かがやき損ねた星たちへ 3話
「そいつが噂の死体か?」
私がカメラのフィルムを巻き戻した時、背後から声がしました。私は慌てて振り返りました。
「江田警部?」
窓枠に頬杖をついた女性が、外から部屋の中を覗いていました。やけにおめかししていましたが、江田警部でした。薫の電話から、二十分も経っていないはずです。
「今、玄関の鍵を……」
「いらん。私はここからでいい。代わりに写真を撮っておけ」
警部は私に新しいフィルムを窓から投げてよこしました。
「伊波の死体は、見なかったことにする!」
警部の命令は、明瞭かつ簡潔、そして不穏なものでした。
分かってはいました、彼女を呼んだらこうなると。ですが私は思わず天を仰ぎました。
「……死体を放置するのは、警察官としていかがなものかと」
「そうか? 荒川区の事件の時、公安部は刑事部の集めた証拠を、全部召し上げた。どうせ関わったところで、公安が全部持っていくんだから、むしろ手間が減るだろう? 全く、羅生門の婆さんでも、もっと手加減すると思うがな」
すぐに言い返され、公安部の志村は気まずそうに窓に足をかけました。
「証拠は残していないな? ずらかるぞ」
これが仮にも警察官の言うセリフでしょうか。しかし我々はひと言の口答えもなく頷いて、そそくさと伊波のアパートを後にしました。
「じゃ、私はこれで。今日は非番なんだ」
駅に戻ったところで、おめかしした警部は鞄を揺らし、しかしやや足取り重くホームへの階段を上がろうとしました。
「警部、どこに行くんだろう。平日なのに」
「お見合いだよ。仕事を辞めて結婚しろ、って親がうるさいらしい」
案外、江田警部も苦労人のようです。
「どこで知るんだ、そんなの」
「僕と警部は、赤い糸で結ばれてるのさ」
私は薫を無視しました。志村に至っては聞いてすらおらず、敷地の入り口で何かにカメラを向けていました。
「無視しないでよ。ねえ志村、何撮ったの?」
「ゴミ捨て場のゴミですよ」
「志村は本当にゴミが好きだねぇ」
「そんなわけないでしょ。これ、恐らく伊波のゴミですよ」
なるほど、袋の中には台所に積みあがっていた空き缶と、全く同じ缶が入っていました。勿論、志村はゴミ袋を持ち帰りました。薫の中で、彼は完全にゴミの男でした。気の毒に。
§
ゴミ袋を開封した場所は、志村の自宅でした。私も薫も妻帯者なので、ゴミを自宅に持ち帰れないのです。
「志村って家もゴミ箱みたいだね」
志村家は、とても汚い家でした。
散らばった志村の衣服を隅に寄せ、床に新聞を何枚も重ねた上に、袋の中身を広げます。三日くらいは部屋に匂いが残るだろうなと思いました。気の毒に。
さて、あなたはゴミ漁りという作業を知っていますか。
ゴミ一つ一つを、目を皿のようにして調べる作業です。薫が何度もくしゃみをして、鼻をすすりました。誰でもそうなります。それでも我々はやるのです。それが仕事ですから。
「辛そうだな、薫」
「かがやき、そして伊波を殺した犯人を追うためだからね。頑張るよ」
薫は志村のタオルで勝手に鼻をかみました。志村がすかさず舌打ちをしました。
「しばらく代わろうか? 休んでこい」
「いや、いいよ。僕が見てないと、嶺次郎は証拠を消すかもしれないし」
部屋が静まり返って、時計の音だけが大きく響きました。
「……どういうことですか?」
優しい声で沈黙を破ったのは、家主の志村でした。
「伊波の死体、手首が縛られてたでしょ。嶺次郎はその手首を縛っていた結び目の紐を、ほどいていたんだよ。どうして、紐の結び目を外したの?」
鼻声ではありましたが、薫の口調の奥底に小さな鋭さを感じて、私は目を泳がせました。
「……手首と首の絞扼痕を比較したかった」
