官能小説家『海堂院蝶子』は俺のクラスの委員長である 3話
そして卒業式まであと数日になった頃、蓼科が家のコンビニまでやってきた。走ってきたらしく、顔を真っ赤に染めて何度も何度も深呼吸している。目を丸くしてレジ前から出た俺に、開口一番、蓼科は言った。
「本屋文藝賞にノミネートされたの!!」
「まじかよ、すげえな!!」
本のことなどあまりよくわかっていなかったものの、本屋に通うようになってからは大分身近になった、全国ニュースになるような大きな賞である。
「ほかの人達がすごくて、絶対受賞はできないけど……」
「そんなこと言うなよ。絶対いけるって。担当だってきっと今頃大喜びしてるだろ」
「でも、だって、みんなすごい作家さんばっかで、それに……もしもだよ、もしも受賞したら、私、顔を出さなきゃいけないのかな」
「あ……」
思わず我に返って俺は蓼科の顔を見る。果物のように真っ赤になった顔が、喜びと不安でいまにもはちきれそうだ。
「大学の進学に影響するかな。もう決まってるけど……」
「ど、どうだろう。蓼科って大学どこだっけ」
「推薦で聖霊ペテロ女子大学国文学科。家から通えるところで、もっと文学が勉強できる大学が良くって」
このあたりでは一番のお嬢様学校である。由緒正しく歴史あるところらしい。生徒からも親からも、どちらからも評判が良い大学だ。
「……だから、悩んじゃって。親にバレるのももう時間の問題だし、皆にバレるのは恥ずかしいし、変な目で見られるのはちょっと怖いし……でも、大きな賞を取ったら、本当に書きたいものが、書けるようになるかもしれないし」
至極もっともな意見だ。俺だって、蓼科こと『海堂院蝶子先生』が世間から評価されるのは本当に嬉しい、と心底思うのだから。
「じゃあ堂々としてればよくね? まあその、色々ギリギリだけど、ギリギリなんだし、ギリギリ問題ないはずだろ」
自分でも何を言ってるかわからない感じになってしまったが、
「そ、そうだよね。ギ、ギリギリだけど………」
蓼科も目を回しながら、モゴモゴと返事を返してくる。
しかし、もしも授賞したら、マスメディアを通して世間に顔を出さなければならないのだろう。そうなれば、学校中が大騒ぎになるのが目に見える。先生や校長、教頭あたりはどう反応するだろうか。この期に及んで合格取り消しとかになったりしなければいいが。
「発表っていつ?」
「卒業式の日。私、卒業生代表の答辞も読むんだけど。親も来るし……」
スマホの画面を掲げる蓼科。
「うわあ、まじか本当だ……卒業式当日かよ……」
「ど、どうしよう……連絡っていつ来るんだろう………」
思わず顔を見合わせて、
「なるようにしかならない、ってやつだな………」
俺は呟いた。
そして卒業式当日。
落ち着かない蓼科と一緒にスマホでニュースサイトを見続ける。『ただのクラスメートである』という設定を二人して忘れ、同時にそれぞれのスマホの画面の更新ボタンを連打しながら
「まだかな……まだか……早く来てくれよな……」
「発表、遅れてるみたい………このままだと………」
真剣な顔をしながら一緒に唸り声を上げ、同時に頭を抱えているので、クラスメート達もそんな俺達を遠巻きに見てはいぶかしがっているが、そんなことは今どうでも良かった。
しかし、無常にも校内放送が響き渡る。
『これより卒業式を行います。在校生の方、父兄の皆様、体育館までお集まりください』
思わず二人で同時に、机にめりこみそうなため息をついてしまった。
「めちゃくちゃ気になるけど………今はしっかり、卒業生代表挨拶、してこないと」
「そうだよな。頑張れよ。切り替えていこうぜ」
「う、うん、ありがとう。頑張る」
制服の内ポケットに答辞用の真っ白い封筒を入れて、『委員長』の顔に戻った蓼科が立ち上がる。
この時の俺達は、この後に起きる大騒動など夢にも思っていなかったのだ。
そして卒業式がつつがなく進んでいく。
ところが、蓼科が立ち上がり、マイクを手にして卒業生の挨拶を読み上げるその直前、教員達の席の方が落ち着きなくざわつきはじめた。人が入れ替わり立ち替わり行き来し、騒がしい。立ち上がったまま思わず戸惑う蓼科。
