86 卯三つ(午前6時)変化 田上城内・おかつ
朝、夜が明けて半刻経っていない。障子戸の外から雀の声が聞こえる。朝、こんな間近に鳥の声を聞くなんて、すごい久しぶり。
「目が覚めました?」
「あら、あなた……」
そこには尼さんがいた。周防守の屋敷でわたしたちを封じ込めようとした連中の一人だった。
「和華っていうの。わたしたち、ご家老衆の下にいて、万が一のあなたたちの備えにって、お城に呼ばれていたものですから」
本当に透き通る声。綺麗。癒される……ああ、癒されるって普通の人みたい。玉藻姉さんに憑かれてから、そういう気持ちってなかったかも。
「じゃあ、あの時、あんたと一緒にいた術師たちも一緒?」
「3人は御殿の方にいますよ。ここは奥ですからね。わたしだけ御殿から渡ってますよ。わたしの伴侶のお坊さんなら大丈夫かと思ったら、それも拒否されちゃった」
「介抱してくれてたの?」
「というか、見張りよね。とりあえず、あなたたちがおいたをしていたお姫様をお救いするだけですまそうと思ったんだけど……状況がすっかりわかっているのは、わたしだけだから、安心していいわよ」
(やられたわねえ……)
そうつぶやく玉藻姉さんの存在が、わたしのなかで小さくなっている。立派な庭のある周防守の屋敷で、雀の声一つ聞こえなかったのは、きっと玉藻さんの妖気のせいだ。
(どうやら、こだまと同じ立場に格下げね。あなたに従うわよ。器も小さくなっちゃった…術を使える限界が早く来る。そう思って)
「わたしと玉藻姉さんを合わせた力と、おこうちゃんとこだまちゃんを合わせた力が同じくらいになった?」
「どうしたの? あたしたち。あれ? お姉さん? 何か変わった?」
[明神と空狐……やつらのせい?]
おこうちゃんとこだまも目を覚ました。こだまはすぐに、今の状態を察したらしい。
「空狐があなたのなかに留まってるのね、和華さん」
「ええ、物音に様子を見に来て、その時に、憑かれちゃった」
《明神様の命令……あんたたちを見張れってね》
[ちぇ、いっそ姫様に憑けば、お楽しみが増えて、よかったのに]
(霊力の大きさを見たら、こっちの尼さんがずっと上なんだし)
《それだけでもないの。この尼さんの声がね》
「そこまで、わたしの声って力があるんですか」
《試しに般若心経唱えてみて。この子たちがかわいいって思いながら》
「へ? いったい、どういうこと……」
おこうちゃんが訝しむそばから、和華さんが読経を始める。
力が抜けていく……いい意味で。余計な力みがなくなって、頭のなか余計なこと考えなくて。自然に身体がおこうちゃんに寄って、愛おしくなって、ぎゅーって抱きしめちゃう……おこうちゃんも、わたしに抱き着き返してくる。
《ああ、この二匹は、やっぱりすぐに艶っぽい方に行っちゃう》
(だって気持ちいいし……分身なんだし……)
[とろけちゃう]
「ふぅ……弱い子たちね」
(昨日までのわたしだったら、あなた生かしておかないけど……)
「だめ、お姉さん。この人殺したらだめ」
(どうして?)
「この人は、わたしたちを救ってくれそうな気がする」
(容赦しないで、みんな殺しちゃえばいいのよ。そうすれば、またわたしの力が増して恐いものなんてないの)
「恐いものは、今だってないわ。力はもっと欲しい。玉藻姉さんと一緒に、男たちを殺し尽くしたい。でもね、何か変なの」
(あーあ……また一戦場くらい殺戮しないと、わたしが主になるのは無理かしらねえ)
「おかつ姉さんみたいに考えたりするの面倒だよ。あたしは単純に気持ちいいのが好き……みんなも、この尼さんも、あたしを気持ち良くしてくれるから好き」
[わたしは単純に、おこうちゃんに従うってだけ……]
(この2人は、ただの色惚けね)
玉藻姉さんは苦笑している。純粋の憎悪の塊だと思っていた玉藻姉さんが、わたしたちとの交わりや人を恐怖させる以外で笑うことってあったかしら?
《和華さん……なんだか、あなたが一番のお姉さんになったみたいだよ》
「ふふふ……還俗しちゃおうかなぁ。この子たちがかわいくなってきちゃた。わたしの方が力がないのに。守ってあげたくなっちゃった」
《あなたも黒かったり、覚めてたりする部分があるから……単純な善人じゃないわね》
「ついこの間まで、お女郎だったし……あの世界に入ってきたばっかりの娘たちが、こんな感じ。気持ちいいことも含めて教えてあげたりしてたから……」
「お姉さんとも、交わりたい……」
「あたしも……こだまちゃんの尻尾、気持ちいいんだよ……」
「だーめ……それは、わたしの身体がもたないでしょ? こうやって、抱っこして、撫でてあげるだけでいいでしょ? かわいい、かわいい……」
この人の声は、本当にやばい……力関係で言えば、わたしと玉藻姉さんを合わせた力より、この人の力はかなり下。手籠めにしようとしたり、殺そうと思えば、すぐにもできる。玉藻さんは、そうしろって、頭の中で言い続けている。でも、「かわいい、かわいい」っていうこの人の声がすると、犯意のかけらも湧いてこない。
空狐の入ったこの人は、本当に温かい……抱き着きあってるわたしたちを、さらに抱いてくれて……すがりついちゅう。本当のお姉さん……。ううん……おっかあみたい?
真っ黒なはずの玉藻さんやこだまちゃんの心にもちょっとだけ明るいところができた……わたしたちが和華さんにすり寄ってると、2匹も狐じゃなくて、猫みたい……。