「切ったら良かったじゃん。ほどくのは大変だよ。固く結ばれてたし」
「切ったら、証拠隠滅だろうが」
「それを言うなら、結び目をほどくのも、立派な証拠隠滅だよ」
薫は柔らかい口調でした。だからこそ逃げられませんでした。私はゴミを漁る手を止めました。
「写真を撮るときも、あれこれ触って写真を撮ってた。触らずに撮らなきゃダメでしょ。ねえ嶺次郎、誰か庇ってる?」
──はい。
私の脳裏に一人の顔が浮かびました。
言い訳はしません。相手は私の数少ない友人、薫ですから。
「瀬戸口瞬太郎という男だ」
「友達?」
「兄さ」
私が警察官になってから、一度も会っていない兄でした。
「結び目を見た瞬間、すぐに分かった。伊波飛鳥を殺したのは兄だと」
手先の器用な男でなかったせいか、いつも独特の結び方をする兄でした。
「……お兄さんがいるんですか」
「名前で分かるだろ」
名前だけではありません。後を継がずに、上京して公務員になれる立場、そのまま上司の紹介で東京で結婚できる立場。長男では成しえません。
「だからお兄さんを庇ってたんだ?」
「まさか」
むしろ、恨んでさえいました。兄を大学にやったせいで、私は高卒で働くしかなかったのです。いえ、それは構いません。しかし、私を犠牲にしてまで進学した大学で、勉強もせず左翼活動に現を抜かし始めたのは、どうしても許せませんでした。
「警察官の身内が活動家だと知れたら、俺の出世は終わりだぞ」
普通、身内が活動家の者は警察官にはなれませんが、例外はあります。
警察官になった後に、身内が活動家になった場合です。
罰則はありませんが、当然それ以上の出世は望めなくなります。
私は上司の紹介した女性と見合いをし、婿に入りました。それは上司からの出世の圧でした。私が出世しなければ、妻と上司の顔に泥を塗るのです。
それは江田警部が我々をこの任務に選んだ理由でもありました。守る者のある我々は、決して仕事から逃げませんから。
「分かるよ。僕も嶺次郎と同じ、婿入りだからね。婿の立場は弱いものさ」
志村や江田警部のように、苗字で呼び合うのが一般的な日本警察で、途中で苗字の変わった私と薫だけは、互いを名前で呼んでいました。
「俺の人生を、左翼活動に荒らされてたまるかッ!」
私は壁を叩きました。兄のようになりたくはありませんが、羨ましいのは確かです。私だって、たった三日でもいい、兄のように自由に生きてみたかった!
薫は左翼活動を部活だと言いました。ならば警察官は何ですか。
権力の犬、社会の歯車、そして、かがやき損ねた星です。
高卒の私には、大学生が左翼活動という青春を楽しんでいるのが、とてもとても眩しいのです。
「兄を庇うつもりはない。なんなら、兄には死んでほしい。どこに住んでいるかも分からん兄だ。かがやきと大鷹を公安が捕まえる前に、内ゲバか何かで殺されてほしい」
私は蚊の鳴くような声で呟きました。志村が言葉を失ったのが分かりました。
「死なせたいの? 君の兄さんを」
私は膝を抱えて頷きました。私の気持ちを分かってくれるのは薫だけでした。
「よし、嶺次郎のお兄さんを殺そう」
前言撤回。私は思わず顔を上げました。分かってくれなくて結構です。
「これは俺と兄の問題だ。頼むから関わらないでくれ」
私は首を横に振りました。薫を巻き込むと、面倒なことになる予感がしたからです。
「瀬戸口を殺すにせよ、捕まえるにせよ、まずはゴミを袋に戻すところからですね」
志村が甘い顔を崩さず、空っぽの袋を指さしました。
「なんで? 今、瀬戸口を殺す話してるんだけど」
「だからですよ。あの敷地に、ゴミ袋を戻しましょう。瀬戸口に逃げられてもいいんですか?」
志村にしては強い口調に、我々は渋々ゴミを戻し始めました。志村が隣の部屋で現像した写真の通りに、正確に袋を再現します。
