれは違う……狂ったんじゃなくて……狂わされてた」
病室で眠る姉の中に、ナニかがいた。
そしてそのナニかが、姉を凶行に走らせているに違いなかった。
悠人が塾に行くまではいつも通りだったのなら、帰ってくるまでの短時間でどこか変なところに行ったりすることはないだろう。恐らく、ナニかの方から姉に近付いたはずだ。
そんなことを考えながらリビングに入ると、想像以上の光景が広がっていた。壁にも天井にも血が飛び散り、姉の抵抗の激しさを物語っている。
台所はさらに悲惨で、まな板とシンクには骨の覗く肉片が転がっていた。
村にいた頃の記憶がフラッシュバックする。血が、肉が、骨が、無造作に転がって。掃除を。
すぐに我に返り、普段以上に冷静になった。悠人の心のためにも、なるべく早く掃除をしなくては。
汚れの状況を確認してから、掃除用具を取りに納戸に向かう。引き戸を開けると、すぐの床に小さな箱がひとつ置かれていた。
「うっ……」
開封した後に慌ててガムテープを貼り直してここに押し込んだような箱からは、猛烈な腐臭がした。
これだ。
納戸を閉め、リビングに戻る。確かこの辺りにあったはず、と棚の引き出しを探すとガムテープが見つかった。息を止めて納戸に向かい、なるべく箱を見ないようにしながらぐるぐるテープを巻き付けた。
それから納戸の奥にあったコンテナの中に箱を無理やり詰め込み、蓋を閉めた。そんなことをしたって何の意味もないだろうことは分かっていたけれど、出来る限り押し込めておきたかった。
コンテナの留め具にもガムテープを貼り、そしてそこに知り合いの名前を書いた。
以前知り合った、霊能者の名前を。
急いで廊下に出て、窓を開け呼吸する。ズルズルと床にへたり込むと、跳ねる心臓を静めるために目を閉じた。
あれは何?
どうして気付かなかったのだろう。中身は分からないけれど、確実なことがひとつ。姉は、アレのせいで狂ったのだ。
送り状が貼ってあったということはどこかから届いたのだろうけれど、誰が、何を送ってきたというのか。
あの臭いは、まるで。
リリリリリン
ハッと顔を起こすと、リビングの電話が鳴っていた。携帯を持たない姉のために引いた固定電話。液晶画面には姉の入院する病院の名前があって、慌てて受話器を取りに走った。
「もしもし、友坂です」
『あ、わたくし友坂悠人くんの担任をしております栄田と申します。お母様でいらっしゃいますでしょうか?』
「悠人の叔母の理恵子と申します。悠人に何かありましたか」
『実は……』
通学中にトラブルに巻き込まれて気を失った悠人が、病院へ運び込まれたという連絡だった。同じ場所で倒れていた二人の男子生徒は怪我を負って処置をしている最中らしいが、悠人に目立った外傷はないと聞いて安心した。
・ ・ ・
姉とは別の大部屋で、青白い顔をして寝ている悠人のそばに腰掛ける。
悠人の手を握ろうと手を伸ばした瞬間、嫌な臭いがして手を引っ込めた。
「ぅ、おぇ……ッ」
家で嗅いだ……あの箱からした臭いと同じだった。
みるみるうちに悠人の周囲を黒いナニかが覆っていき、悠人の眠るベッドごと見えなくなってしまった。
黒いモノはどんどんと広がっているようで、慌てて病室から出る。
廊下の窓が開いていて、身を乗り出すようにして外の空気を吸い込んだ。
悠人が、ナニかにまとわりつかれている。
姉の中にいるものとはまた別のナニかが、悠人の中に入ろうとしている。
私には何もできない。
私に出来るのは、視ることともうひとつ。
だけどそれは今の状況では全く役に立たないことだから、助けを、助けを呼ばなくては。
スマホに登録していた名前をタップし、電話を掛ける。呼び出し音が鳴るや否や、のんびりとした男の声が聞こえてきた。
『もしもぉし? 電話番号教えたっけ? てかアンタ俺の名前勝手に使ったろ』
「お願いします、助けてください!」
電話をかけたのは、コンテナに書いた名前の持ち主。
白牟田捧という男は、私の知っている限り一番の霊能力者だった。ちょっとした誤解から呪いを掛けられて死にかけた私を、雨宮の依頼で助けてくれた人。
除霊のできる人間は数人知っているが、今視たモノに対抗できそうなのは白牟田さんしかいなかった。
『やだよ。聞いたぜ、アンタもう雨宮預かりじゃなくなったんだろ? 金持ってないヤツに興味ないんだわ。名前の使用料だけはおまけしてやるからさ』
そう言われて言葉に詰まる。雨宮が彼に幾ら払ったのか、聞いたことなどなかった。彼の言う通り、会社からの給料だけで生きることになった私には自由になるお金があまりない。
けれど、この男に見捨てられたら姉も悠人もいずれ死ぬ。
「もし、もし事態が解決したら、わたしをひとつ差し上げますから」
『ふぅん……別に俺は要らねぇけど、興味はあるな。いいぜ、協力してやる』
「ありがとうございます……!」
『とりあえずそっち行くわ、うるせぇし』
