私説「続 山月記」
嶺南での役目を終えた袁傪は、友・李徴との約束を果たすため、長安への帰途に虢略に立ち寄った。
町外れのあばら屋に、李徴の妻子は居た。かつて豪奢であったと思われる家屋だが、壁は朽ち屋根は所々が破れ、一見すると人が住んでいるはずなどないという廃れ具合である。
「もし、ここは、李徴殿のお宅か?」
袁傪は静かな声で呼びかけた。
「はい。わたくしが袁傪の妻でございます。」
粗末な衣服の婦人が出てきて答えた。身につけたものは粗末ではあったが、婦人の風貌にはしっかりとした気風が残っていた。
「おお、ご婦人。それがしを覚えておいででしょうか。ご主人の李徴殿と共に、登用された袁傪でございます。」
しばし間を置いて、婦人の顔が明るくなった。
「ああ。なんと懐かしい。袁傪殿。ご立派になられて。主人は、あいにく不在でして。」
少しの間、無沙汰を詫びる会話を重ねた後、袁傪は沈痛な面持ちで告げた。
「友・李徴のことであります。江南から用務で旅に出た中で、行方不明となったことは、お聞き及びですか。」
「はい、そこまでは聞いております。その後の行方はわからずですが、李徴の妻である矜持は保ちつつ、お帰りを待っているところです。」
「そうでしたか。実は、本日立ち寄りましたのは、つらい事実をお伝えするためでございます。商於の地で、どうやら虎に襲われたとのこと。宿から出たところを虎に襲われ、そのまま山中に引きずり込まれたらしいのです。」
李徴の妻は、そこまで聞いて崩れ落ちた。袁傪はすかさず、駆け寄って支えた。
「それとわかるまで時間がかかったのは、才ある李徴殿ですから、密命を帯びて単独任務に就いたのではないかという噂が走り、捜索が始まらなかったからとの事です。」
座り込んで放心していた妻が、声を上げて泣き始めた。袁傪は見守るしかなく、傍でじっとたたずんでいた。
やがて、妻が泣き止んだ。そして身を起こして、毅然とした顔に立ち戻ると、
「お知らせいただき、ありがとうございます。徴も無念であったことでしょう。しかし、ご存じのとおりのあの性格。他の方の恨みを買って、誅殺される事もあろうかと気に病んでおりましたが、他の方のご迷惑とならぬ最期であったなら、まだ良かったかと。」
ああ、この強さか。と、袁傪は思った。あの自己中心的な李徴と夫婦になり、家を支えてきたのは、妻のこの強さなのだなと、実感した。
「かねてより、李徴子より頼まれていたことがあります。我らは互いに、自分の身になにかあった時には、残った家族を支えようと誓い合っておりました。その誓いを果たさせていただきたい。李徴の行方が途絶えてからこれまで、この家を守られた奥方のご苦労に敬意を示しつつ、失礼とは思うが、この後の生活について、是非とも私に支援をさせていただきたい。」
相手の尊厳を傷つけぬよう、言葉を選びながら袁傪は伝えた。その時、李徴の子と思われる少年が二人、戻ってきた。手に持った籠には、山で拾い集めたであろうキノコや木の実が入っていた。
袁傪の申し出に、当惑していた婦人だが、子供たちを見て、決意したかのように返事をした。
「徴の友とはいえ、袁傪殿にご迷惑をおかけしたくないとの思いもありますが、これも主人の意思であり、天の助けでもありましょう。謹んで、支援をお受けしたいと思います。」
「よかった、よかった。ご理解いただけて嬉しい。それがしも、努力が報われ、それなりの官位をいただいておりますゆえ、ご遠慮なく、支援をお受けください。」
