03 国衆の家老の惣領・ 安田弥右衛門時貞の反意
7月3日
わしは家老の安田備後守の長男で、安田家の惣領、安田弥右衛門時貞である。一昨日の夜、思いもよらず、御館様からの密書をもらった。
内容は心を乱すものであった。御館様が氷室郡への出兵を決意し、その実行のために親父を排除しようというのだ。
「備後守を斬るか幽閉し、おぬしが安田家の当主に立つべし。10日の軍議までに当主交代の儀果たさば、100石加増を約する。覚悟あらば、明後日未の刻に閑庵にて待つ」
閑庵は城の二の丸にある書院造りの庵で、詫びた風情を取り入れたという御館様自慢の茶室がある。自分のような武辺一徹には茶の湯などよくわからないが、お館様が密談をする場合に、そこを好んで使っていた。
父を手にかける……想像するだけでも恐ろしい。だが、わしも40を目前にして、あの老体がいつまでも第一線にいることが許しがたくなっていた。実績もあり、意志も強い老将が頑迷さゆえに若い者を抑え込む風があったのだ。特に次席家老で、わしの竹馬の友でもある柴田内匠頭頼信など、親父と取っ組み合いになりかかったことが一切ならずある。内匠頭は冷静で軍師肌の男だが、奴が怒気を発しながら親父に詰め寄る姿を目の当たりにして、むしろ親父の暴虐に申し訳ない気持ちになったものだ。
そんなことをあれこれ考えながら閑庵の前に人目を気にしながら行くと、その内匠頭の姿があった。
「よぅ」
「お主もか」
口も達者なこいつがいれば、気づまりにならずに済む。
わしや内匠頭をはじめ、実務を取り仕切る者は、この数年で御館様からわしらの世代にかけての者が増えた。親父・備後守が隠居するなり、亡くなるなりすれば、我らの世代が自然と家中を司る。
庵の内から入り口の戸が開く。
顔を出したのは御館様で、実ににこやかな笑顔を浮かべている。
「さあ2人とも中へ。誰かにここへ来ることを漏らしたり、あとをつけられたりしておらんだろうな」
この言葉でけっこうカチンときたのだが、あながち自分の短気ばかりでもない。内匠頭も一瞬、ムッとしたからだ。そこまで油断するものか。どうもこの御仁には人を苛立たせる何かがある。わざわざ言うまでもないことだ。
柔和な雰囲気で迎えようというのだろうが、笑顔も軽すぎる。「そういうお主はどうなのじゃ」と主君でなければ突っ込むところだ。
しかし、2人とも分別盛りを迎えようという年だ。怒るわけにもいかない。
「その辺に抜かりはございません」
「いただいた書状の内容も内容でござりますから……」
「まあ、まずは一服……」
御館様自ら茶を点てながら、密議は始まった。
「わしは氷室郡に攻め入ることに決めた。一門の了解は取れそうだが、備後が首を縦に振らん。そこで、両名に出した書状の儀じゃ」
「父を簡単に幽閉などできませぬ。それがし以外の家臣は父の武芸と魂魄に圧倒されてしまうでしょう。それがしと1対1で渡り合うことになります。五分の勝負はできますが、勝てるとはお約束できません。最初から謀殺した方がましでしょう」
「だが、備後殿は用心深い。生半可な謀では歯が立つまい」
内匠頭は、あえて御館様にではなく、気楽な調子でわしに話しかける。気負わず、冷静に論理的に話の流れを自分の想定に持っていこうというのだろう。
「安田家の中だけでは片づけられんか……」
御館様はつぶやきとともに、薄茶の入った茶碗を内匠頭の前に置く。
「備後殿と弥右衛門は、武芸において津山家中の双璧ですから。弥右衛門が仕損じたら、備後殿の出方一つで御家が崩壊しますな。氷室郡に出兵どころではありませんぞ」
言い終えると、内匠頭は茶碗に口をつけ、懐紙で縁を拭くと、わしの前に置く。
書状で見ているせいか、内匠頭は氷室郡に出兵することを自然に受け止めており、それはわしも同様だった。津山家を一国衆で終わらせるわけにはいかない。関東管領に、古河公方に、扇谷上杉、さらには南から攻め上がってきている北条家に……。大きな勢力に翻弄されるのではなく、武蔵国で一定の領地を得なければならない。
「酒でも飲ませて、寝首を掻きますか」
不名誉過ぎてできないことをわしは口にし、そして茶碗を手に取り、敢えて酒をあおるがごとくに茶を飲み込んだ。
「まあ待て」
「御館様、この件、それがしにお預けくださいませんか?」
「内匠頭には、何か妙案があるのか?」
「使ってみたい男がおります。最近、当家に客分として迎えた呪い師なのですが」
「信用できるのか?」
御館様とわしの問いがまったく重なってしまい、三人とも思わず失笑してしまう。
「もちろんでござる。奇妙な手づまを使う男でしてな」
「親父殺るのなら、そういう技を使える者の方が向いているかもしれない」
「そうじゃろ。明日の朝、暇は作れるか?」
「ああ、大丈夫だ」
「引き合わせるゆえ、明日の辰の刻に我が屋敷へ。策もそこで練ろう」
「承知」
「それでは、よろしく頼むぞ」
御館様には気配りの足りないところはあるが、頭はそれなりに回るし、戦での働きも決して悪くない。この件をわしら2人に任せられるのなら、度量もまずまずだ。
内匠頭の査定も同じらしく、安堵の笑顔を浮かべていた。