ふ、と息がしやすくなった気がした。窓から吹き込む風のお陰かもしれないが、臭いが少し和らいでいる。
「あ! アンタでしょ、友坂って子の保護者!」
声のした方を見ると、目を吊り上げた金髪の女がツカツカと近付いてきて私を睨んだ。その後ろから、不機嫌そうな顔の女も歩いてくる。更に後ろには悲壮感漂う表情の担任が見えた。
「どうなってんだよ! 何でウチの子があんな目に! オマエんとこの子だけ無事なのおかしいだろ、何したんだよウチの子に!」
ギャアギャア喚く女の声が耳に響く。
ああ、祖母と母に似ていて、とても耳障りだ。
胸ぐらに掴み掛かってこようとする手を片手でいなし、私よりも背の低い彼女を見下ろした。
「うちの甥も、そちらのお子様と同じ被害者です。まだ目を覚ましませんし、パッと見で怪我がなくても、脳や内臓に何かあるかもしれませんでしょう? そんな大きな声を出して、他の患者さんにもご迷惑ですよ」
「んだと……!」
「お気持ちが昂るのも分かります。タンスの上から二段目の奥、大変そうですものね。でもそれはそちらの問題ですので八つ当たりされても困ります」
タンスの上、のくだりは彼女の耳元でそっと呟いた。彼女は大きく目を見開き、それから青い顔で私を見た。唇が、震えていた。
「な、おま、……何で……」
「キミヨさんによろしくお伝えください。では、私は人と待ち合わせておりますのでこれで」
「あ……あぁ……ぁ」
金髪の女の豹変ぶりに気圧されたようで、もうひとりの女もこちらへ突っかかってくることはなかった。
余計なものを視てしまったから頭が痛い。生きた人間とのやりとりの方が面倒だと思っているから一番手っ取り早く済む方法を選んでいるのだが、こちらの手段は頭痛を伴うのがネックだった。
何も考えずにただ処理できればどれほど楽だろう。
担任に頭を下げ、正面玄関の方に向かう。
待合所に向かう最後の曲がり角に差し掛かった時、足が止まった。
今曲がったら、これ以上進んだら、嫌なものがある気がする。
悠人や箱から感じた臭いはしないが、肌がピリピリするような感覚があった。
外まで迎えに行こうと思っていたが、病室まで来てもらおう。そう思い、スマホを見ると圏外になっていた。
さっきまでWi-Fiにも繋がっていたし、電波もあった。これも霊障なのだろうか。
白牟田さんに連絡ができないのは困る。あの人はあれでいて礼儀を重んじるところがあるのだ。彼に帰られてしまったら、終わる。
私はフゥとひとつ息を吐き、足を進めた。
曲がり角、壁から頭を覗かせて様子を窺う。待合所に伸びる廊下の中ほどに、人影があった。
私と同じくらいの身長の、検査着を身に纏った人影。それがゆっくりこちらに近付いてきていた。
そして気付く。歩みを進めるたびに、ゆっくりゆっくり首が伸びていた。
ぺた ぺた
ズル……
ぺた ぺた
足音が、近付いてくる。
あれの横を通って、大丈夫なのだろうか。明確な悪意を向けられれば察することはできるけれど、そうでなければ視ることしかできない。私はただ、可能な限り息を殺し、気配を消して先に進むことしかできなかった。
パタパタパタ……
待合所の方から看護師が駆けてきて、人影とすれ違う。看護師の肩が人影に重なると、ぶつかられたように影が揺らめいた。
ただ、それだけだった。
これなら大丈夫かも。
私は少し歩く速度を上げた。相変わらず呼吸は最小限に。すれ違う瞬間は息を止めて。
「……ッ!」
通り過ぎようとした私の目の前に、顔があった。
首を器用に伸ばして。
目と目が、合った。
本当なら、見えていないフリをするはずだった。
しなくてはいけなかった。
けれど反射的に目を見開き、立ち止まってしまった。
ああああぁぁあぁぁぁぁ
顔が裏返しになってしまうのではないかと思うくらいに大きく開かれた口の中から、穴だらけの小さな顔と骨と皮ばかりの腕が幾つも出てきて、私に、伸びる。
終わった、と思った次の瞬間。
ごく、と音がしてそれは消えていた。顔も、手も、何もなくなって、代わりに男が一人立っていた。
短い白髪。顔の右半分を隠すように伸ばされた前髪だけが黒く目立っている。ロックバンドか何かの写真がプリントされたTシャツに、細身のジーンズを身に付けた背の高い男。
白牟田さんは不機嫌そうに眉根を寄せて言った。
「ここ多すぎ。マジ割に合わねぇから。助けンのって誰なん?」
「あ……えと、姉と甥を……」
「実の姉?」
「そのはずですが……」
「ふぅん。見てみないと分からんけど、ことと次第によっちゃあそっちからも貰うわ」
「ふ、二人は、私とは違うので!」
「どうだかな」
フン、と鼻を鳴らし、白牟田さんは病室の方へと歩いて行ってしまう。案内も何もしていないのに、その足取りには迷いがなかった。
「ハハァ、でっけぇ成り損ないもあったもんだ」
悠人の病室は丸ごと、黒いナニかに埋め尽くされていた。