89 午一つ(午前11時)強化 四方村陣屋・立川甚五郎
明日までに、自分たちの呪いの回復を見込みながら、できるだけ多くの武具・防具に、精神的な力を付与する。そもそもの思いつきが無茶である。
昨日の夜、最初に殿様は、甲野さんに対して……
「鏃に念を込めて、すべて破魔矢にしてほしい。さらに狐除けの護符のようなものを兵のために作ってくれないか」
そう依頼してきた。だが、それをやると、実際には大変である。御札を一筆書くくらいなら、気休め程度だ。甲野さんの持つ神剣の如きは、すぐにはできるものではないし、かつて甲野さんの神社で作られたという、反乱を鎮めた伝説の破魔の矢の如きも同様だ。一朝一夕には不可能。
だから、甲野さんは即座に断ったのだ。堀部の殿様の発想は面白いのだが、それに応える側になってみると苦労が多いと。
だが、殿様もあきらめの悪い人で、そこで引き下がらない。
我々全員も巻き込んで議論になったあげく、多少の手当の上積みを条件に、私らみんなで分担し、武具や防具に念を込めるという話になってしまった。
兵たちは、今日、それぞれの作業に出かける前に、陣屋の庭に立ち寄り、槍や弓矢、兜や甲冑を置いて作業の現場へと向かった。
「捗ってこざるか?」
陣屋に侍は、供回りと小姓が合わせて数人残るのみ。津山家がその気になって手の者を差し回してくれば、一たまりもないはずだ。というか、狐が津山家と結んで身軽に動けるなら、今日、今こそを狙って襲撃してくれば、津山家の勝利は疑いない。
だが、そこまでしない事情が向こうにもあるのだろうし、そうはできないという軍略上の読みと、そうなったらそうなったで仕方がないという諦観が、殿様にはあるのだろう。
事もなげに、庭先にのんびりした調子で顔を出し、我々の作業を面白そうに眺める。
しかし、一城の主、一軍の将としては、やはり九尾の狐の存在が重くのしかかっているのだ。津山家があんな無茶な火の玉を放つ怪物と手を結ぶ以上は、全力で勝たねばならない。だが、普通の武具・防具では心許ない。
少しでもやつらに傷を負わせ、やつらの技を防ぎたいの一念なのだ。
それは、自分の主である梶川様が馬産にかける執念と似ている。
「まあ、何とかですね。私ら仙術の使い手は、ひたすら念を込めるだけですので、それなりに順調ですが。甲野さんは祝詞を唱えるのが……佐藤さんは護符を描くのが大変そうです」
「俺なんかがやったところで、それほど大きな力になるわけじゃないと思いますがね。そこの建吉も……」
占い師の高吉が話に割り込んできて、すぐそばにいた建吉も手を休めて、こちらを見ている。
「高吉さん、お前さんは、どういう力を込めている」
「俺は占い師だからな。占いと言っても暦や方位を読むのでもなけば、手相・人相を観るのでもない。実際に読心して、そいつの本性を知って、それに対して助言するのさ。だから、相手がどう動こうか読めるように念を入れている」
「そうか、人によっていろいろだな。というか、あんた、その力、商売の駆け引きとか、別に活かした方がいいんじゃねえか」
「あはは……根っからそういうのに向いてねえんだ。そういう立川さん。あんたはどんな力を込めてるんだ?」
「一応は医者だからな。傷を浅くする呪いだ。深い致命傷はどうにもならないが、刃や鏃の小さな切り傷くらいなら、痛まない程度に小さくできる。兜や甲冑にかけているよ」
「建吉は? お前も一応は医者の看板かけてんだし、隣に薬屋を営ませてるだろ?」
「俺の本当の決め技は、暗示の技だ。相手を幻惑して、暗示にかけて言うことを聞かせるってな。だから、槍の穂先に念を込めてる。相手の注意を散漫にする効果が出る」
「そのへんは、はっきりとわかるのか?」
話を聞きつけて、殿様が問う。
「それぞれの仕事で、いろいろ物に念を込め、いろいろな作用をさせるというのは、誰しも経験しているので」
「もちろん、念は無限に込められるものではないから、数日から1年で切れちまいますし、たまにかけ損ないもあります。自分が思っていたより効果に長短があったりもします。仙術の力が高いほど、長く効力を持ちます」
「効果とかは、過剰に期待しないでくださいよ」
「佐藤さんの甲冑の護符と、甲野さんが神通力を込めてる鏃は、かなり期待していいと思いますがね」
佐藤さんは弟子の隆之介に手伝わせながら地付きの狐の式神で防壁を作る護符を描いている。甲野さんは、矢筒ごとに破魔の祝詞を唱え、神通力を鏃に降ろしている。
「ともあれ、できる範囲で最善を尽くしますよ」
「こういう戦の準備は、少しでも有利になることをやっておくことが大切でな。苦労をかけるが、よろしく頼む」
殿様は一旦、陣屋の奥の方へと、引っ込みかかった。すると、何か言い忘れたことを思い出したようだ。
「そうそう。かなり力も使っておるようだから、今日は特別に昼飯も出すぞ。兵や人足仕事の百姓にも昼飯の弁当を配るので、ついでと言っては何だが。精のつく珍味を用意させましたから、楽しみに」
殿様は、何やらいたずら小僧のような笑顔を浮かべて、立ち去っていった。