51 田上城下の諏訪神社神主・鴫沢辰之進の結界
8月21日
「九尾の狐が怖いと言っても、やっぱり普通の人にはわかってもらえない」
一昨日の夜、氷室城下に住む陰陽師の佐藤さんがやってきて仰った。佐藤さんは田上城下にも、お客がいるのか、月に2、3日、出向いてきており、一昨日もついでになって済まないと言いながら、私と和同のところに出向いてくださり、九尾の狐に関して、ひどく心配されていた。
2年前に城下の大店の主人が病に倒れ、大騒ぎになった時に、私と和同と知り合った。どうやら栗原さんとも以前からの知り合いで、気安く挨拶をする仲だった。お城にお得先がいて、その縁で栗原さんとも懇意だとか。
とはいえ、佐藤さんが持ってきた話が大き過ぎて困惑する。津山家と堀部家が戦をするというのだ。私と和同と和華さんは呆気に取られ、栗原さんはやっぱりという顔をしていた。
実際、佐藤さんもいろいろな堀部家とつながりがあるため、敵方になる田上城下にはもはや出入りが難しく、現時点でも町を出るまでが危うい……という話で、夜のうちに神社と寺の畑の方から、逃げるように立ち去った。
「効果はどれほどあるかはわからないが、何かしら九尾の狐を封じ込めることをしたほうが良いだろう」
佐藤さんが帰った翌朝に4人で話し合った結論がそれだった。以前、御家老の柴田様には4人で会って、いつでも九尾の狐を留める行動に出るとの意志は伝えたのだが……。戦の準備に忙しいとは、さすがにお侍だ。
ともあれ、周防守様のお屋敷に結界を張り、九尾の狐を封じ込める。久保多村に割れた大小の殺生石として埋もれていて、巨石が生む結界で封じられていたのだ。巨石に代わるものを使い、屋敷を封じれば……
「諏訪大社のあれは結界だよな? 御柱と言ったか?」
「あれは公式には御宝殿の一部で、御宝殿の式年遷宮をする際に立て直すことになっている。しかし、大社の祭礼が特殊なのは承知の通りだ。国津神であり、武神である建見名方神と、地元の土着神であるミシャグチ様を封ずるという性質が様々なところに見て取れる。御柱も結界で、それを張り直さねばならんのだという伝もあるにはあるからな。周辺の集落の分社の御柱も立て直すくらいだ。この地方の諏訪神社ではやらんがね」
「ふむ……寺と神社に神木級の木はあるだろうか」
周防守様の屋敷の敷地は俯瞰するとほぼ真四角で、塀に囲われている。その外の四隅に、それぞれご神木を打ち込む。そして、正門前で建見名方神を降ろして塀の周囲に神通力による結界を形成する。
「不安は、神を降ろす私の力だな」
「私の占術は、私一人の力でしかないので、お話になりませんよ」
「自分の法力も直接当てるようなものだし、強さという点ではご同様」
「わたしの力は強いのかもしれませんが、修行を始めたばかりです」
「結局、封ずる力があるとしたら、建見名方神のお力しかありません」
九尾の狐が屋敷外に出られなくなれば儲けもの……といったところだった。
早速、神社の敷地内で、最も樹齢が長そうで、最も霊力のあった木の大枝を4本切り落とし、杭状に形を整えた。これを「御柱」として、屋敷の塀の角の外に突き立てるのだ。
人目に付きにくく、闇夜の恐怖が薄い、日の出ぎりぎりの時刻。杭と大木槌を荷車に載せ、私、栗原さん、和同、和華さんに、それぞれ弟子の僧と神官が付き、御神木の打ち込みを始めるつもりで神社を出発した。
幸い、周防守様の屋敷にほとんど残っていない。「こーん」という木槌で大枝を打ち込むが、時刻も時刻で、誰も咎める者はいない。まだ夜が明け切らないうちに4本の「御柱」は立て終わった。
「では、始めるか」
「頼むぞ」
三人と弟子たち三人が、私の周囲を囲み、宗派や術式を超えて、護法として定着した九字を切る。
「臨・兵・闘・者・開・陳・烈・在・前」
こうして唱え続けられる九字護法に霊的に守られ、特に、真後ろの和華さんの美しい声は、屋敷から漏れる邪気・瘴気を明らかに遠ざける。その中で、これまでなかったほどに気を集中させた私は、幣を振るい、祝詞を詠み始める。
「畏きも建御名方神の御前に申す。我は御神霊の招を為す者として、世に仇なす大妖、九尾の狐、玉藻前の潜みに隠るる場に、まみえたり。悪しき瘴気を発し、人々を惑わし殺め、国を傾けたる妖怪を、この場に封ずる結界を張らしめ、この場にて閉じ込め、立ち朽ちるまで留めオ置かんことを、御大神の力を貸し給へと請い祈願申し給う。ついては、四つの御柱に、御大神の力を招き、禍わざわいと穢けがれを浄め祓い、この屋敷の内に大妖を押し止めんために、神の業を成し給へと畏み申し上げる」
4本の柱に神の力が降り、見えない注連縄で柱をつなぎ、屋敷を包んでいく。自分の念ずる通りに、神の力が駆ける。そして、結界は、あっさりと完成したはずだった。
「ふぅ……できたはずだ」
私が息をつき、体を自然体に戻すと、皆も九字を切るのをやめて、棒立ちになり、安堵の表情を浮かべた。だが……
ドンっ!!
