73 午一つ(午前11時)火消し 津山追補軍・安田淡路守時貞(地図)
「うーむ、この餅が焦げたような匂いは……兵糧が焼かれてますな」
「だが、木の焼けた匂いは強くない。この際、村そのものが焼き討ちを受けてなければよい」
今日1日は、この人の領主としての器量を試される日になる。わしとしても、直下の町奉行がこの愚挙に参加していたことが、未だに信じがたい。
周防守の屋敷で起こった火災の詮議をいい加減に済まそうとしたことを猪口に叱責しても、薄ら笑いを浮かべて、詫びの一つもなかった。その理由がこれだ。
それでも、2000の兵がさほど失われず、わずかな傷で戻って来れば良しなのだが、こればかりはわからない。
事前には、今日の郡境近辺には堀部の兵はないと密偵たちは伝えてきていた。
だが、状況は変わるかも知れない。最大の懸念は、これが敵の欺瞞だったら……。虚報に乗せられて、二千の兵の大半が破れ、大損害を負ってるのでは……ということだ。
「馬だけでも先行させますか?」
「いや、これで、敵が全力で森脇村付近まで出てきていれば、兵を分けると危ない。これ以上の兵力分散の愚は冒さん方がよかろうよ。物見は綿密に出すとしてもな」
この人の場合、将としての見識は悪くないし、経験も積んでいる。ただ、果断な時と優柔不断な時の落差が大きい。さらに人との接し方に無神経なところがあり、そこが「支えるに足る器」なのかと疑わせる。この二ヶ月の出来事はそれを重々思い知らせてくれた。
「実際、兵糧も各自の腰兵糧しかない。夜までに事態を掌握して、目処をつけ、城に取って返さねばならない」
「なかなか難儀なことでござるな」
ぼやきながらも旗本に的確な指示を出し、言った通り、綿密に物見を出している。
その物見の第一波が戻ってきている。
「森脇村には、堀部家次席家老の梶川勢がおります。旗印で確認」
「お味方は姿が見えません」
「燃えているのは宿営地に置かれた兵糧の俵、樽、荷車の類です。集落の建物に燃え移る心配はなさそうです」
「敵は騎馬ばかりで400ほど」
「引き続き村の周辺の様子を見張れ」
「はっ!」
向こうさんもこっちの接近は察しているはずだ。油断はできない。
「こちらの接近と数の優勢を見て、どう判断するかな?」
「梶川はただの猪武者ではないですから、全体は劣勢と見たら、ギリギリで退くでしょう」
「そうだろうな。火災が大きくなるのでなければ、こっちとしても無理に急ぐ必要はあるまい」
「ただ、氷室郡内に入った軍勢が心配です」
「うむ」
馬上で相談したことについての波長はぴったり合う。だが、正しい認識から正しい決定が迅速に出るとは限らないのが、この人である。
そうしているうちに、今度は国境まで出した物見が続々と戻って報告する。
「氷室郡内に入った味方の軍勢の行方、まったくわかりません」
「軍境の中山道沿いは、堀部家の旗指物に埋め尽くされています」
「郡境の堀部家軍勢、およそ千五百」
「梶川勢の騎馬四百、郡境に向けて退きます」
御館様がつぶやいた。
「二千の兵が溶けて消えたか」
「お待ちください。全滅というのは、少々早計では?」
「がら空きのはずの国境に、現実に敵の六割方の兵がいて、こちらの二千もの兵が行方知れずというのは、してやられたということだろう。あろうことか、一門衆が壊滅だ」
そのとおりなのだが、今ここで口にしなくてもいいだろう。
頭の回転は悪くない……だが、あからさますぎるのは、周囲の士気に関わる。
今は森脇村北西部の集落に入ったところだ。中山道沿いにある休耕地で、樽と俵が盛大に燃えていた。抜け駆けしたやつらの野営地がここだったのだろう。
「そこに仮の陣を置こう。兵を三つに割り、各所の火災を消し止めさせよう」
御館様は三人の旗本の頭を呼び、三百ずつ兵を割り振っって、村内の消火活動に向かわせた。
「村民が抜け駆けの軍勢から略奪・狼藉を受けていないか、それとなく確認せよ」
実際のところ、消火活動だけでなく、この確認も大きい。略奪や狼藉があるならば、それなりの慰撫もせねば、年貢の徴集にも響いてしまう。
手元に残った百人のうち、三十ほどは物見に使っており、残りの三十が陣幕の設営を。四十が目の前の火災を消し止めにかかる。
堀部陣営の梶川勢は、報告通りに後退し、村に再びやって来る気配はなさそうだ。郡境の兵も、越境するならば梶川勢を退かせることもなかっただろう。戦況としては一旦手詰まりというわけだが、困ったことに、こちらの兵糧が続かない。城で炊き出しして持たせた弁当は今日の夕方分までであり、明日の朝まで持たせることは難しい。
「しばらくは待ちだ。村内の様子と境の堀部陣営の動きと……あとは我が軍勢の残存状況の把握じゃな」
何人かの町人風体の物見……まあ、正直、密偵だが……を間道で氷室郡内にも送り出した。ただ、この御館様は、情勢が明らかになると、それで混乱し、優柔不断の虫が置きかねない。面倒がおきなけばよいのだが……。