34 国衆・堀部掃部介忠久の情報網の痛手
8月4日
昼日中から、戦奉行が勘解由同伴で、石の間で目通りとはどういうことかと思い、中に入れば、三人がすでに着座していた。右の勘解由も左の和泉守も渋い面で茶を啜っている。余の正面には、町人の男が、茶碗と囲炉裏を前に平伏している。
「面を上げろ。勿体つけずに、話して良いぞ。この慌ただしさは、悪い報せじゃな」
「田上城下で信濃屋を営んでいた伍助の息子、亮介にございます。父が死に、信濃屋は田上城の町奉行の手の者に改められ、店の者はしょっぴかれました」
これはさすがに厳しい。9月1日という出兵開始予定日を変えられた時に、それを一番的確に報せてくれそうだったのが伍助だけだっただけに。肺腑を強打されたような息苦しさを感じた。
「どうしてばれた?」
絞り出すような声だったろう。
「津山の一門の周防守の屋敷に忍び込んだのです。周防守の屋敷に2人で注文を取りに行ったら、厨房の様子がおかしい。女中が1人しかいなくてぼーっとしている。それで庭から屋敷内の様子を見てみようと、厨房の方から奥屋敷の方に出ました。自分は縁側の廊下の縁の下、親父は茂みに身を隠しながら、様子をうかがっておりましたら、親父は奥屋敷にいた妾らしい女にとっ捕まったのです。とっ捕まったというのも変な話で、親父の身体は見えない力で引き伸ばされ……それで、もう一人の女も出てきて……どうしたものか、そこで責め苦を受けて殺されました。そして……そして……池の上に見えない力で持ち上げられ……あげくに……身体を……引きちぎられて……うっ……くっ……うう……」
「辛いことを思い出させたな」
「いえ……いえ……うっく……」
「茶でも飲んで、息を整えてくれ……まるで物の怪にでも遭ったようじゃな。お前はよく逃げ延びたな」
「……ひっく……ありがとうございます」
「どうやって逃れた?」
「父が殺されたのは先月の二十八日。縁の下でそれをただ眺めるしかなく、一刻ほど気を失っておりました。目を覚ますと、すぐに屋敷を離れ、信濃屋に直ちに改めが入るものと思い、城下に用意しておいた潜伏用の長屋に入りました。それから信濃屋の様子を見てから、こちらに戻ろうと。でも、信濃屋にすぐに改めは入りませんでした。それで、番頭に逃げるように伝え、証拠隠滅もしようと思ったのですが……店に向かったら、ついに改めが入り、騒ぎになっているという辻での噂だったので、城下から逃げ出しました。まず西に向かい、新井川沿いに戻ったので時間がかかりました」
こいつは頭が回る。自分の裏切りが伍助の死を招いたのではないと粗大漏らさず伝えるために言葉を尽くしている。俺が疑いを持って質問……というよりも尋問することを見透かしている。
「それにしても、伍助を捕まえた女って何者なんだろうな」
「申し訳ありません。それを説明しようとするには、私の見聞は狭いですし、酒席の与太ならばいくらでも語りますが……皆様へのご報告ですから、見たままを申し上げるのみです」
「ご苦労だったな。士分に戻す。旗本・十石扶持とするゆえに、田上城下の事情を余や和泉に教えてくれ。侍としての姓名は?」
「はっ。新庄亮介為好です。」
「いったい何だと思う? ぶっちゃけの意見で構わない」
「だいだらぽっちや九尾の狐などの妖怪や、平将門みたいな怨霊かと思います。池の上空に浮いた状態で引きちぎられた……と申し上げたのは、比喩でも何でもありません。文字通りに、紙や布を引き裂いたみたいにされたんです」
「周防守は将としては無能だが、武勇はある男で、100人は兵を出してくるでしょう。その上、そんな化物まで戦場に出してきたら面倒ですな」
「城下から他の密偵が、久保多村の件を伝えてきていませんか?」
亮介の言葉に和泉が台帳をめくると、先月の二十二日の報告の書き付けに、「久保多村が全滅したという噂あり」とのくだりを見つけた。
「噂話は聞きつけていたのですが、気に留めておらなかったのです。でも、村を壊滅させるような怪異と結びつくなら、何か関係があるやもしれません」
「和泉、こっちから書状を出して欲しい情報を指定できんのかな?」
「危険ですが……出してみる価値はありそうですな。渡りをつけてみます」
「寺社に動きがあるかもしれん」
「常念宗西福寺と諏訪神社が隣り合っておりまして。何かあれば、城に便利に使われておりました」
「どちらの寺社も、規模は小さいが領内にもある。わしから寺社奉行を通じて、神主、住職に聞いておこう」
「あとは 、何にしても、奴らは出兵してくるな?」
「周防守が出兵を早めろと仰るようにはなっていましたが、出兵をやめろとの声は、どこからも耳には入っていません」
台帳をめくっていた和泉も、こくこく頷いていた。数日から十日出兵が早まることは予測のうちだ。
「勘解由、和泉、一日の閲兵行列な、貼り紙でも作って、もっとお祭り騒ぎにしよう。向こうの密偵の連中が、勘違いな話を向こうの城に流すようにしていくんだ」
「はて? あれは、兵種統一の確認で行うのだし、あれで気勢を上げて、そのまま出撃するのですよね?」
「ああ、そういうものだったが、いろいろ状況は変わっておる。奴らが出兵を早める気なら、こっちが気づいていない振りをするのよ」
「なるほど、そいつは面白いですな」
「あと、町奉行配下で、津山家の密偵を把握してる者はおらんかな?」
「いると思います」
「8月28日くらいから9月1日は、郡境は空っぽだという虚報を流すのよ」
「それはいい考えでござる。敵の行動は早まりこそすれ、遅くなることはありませんね」
「だが、余とて、今は連中の正確な出兵日を知ることはできない。密偵の態勢を整えなおさねばならんな」
重要な密偵やつなぎ役の名をいくつか思い出しながら、どこからが最も効果的に敵情を暴けるか、しばし思案したが……密偵のつなぎ役の男と顔の広さを思い出した。
そして、和泉からつなぎ役の台帳を受け取る。
「この男に、今月は早めに田上城下に行ってもらえんかな?」
名前に憶えがあり、使えそうな男の名を指さして和泉に命じた。