門扉が内側からいきなり膨らみ、破裂する音ともに砕け、弾けるように左右に跳ばされた。重く分厚いはずの扉が、懐紙のように、びりびりにされている。
これは……結界がなければ、門扉を火球が一瞬で突き破り、私たちは避ける間もなく、炭と化していたのだろう。
門の内側には、見目麗しい若衆姿のような小姓が二人立っていた。だが、年上の方から出た言葉と声質は、古老のような迫力があった。
「ふん、たかが人間どもがどれだけやるかと思えば。だが、まだまだ未熟だな」
「やばい……何でもいい、身を守る術を!」
「喝」
「喝」
「神の御業で守らせ給え」
栗原さんが占術で物理的な力を止める壁を作り、和同と和華さんが気により妖術を防ぐ壁を重ね、やや遅れて、小結界を私が張る。
だが、それらの壁が張られる前に、三本の毛むくじゃらの腕のようなものが電光石火で伸びてきて、それぞれ三人の弟子の首を捕まえて、体を持ち上げる。
「結界を突き抜けただと?」
「うぉぉ、くそっ、尻尾が締め上げられる……だが……」
四人が防壁を作るすんでのところで、九尾の狐の動きの速い方の尻尾が三本、誰の力が弱いかを見切って、弟子たちを襲ってしまった。
高所に持ち上げられ、手の施しようがないのを見せつけられながら、声も出せずに首を締め上げられる。手足をただばたつかせるだけで、恐怖と苦しさに顔を歪ませて……不意に三人の手足の動きが止まり……挙げ句に首が切断されて、三人の頭と体が別々に落ちてきた。
「いやーーーっ」
こうした修羅場は初めての和華さんが悲鳴を挙げ、せっかく張った防壁から飛び出しかねない。和同が慌てて背後から和華さんの体を抱きとめて、その場に無理矢理座らせるように押さえつける。
「玉藻さんの器が広がったのはいいけど、この結界は厄介だわ。どれだけ、生気を奪われるかわかったもんじゃないわ」
「ねえ、おかつ姉さん……あたしを気持ちよくして……からからになるまで吸い上げていいよ」
話し言葉からすると、男装した女だ、こいつら。
「くそっ……和華さんがその調子だと、守るのが精一杯だと思うが……」
「いや、栗原さん。じわじわ退こう。どうやらこの結界は、あいつらの力を奪うみたいだ。突破して来ないのは、それをやると俺たちの防壁を破れないんだよ。体ごとの突破は、相当に力が奪われるとみた。今のうち、各自の防壁を維持したまま、距離を取ろう。和華さんを守らないと」
「わかった。和同さん、和華さんを引きずって下がれるか?」
「大丈夫だ」
二人も、結界を破っての私たちへの攻撃を断念したようだ。
「いいわ。惜しいけど、当面の生気は、女中の六人からいただきましょう。玉藻さんと一緒になった振り出しに戻っちゃうけど、器は広がってるし、おこうちゃん……あなたがいればね」
二人は艶かしく身体を寄せ合うと、振り向いて屋敷の中へと戻る。
私たちは、とにかく彼女たちから遠ざかることに必死だった。
すると、私たちから見て、右奥の方の屋敷の角で、猛烈で巨大な火球が生まれ、凄まじい破裂音と風が、私たちを襲った。
どうやら、御神木の一本と塀を、相当の力を使って吹き飛ばしたようだ。おかげで、完全に結界が消え去った。
「助かったのか?」
「多分。狐ともう一人の女の妖気がひどく小さくなった。あぁ、遠ざかる」
和同がほっとし、和華さんを抱きしめる。和華さんも、一応は落ち着いているようだ。
「やばいな。屋敷が火事になっている」
「消し止めるような技はありませんか?」
「ちょっと無理だな」
「それより、このまま城に向かった方がいいだろう」
「町方に会う前に、御家老衆か寺社奉行……最悪、郡奉行や作事奉行でもいい……庇護してもらった方がいいな」
「ああ、三人のお弟子さんの惨殺体と周防守様の屋敷の焼失……町方に身柄を押さえられたら、ちょっと厄介でしょうね」
「裏道を通っていこう」
「さあ、和華、おぶさって」
「はい」
落ち着いたとはいえ、茫然自失に近い和華さんを和同が背負い、私たちはトボトボと歩き出した。神を降ろした結界のおかげで、九尾の狐は対決を避けて逃げてくれたが……圧倒的な実力差を見せつけられてしまった。敗北感いっぱいである。