その途端、体育館の後ろの大きなドアが開き、雪崩れ込むように入ってきた、カメラを構えたTV局のクルー達が一斉にフラッシュを焚き始めた。
(やばいやつだ)
振り返った生徒達がざわつきはじめ、俺は思わず反射的に息を呑む。体育館に入ってこようとするクルーを前に対応に追われていた教頭が、一人だけ起立していた蓼科に向かって声を上げる。
「蓼科君! これは! どういうことかね!!」
体育館中に声が響き渡る。教頭が持っていたタブレットに写っていたのは、
『官能作家、初の本屋文藝賞受賞! その正体は何と八里塚高校の美人委員長!!』
ざわつく卒業式会場。立ったまま固まった蓼科に視線が集まっていく。
もちろん、父兄の席には蓼科の両親もいるはずだ。思わず振り返ると、蓼科の両親は青ざめて固まっている。まさか自分達の娘があんな過激な本を書いていたなんて、夢にも思わなかったのだろう。
「これは不祥事だ! ポルノ作家が卒業生代表だと?! 恥を知りなさい!!」
思わずボロボロと涙を流しだした蓼科が、スイッチの入ったままのマイクをごとりと床に落として駆け出すと、体育館前方の扉から飛び出した。
甲高いマイクのハウリングの音が体育館中に響き渡り、答辞の白い紙がばさりと宙を舞って落ちるのが、まるで映画のスローモーションのように見える。
数秒後、体育館中が大騒ぎになった。その騒ぎに乗じて、俺も真っ先に外に出て後を追うが、見当たらない。家だろうか。それともどこか別の場所だろうか。
強く、冷たい風が吹いて、自分の制服の胸ポケットに差していた、卒業を祝うはずの小さな花束が風に舞って飛んでいくのが目の端に映る。
思わず空を仰いで大きく呻いてから、俺は再び走り出した。
探し疲れて、家のコンビニでジュースでも買おうと思って一旦帰宅したら、何と蓼科はそこにいた。
「……あんたのクラスメートだっていうけど、どうしたの?」
お袋が心配げに、バックヤードの蓼科にハンカチやお菓子を差し出しながら言う。
「あ、うん、ありがとお袋。ちょっと色々あってさ、卒業式で」
「私はここのシフトで卒業式行けなかったからねえ。何かあったの?」
俺はしばし考え込んでから、そっとお袋に事情を話す。
「ああ、あの子がいつもいっぱいコピーしてたあれ、アレだったのねえ! それにしてもひどい教頭ね。保護者会に連絡してやるわ。委員長ちゃん、だっけ? うちのお得意様だもんね。元気だしなさいよ!」
「頼むお袋。蓼科がいなかったら俺まじで高校卒業できなかったと思う。いつも勉強教えて貰ってたんだ。本だって読むようになったし、なんかもう、全部蓼科のおかげなんだよ」
勉強を教えて貰う代わりに官能小説のアシスタントをしていたことも、何もかも包み隠さず話す羽目になったが、お袋は、目を瞬かせながら俺と蓼科を交互に見る。
「任せときなさいって。ねえ、委員長ちゃん、今日は泊っていく? お母さん達には、私から連絡してあげるから。町内会の連絡簿、うちの電話台の引き出しに入ってるからね。大丈夫」
蓼科の家とはそこまで近所、という感じではないが、一応は同じ町内なのである。
「は、はい………」
「和義、あんたいい友達持ったのね。いいアシスタントの踏ん張りどころよ。後でサンドイッチ取りに来なさい。用意しておくから」
部屋に入った途端、子供のようにわあっと泣き崩れる蓼科。いいアシスタントの踏ん張りどころ、と言われたばかりなのに、一体、どうしていいかわからない。ふと俺は、本棚にあった『海堂院蝶子先生』の新作を、そっと手に取った。
「………俺さ、このシーンすげえなって思って。金持ちの爺に呼ばれた嬢がホテルで、シーツをまとって好きな詩を呟くとこ。『薔薇の香水は 幾万もの花弁を搾り取った涙から 生まれているというのなら』………」
蓼科が、まだ涙の残る声で続きを読む。
「『私という存在は 一体いくつの苦悩から 生まれているのだろう』」
そして蓼科が自分を見る。自分のこのあまり長くも深くもない人生の中で、一番綺麗な眼差しだと思う。多分この先も見ることができないだろう。そんな、柄にもないことを考えていたら、唐突に蓼科が、立ち上がって制服を脱ぎだした。