「どうしたんだ、急に」
「台所には空き缶が山積みだったのに、ゴミ袋にも空き缶がありました。普通、空き缶があれば、いっぺんに捨てませんか?」
私と薫は顔を見合わせました。
「……わざと残したのか。伊波のゴミ袋だと分かるように」
死体発見現場を、警察はくまなく捜査します。しかしゴミ捨て場のゴミ袋は別です。共用部分に捨てられたゴミ袋にも目を向けるのは、公安くらいのものです。
「ええ。公安をおびき出すためだと思います。公安なら、必ずゴミ捨て場のゴミ袋を見ます。かがやきの捜査に投入された捜査官の顔を、確実に知れるんです」
おまけに、腹腹時計の原本があれば、必ず公安が来ます。しかも、かがやきの事件を担当する公安の捜査官が。
「犯人の瀬戸口は、吉永君の兄なのですから、恐らく社会人です。社会人なら出勤前か退勤後しかアパートの様子を窺えませんが、ゴミの様子は分かります。もし家主が死んでいるのにゴミが消えていたら、公安がマークしているとバレる。伊波を殺した理由は分かりませんが、このゴミ袋は、瀬戸口が仕掛けた罠なんですよ」
私は思わず息を飲みました。
「もう一つ、腹腹時計の原本が現場にあったら、伊波がかがやきの関係者だとすぐに知れます。それだけ危険な本のはずなのに、瀬戸口は回収しようとしなかった。それも罠だと思います」
荒川区男子大学生殺人事件の時もそうでした。原本が部屋にあったから、公安がやってきたのです。
「僕もね、ゴミ袋を漁られるだけの男ではないんですよ」
志村の自虐を笑ってやるべきか迷う間に、薫が失礼なほど笑っていました。
「おい、待てよ志村。例のアジトにだって人は集まっただろ。志村や公安部の連中の顔を控えられてるんじゃないのか」
「それなら平気だよ、嶺次郎。そもそも、かがやきのアジトなんて、どこにも存在しないからね」
「……は?」
私は薫の言っていることが分かりませんでした。志村家の閉められたカーテンの隙間から、西日が差していました。もう夕暮れでした。
「腹腹時計をしっかり読んだ方がいい。『秘密主義はかえって墓穴を掘る』と書いてあったのに、玄関に補助錠を二つも付けるかな? あれは怪しい部屋の演出だったんじゃないかと思うんだ」
私の目が泳ぎました。確かにあれは、外から見て怪しいと分かる部屋でした。だからたった三日の捜査で分かったのです。
「そもそも、警察がなぜ時限爆弾と断定したか、嶺次郎は分かるかい?」
根源的な問いを投げかけられて、私は面食らいました。
「現場から時計、つまり時限爆弾のタイマーが見つかったからさ。あんなに巨大な爆発なのに、タイマーが残るなんておかしいと思わない?」
流石に、その先は言われずとも分かりました。
「……慌ててタイマーに繋いだから、ミスをしたのか?」
「その通り。二つの時限爆弾を同時に爆破するためには、一つのタイマーで並列に繋がなきゃならない。この電圧調整が難しくて、実際に腹腹時計にもそう書いてある。目撃証言を出さないくらいに犯人たちは訓練したはずなのに、証拠を残してしまったんだ」
薫はまるで爆弾犯のような口ぶりでした。
「事前に繋いでおけなかった、と言いたいんだな」
「たぶんね。爆弾を積んだ車を、職場にでも停めていたんだ。昼休みに車を出して、車内か現地で爆弾をタイマーに繋いだんだよ」
営業時間を狙うために、犯人は平日に爆弾を仕掛けました。それはつまり、犯人たちにも仕事があるということです。少なくとも伊波は社会人でした。
「アジトがある奴らが、こんな綱渡りをすると思う?」
「……思わない」
「では、あれは何の部屋なんですか?」
少なくとも私と志村は、あの部屋がかがやきのアジトだと信じていました。