気づくと、袁傪は泣いていた。友の最後の頼みを果たすめどが立った喜びか、はたまた、友の悲しい人生を思い起こしての悲しみか。婦人が、子供たちに父の死を伝える。婦人の育て方であろう、二人の息子も、毅然とした態度で母の告げる「事実」に耳を傾けていた。
虢略を辞して、都・長安に戻った袁傪は、宮殿に参内して嶺南での任務報告をし、久しぶりの我が家に戻った。
それから数ヶ月後、袁傪に新たな命が下る。商於の地で、獰猛な虎が暴れ回っている。現地の役人は、なかなか討伐できずいる。任務怠惰も考えられるので、監察も兼ねて、虎の討伐を指揮するように、と。
「あああ。運命とは、ここまで厳しいものなのか。」
そうは思いながらも、勅命であれば断るわけにも行かず、また、とどめを自分が刺すことこそ、天が与えた友への情けなのだろうと思いを定めて、袁傪は商於へと向かった。
商於の「人食い虎」は、その地の人民を震え上がらせていた。以前は夜間のみの暴虐であったが、最近は日中でも出没するようになっていた。藪に隠れて息を潜め、一人歩く者のみを襲っていた。ただ喰うために襲うのではなく、襲ったその人肉を辺り一面にまき散らすという、その強さを誇示するがごとくの惨状に、人々は言葉を失っていた。
「藪に潜みし臆病な虎が、ひとたび襲いかかると傲慢な悪魔となる。」
商於の人々はそう言って、厭悪しながら恐れていた。
現地に入った袁傪は、綿密に調べた。その地の役人たちは、袁傪から不甲斐なさを叱責されながらも、退治の難しさを述べた。複数で探索すれば姿を現さず、かと言って一人で探索すれば虎に敵わず、万策尽きたと。
「あの虎は、かなり賢く、こちらの裏をかいてきます。我らでは歯が立ちません」と。
試しに、都から来た武人を探索に当ててみたが、役人たちの言うとおりであった。
「こうなっては、手はこれしかないな。」
袁傪は、都に残る家族に手紙を書いた。命をかけた任務になる、無念にも帰ることができないかもしれぬ。ただ、帝のために賭ける命であるので、その誉れを胸に持つこと。我が死後は、我が同僚の助けを得て生き延びるよう
に。虢略にいる李徴の家族への支援は、必ず続けるように。と。
そして袁傪は一振りの剣を手に、部下が止めるのも聞かず、事故が多く起こる藪の近くへと出向いた。部下たちは離れたところから袁傪を見守った。
日が沈み、辺りが暗くなりかけた頃、はたして一匹の虎が藪から躍り出た。赤い虎である。その色は、間違いなく人々の血で染まった赤である。まさにその爪が、袁傪の首に届くかと思われた時、虎の動きが止まった。怒りに燃えていた虎の目が、穏やかな目になった。
「まだ、そこに居るのか、李徴子。」
袁傪が呼びかけた。しかし、虎は悲しげな目を向けながら、低く唸るだけである。
「そうか、もう人語を操ることもできぬのか。」
すると虎は、体を横に向け、そこに座り込んだ。わずかに首を前に伸ばしながら。
「友よ、わかった。その首を我が手で落とそう。その後、ここに慰霊碑を建てよう。君が心ならずも手にかけた人々と、君の魂を慰める碑を。」
虎の目から一筋の涙が流れ落ちた。袁傪も涙を流した。そして、手に持つ剣を高く掲げ、
「さらば、友よ。」
その一言と共に、一気に剣を振り下ろした。
かくして虎は退治された。袁傪は、その地に慰霊碑を建てた。碑の表には『残虐なる虎の暴挙で命を落とした方々の冥福を祈って』と刻まれた。そして、裏には小さな字で、一句の詩が刻まれた。
偶 因 狂 疾 成 殊 類
災 患 相 仍 不 可 逃
今 日 爪 牙 誰 敢 敵
当 時 声 跡 共 相 高
我 為 異 物 蓬 茅 下
君 已 乗 軺 気 勢 豪
此 夕 渓 山 対 明 月
不 成 長 嘯 但 成 嘷
【終】