39 田上郡郡奉行・山科左京太夫暁家の心変わり
8月9日
次席家老の飛騨守殿の屋敷に呼ばれたた時には、8月に入ってから散々聞かされた繰り返しだろうと思った。つまりは、出兵取りやめの立場に立つのではなく、9月1日の出兵に賛成しろという説得だ。
だが、酒を飲み始めて始まったのは、あらぬ話だった。
「久保多村の件は本当にご苦労じゃったな」
「いえ、村の復興とくれば、郡奉行の本来の役目なれば」
「とは言え、流石に九尾の狐の如き大妖が絡むとは思わなかったろう?」
「それは確かに。鴫沢殿と和同殿の二人揃って大真面目、神妙な顔つきで『人外のものの仕業』だと言われてしまいまして……」
「お主と作事奉行は、九尾の狐を探し出し、田上郡内から放逐すべしということだよな。戦は後回しで」
「左様です」
「家内に狐が食い込んでいたらどうする?」
「は? 津山家にですか?」
「よりにもよって御一門だ」
「ええ?」
「物証というのはないんだがな。仙術師に内偵してもらい、その結果が周防守様の屋敷が怪しいそうだ」
「物証がないというのなら、にわかに認められませんが……」
周防守様は、一門の勇将で200石取り。攻勢の先鋒を賜わることが多い。最近は、出兵の前倒しを主張して、一門を扇動するがごとくだ。そのせいで内匠頭様と激しく対立している。
「だが、正直、このままだと、次の軍議で出兵が28日に前倒しになる見通しだ。人足の調達が回復するのは、やはり1日からだ。ところが、周防守様と来たら腰兵糧だけで済むとか抜かしよる」
皮肉屋の内匠頭様、直情的な淡路守様に挟まれ、丸いだけと思われがちなこの方の言葉に、毒気がこもるのは珍しい。
「当初の通りの出兵に賛成せよとは言わん。お主に知っておいてもらいたいことが2つあってな」
「何事ですか」
「まず、周防守の幼稚さだ。一昨日、淡路守が10人ばかりの野盗に襲撃されたそうだ」
「それは野盗が気の毒で」
「そうだ。近在の分別のある侍なら、淡路守に手を出そうなどと思わんよな。当然、蹴散らされ、生け捕られたやつがいる。分別のない野盗が拷問され、誰の差し金と答えたか?」
「周防守様ですか?」
「俺さ」
自分で言ってすぐに飛騨守様が吹き出して、抱腹絶倒で笑いこけた。その開けっぴろげな様子に、2人のできるご家老の影に隠れて周囲を整えるという、この人の本質に触れたような気がした。
「馬鹿だろ。策師めいたことをやったつもりなんだろうが……。離間策のつもりだぞ」
「ああ、敢えて捕まることを見越して……」
「俺が2人に競争心を持っていると思い込んでるんだ。我ら家老3人を皮相にしか見ていないんだよ。で、凡庸な俺には、強壮な権左を討つ理由があると思ってる。そんな人を見る目のないやつの策は用いるに足らずだ」
あの淡路守様を初名で呼び捨てにする……そういう仲と理解せずに、浅い陰謀を巡らせるか。確かに、駄目だ。
「なるほど、もう一つは?」
「九尾の狐が戦を望んでいる」
「なぜ?」
「恐怖が狐の好物だというのさ。恐怖を感ずる魂を喰らうと、狐の妖力の器が広がるのだとよ」
「なるほど……それがなぜ?」
「お主は勇者だな。戦場が怖くないのだな?」
「あ……」
「恐怖する魂だらけだ、戦場は。わしはそう思う。大声を張り上げるのも、勝った時の高揚も、怖さの反動だろ。わしは恐い。内匠頭が策を巡らすのも、淡路守が槍の腕前を磨き抜くのも、恐さを感じていて克服するためだ」
「一戦終えると、もう狐の妖力は……」
「村を全滅したどころで済まんだろ。そこへ、周防守様のごとき人が城下町の焼き討ち・略奪でも兵を唆したりしてみろ」
「御伽草紙だと、統率の取れた武士の騎射に、狐は討たれますよね。恐怖を乗り越え立ち向かう魂には弱いのかもしれないですな」
「だが、いろいろと怪しい技も持っているわけだろう。立ち向かう前に絶命者が山をなすわけだ」
私はあの村の惨状を思い出した。戦場をあのようにして力の復活を目論もうというのか。
「お主と作事奉行と寺社奉行が、九尾の狐対策が先だというのは構わんよ。だが、そのまま評決に付されると、一門4人と奉行2人が出兵前倒しに賛成で最大になる。わしら3人と勘定奉行にお主ら3人が味方してくれれば、当初案通りが多数派になる」
「一門派と家老派の対決になりますが、いいですか? 家中が揉めてるという印象が強すぎませんか?」
「だか、このくらい豪腕でまとめきらないと御館様に未来はない、家老衆としては、揺らがないで欲しいという意志も込めてるんだ」
相手が内匠頭様なら言いくるめられたと思ったろうし、淡路守様なら脅されたと思ったろう。だが、この人と話をした結果の心変わりなら、ちゃんと説得されたのだ……という感がある。
「わかり申した。でも、軍議の冒頭ではまずは出兵取り止めで論陣を張りますよ」
「ありがたい。ぎりぎりで任務完了だ」
「当然、説得した相手はそれがしだけではないのですね?」
「一昨日が寺社奉行、昨日が作事奉行……寺社奉行は納得しなかったのだが、一昨日の夜の出来事を昨日の昼に伝えて、まあなんとか」
「ご苦労様でした。根回しというものを勉強させられた気分です」
「おだてても、何も出ないぞ」
飛騨守様は煽るように杯の酒を飲み干す。
「九尾の狐のことは、仙術師はどうやって知ったので?」
「先一昨日、西福寺の尼僧の和華殿が、周防守様の屋敷から変な気を感ずると話していたのを、探索を頼んでいた仙術師が聞き込んでな。2人で確認しに言ったら、妖気で地に穴が開くが如しだそうだ。仙術師が気の見方を伝授したら、和華殿は瘴気に当たったように倒れそうだったとか」
「なるほど、そうですか。周防守様自身が、憑依されてるわけではござらんのですよね」
「そう。寺社奉行も悩んでおるよ。自分に神社仏閣は統制できても、妖怪のいる一門の屋敷の取り締まりの権限はないとか言ってな」
「そう言えば、しとしと雨が降ってますが、妖怪が湿っぽく呪ってますかな?」
「家中の者として上手く決着できないなら、一介の侍とか、ただの人として、何とかするしかないのかな? まあ、すべては明日の軍議しだいだが」
飛騨守様の顔には、一仕事を終えた安堵感が滲んでいた。