「江田警部がでっちあげた部屋さ」
警部が全てをでっちあげていた。それは、公安が見つけられなかった例のアジトを、江田警部と我々が都合よく見つけられた理由の全てでした。
「腹腹時計にも書いてあったでしょ。居室を爆弾製造所に使用するときの心得がね。居室で爆弾を作ってる奴らが、アジトを用意してるとは考えにくいな」
アジトのでっちあげなんて、バレたらどんな処罰が来るか。考えるだけで恐ろしくて、背中に冷や汗が垂れてゆきます。
「……そうか。江田警部はバレてもいいんですね。いざとなれば結婚で逃げられますから」
だから多忙な中で見合いに勤しんでいる。そう推測するのは野暮で失礼でしょうか。
「……江田警部に直接尋ねてみる? お見合い、もう終わってるだろうし」
警部は副総監の娘ですから、彼女の自宅は副総監の自宅です。
薫は志村家のプッシュホンのキーをぽちぽちと押してゆきました。
「江田だが」
「警部ですか? 単刀直入ですが、例のアジト、どうやって作ったんですか?」
「適当だ」
警部が誤魔化すつもりなのは、見え見えでした。
「借主の名義はどうしたんですか? 公安はすぐにアジトの借主の身元から遺留品まで、徹底的に調査しますよ。生半可な作り込みでは、警部のでっち上げとバレるはずです。もう一度お聞きします。どうやって作ったんですか?」
「知ってどうする?」
警部の声が低くなり、一気に薫を警戒したのが分かりました。
「あれは荒川区男子大学生殺人事件の被害者、トビシマが借りていた部屋だ。元は私が学生の時に親に買ってもらったアパートだが、今は賃貸として貸していた。借主のトビシマが左翼とも知らんかった」
まさか大家が警察官だとは思わないでしょう。人事院規則を守って貸すあたり、抜かりのない女でした。
「私はただの大家にすぎん。だがトビシマは貧乏だったとみえて、家賃の滞納が多かった。灸を据えてやろうと部屋を開けたら、メモを見つけた。荒川の殺人事件の現場の住所だ。犯人が呼び出したんだろう。あの事件、第一発見者は私なのさ」
電話の向こうで、警部が快活に笑いました。彼女が警察を呼んだのでしょう。呼んだ結果どうなったかは、先述の通りです。
「……ということは、犯人は例のアジトの存在を知ってるんですね?」
薫がニヤリと笑いました。
「警部、あの部屋を貸していただけませんか?」
江田警部が息を飲んだのが、電話越しにでも分かりました。
「何に使う? あの部屋は私の私物だ。理由を聞かせてもらおうか」
「伊波が警察に自首したことにします。そして、かがやきは、江田警部の部屋をアジトにしていたことにします。そのように新聞屋に報道させます」
新聞屋はいつでもスクープを狙っています。必ず大きく報道するでしょう。
「トビシマと伊波を殺した、瀬戸ぐ……犯人は、驚いて現場に戻ります。何せ、伊波が生きていると報道されたのですから。そこに接触します」
「逮捕するのか? 証拠がないぞ」
「捕まえはしません。こちらに引きずり込んで、協力者にします。警部の部屋は犯人を匿うのに使います。かがやきを捕まえるための、生き餌にするんです」
薫が受話器を持ったまま、私の方を見て目を細めました。私──瀬戸口瞬太郎の弟の私を、利用するつもりだ。私は直感しました。
「悪いようにはしませんよ」
薫は受話器に向かって言いつつも、視線はまっすぐ私の方を向いていました。私は思わず身震いしました。
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
「……長谷川薫君は、公安向きですね。性格が悪くて、そして躊躇がない」
志村の呟きに、私は冷や汗をもって頷きました。
薫が味方で良かったと、心底思いました。




