55 津山家一門衆筆頭・津山弾正少弼為景の楽観
8月25日
「周防守様からの使い番が参上しました」
「通せ」
当家は既に臨戦態勢であり、わしも、広間に集まった当家の諸将も、具足姿である。明日にはこの領地を出発し、抜け駆けする謀反軍の集結地である森脇村を目指す。当家の兵は500、謀反軍全軍で約2000の兵力になる。
ただし、この謀反軍の重要な後備えを担う、一門の周防守の屋敷が大変なことになったようだ。
「恐れ入ります。急使ゆえ、口上にての報告をお許しください」
「苦しゅうない申せ」
軍議の場である広間に面した庭先に周防守の使者は片膝を突き、報告を始めた。
「はっ。21日の未明に、我が主、周防守の田上城下屋敷が火災にて全焼いたしました。原因は不明。生存した奉公人1人が、22日の夜中に熊川村に到着し報告。それよりやや遅れて、町奉行様よりの現場確保・保護の報告。さらに遅れて、御館様・御家老衆よりの問責の使いも到着し、即時の田上城への出頭と事態への対処を求められました」
「して、周防守はいかがするつもりじゃ」
「屋敷の焼失にて兵糧の一部は失われたものの、将兵はすべて熊川村にて準備中。また、現場はすべて町奉行様の掌握するところで、今回の抜け駆けが漏れる気遣いはないとの由。弾正少弼様におかれては、粛々と戦のご準備を進められたいとのことにござりまする」
「よろしい。28日までの動きはどうなるか、申していたか?」
「はっ。城には28日に参上するとの返書を昨日発してございますので、城側に動きがあるとすれば28日以降になるかと。27日に熊川村を出立し、途中一泊野営。森際の間道を通って、予定通りに27日午後、森脇村に到着とのことでございます」
「わかった。この者に食事と水と休息を取らせよ」
いったい留守居の奉公人や女中は何をして火事など起こしたのか? 周防守は側室を置いたばかりで、本当は気が気でなかろうが、さすがに一廉の武将であり、出兵に微塵の影響も出ないようだ。
「兵糧は心配でござるな。いくらかは城下で調達し、別に動かすという話を聞いておりましたゆえに」
「心配するな。それくらいは何とかするじゃろう。抜け駆けが成功し、堀部の連中が建設していたという郡境の砦さえ押さえれば、そこでも兵糧は手に入るしな」
そもそもが、森脇村までの2日分と氷川郡内に入っての1日分あれば、まったく問題はない。郡境の砦、四方村、氷室城下の各所で、兵糧は現地調達できる。29日の行動は腰兵糧があれば充分。まして堀部勢に一勝すれば、我らこそが正しく、御館様と家老も兵糧を差し出してくる。
地図を改めて見る。普通なら、郡境の砦は厄介な存在だ。森の中にあり、細い軍道が付けられているが、大軍で攻めるのは難しい。これを無視して、中山道を南下すれば、この砦の軍勢が側面や背面を突いてくる。
だが、我らが9月1日に郡境を越えると、堀部家の連中は信じておるから、28から30日に、各所の兵は氷室城下に集まっている。
「当日も物見を出して、本当に砦が空なら、砦を押さえてしまえばよい訳ですな。ここまでの物見の報告では、建設途上でも、兵糧は軍勢のためにも運び混まれているようですから、それでいささかは、我が方も助かりますし」
「うむ、それですぐに四方村を押さえればよい。朝方にそこまでやって、午後には城下を急襲して、焼き討ちを仕掛け、閲兵とやらをやろうとしている堀部勢に一撃加えればいい」
息子や家臣どもと、改めて当日の動きを確認する。
家老たちに対する一門の意地……たった数日、出兵の日を前倒しにするのかどうかが争点であり、どちらを採っても勝ち目はこちらにある。どちらが易きに勝てるかは、敵がある故に未定であるが、どちらも完敗する要素はない。
だが、それだからこそ、家中の政争にも蹴りをつける良い機会である。
先代の御館の時代には、家老衆と一門衆の均衡は取れていた。家老の筆頭の備後守は軍事、一門筆頭のわしは政事と、権限は別れていた。わしが政の全体を束ね、家老とその都度都度に置く副奉行が、実務を行う。小さな国衆の家など、そうした形でよいのだ。だが、備後の戦での実績が大きくなると、家老どもの政の権限が大きくなり、わしから権限が奪われた。
先代が亡くなれば、その流れが止められるかと思えば、若い普代衆が台頭した。備後が巌とした壁となっていたが、御館様と若い普代が備後に挑むという政の図式に、わしら一門の老臣が取り残されたのだ。
一門で若い当主は周防守のみで、流れの取り返しはつかなかった。この数年はわしも息子に家督を譲って、隠居することも考えた。ただ……息子の実力はどうしても、家老や奉行に見劣った。このまま、家督を譲っても、一門衆の没落を招きかねない。最後に起死回生の手を求めていたら、かくの如き機会に恵まれたのだ。
勝つための手はずは整っており、短時日でその成果は手に入る。周防守の屋敷の火事など、心配するまでもない。