「えっ!???? おいちょっと……」
頭のてっぺんから出たような素っ頓狂な声が出る。
「抱いて」
俺のそれとは反比例の、蓼科の真摯な声音。
「いや、ここでかよ」
「卒業したい」
「そういうことかよ……」
「どこかに行きたい」
「ロマンチックだな」
背中のブラジャーのホックを外すのに、少し手間取っているのは、手が震えているからだろう。
「実際は、小説みたいに上手くいかないんだよ」
思わず、自分のベッドのシーツをはぎとって、彼女に背中からかけながら言ってやる。そして、作中の詩を、文庫本片手に読んでやった。
「『薔薇の香水は………』」
ずっと泣き続け、とうとう投げやりになった蓼科が、シーツをまとった下着姿で、すとんとベッドに腰を降ろして目を丸くする。
「そりゃあさ、俺はお前のこと好きだ。据え膳っていうの? おかげさまで官能小説のレーベル全部言えるようになったし、毎日毎晩濃厚過ぎる動画だってめちゃくちゃ見たし……いや、ああいうのをお手本にするのは良くないけどさ………資料用の雑誌だって、目いっぱい読んだし、なんなら、そういうこと、できないことはないと思う。でもさ……」
「………」
「お前がもしも賞を取ったら、一緒に喜びたかったんだよ」
てるてる坊主みたいに不器用にシーツをまとった蓼科が、また、ぽろっと涙をこぼす。
「ごめん」
「いいって」
一世一代の大チャンスを盛大に逃したが、それでいい、と思った。
世の中には決して食ってはいけない据え膳というものも存在するのだから。
それこそが、この数ヶ月間に視聴したあらゆる『濃厚な』媒体と、3行に1度はあらゆる手段で『愛』なるものが書かれ、10ページに1度はいわゆる『問答無用の組み体操』が始まるのが定番の官能小説の数々から得た、俺なりの教訓なのかもしれない。
そして俺は、蓼科涼子のクラスメートであり、何よりも、海堂院蝶子先生唯一のアシスタントなのだ。いつからそんな矜持を抱くようになったのかはわからないが、アシスタントをしていなければ、『矜持』などという難しい単語を知ることもなく、彩りの少ない人生を送っていたのだろう。
「………だから蓼科、蓼科はずっと『海堂院蝶子』でいてもいい。俺は、いてほしい。卒業は、何とかなる。絶対にだ」
「………いいの?」
「アシスタントしてた俺にだって責任あるだろ。もしもダメだったら俺も留年してやるよ。でもそういうの、今考えるべきじゃなくね? 大学だって、本屋文藝賞を獲った逸材を逃すわけないだろ。逸材だぞ逸材」
「………本当に?」
まるで三歳の子供のようだ。
「当たり前だ。本なんか読んだことなかった俺が、朝まで夢中で読んだはじめての作家だぞ。……うちの先生舐めやがってあの教頭。次回作には年々髪が後退していく代わりにどんどん腹が出てくるクソみたいな教師出そうぜ。俺達にはその権利があるんだ」
蓼科が微かに、だがちょっと困ったように眉尻を下げて微笑む。ほっと力が抜けて、俺は言った。
「で、ちょっと待ってて。ご飯と飲み物取ってくるから。泊って行けよ。まだ今は親に合わす顔ないんだろ? 明日のことは、とりあえず何か食べてから考えよう」
「待って。ちょっとだけここに来て」
蓼科が俺を呼び止める。そんな彼女に俺は聞く。
「サンドイッチはたまごとカツとツナ、どれが……」
唇が、唇で塞がれる。目の前が、真っ赤になった。
その後のことは、あまりよく覚えていない。売れっ子官能小説家と仮にもそのアシスタントだというのに、笑ってしまうほどぎこちなく、切なく、熱い。
耐えきれない。抱きたい。でも、何の準備もない。それは、良くないことだ。自分とは違って、蓼科にはこれから素晴らしい未来がどこまでも、どこまでも広がっているのだ。
そう、『海堂院蝶子』、まさに、蝶が海を越えて羽ばたくように、だ。
毎日見ていたはずのそういった動画もまったく役には立たず、そのまま唇を離す。押し倒したいのをぐっと我慢して、少し男くさいはずのシーツ越しに、ただただ赤ん坊にそうするように抱きしめてやる。
「俺、めちゃくちゃ情けないな………」
「そんなことない」
蓼科の涙から、薔薇の匂いがしたような気がした。




