13 氷川城下から久保多村まで・おかつの逃亡劇と失敗【ダウングレード】
R18では久保多村の男の視点からのストーリーでしたが、おかつの逃亡の様子を中心に話を変更しました
7月13日
「さっさと逃げちまいな」
大津屋の離れ。旦那に折檻され、顔を腫らしたおとみさんの面倒を、わたしは看ていた。体にも痣をたくさん作られてかわいそう。水で濡らした手ぬぐいで熱を冷ましてやるくらいしかできない。
越後屋さんの別宅にはたいそう評判の良いお医者がいるという。診せてあげたい。長屋のいい加減な女たらしの医者もどきとは全然違うはずだ。
そんな風に思いながら、おとみさんの枕元に座っていた私に、番頭の佐吉さんが声をかけてきた。
「逃げるって、わたしが? どうして?」
「女将さん、全部お前のせいにしてる。お前が長屋の医者と組んで、女将をはめたって。不義密通のことで脅して、お金をせびるためだったってさ」
わたしは悟った。3日前、おとみさんはわたしを置いて出かけて行った。多分、建吉というあの医者もどきに金を渡すためだったのだろう。そして、昨夜、おとみさんはいきなり、こんな体にされたのだ。きっと建吉が脅しをかけてきて、折檻されたんだ。そして、わたしを売った。旦那のわたしを見る目がいやらしかったのを思い出す。
「旦那は、お前の証文を女郎屋に持っていったぜ。多分、証文を売り払ったんだ。女郎屋の用心棒どもがお前を連れに来る。女郎屋で何されるかわかったもんじゃねえぞ」
「信じられない……」
「これを持って逃げな。お前は頭がいい。田上城下か、河越城下に逃げちまえよ。大きい町で、お前の器量なら生き抜いていける。大丈夫だ」
佐吉さんは、自分の財布をわたしに持たせ、手を引いて外へと連れ出そうとする。
考えている暇はない。東の木戸口から外に出て、この城下からできるだけ離れるしかない。佐吉さんの財布以外、何も持たない、文字通りの身一つだ。
まだ辰一つ(午前七時)。北の田上に向かおう。河越は北条との戦つづきで物騒だ。田上城下まで10里(40km)。1刻(2時間)で2里くらいは歩けると思う。
とにかく、しばらくは城からひたすら離れないといけない。
だから駆けることにした。息が上がり過ぎないくらいにだけど。
まだ暑い。
どうしよう。田上城までの街道をまっすぐ行けば、日陰が少なく体が干上がってしまう。
街道の左手……西の方には丘陵と森が広がっている。そっちを通ろう。
獣や野盗がいたりするかな?
でも、日陰で涼しい。足下は悪いけど、足取りは軽くなる。
----------
‚
一刻の間、駆けては歩き、駆けては歩きの繰り返し。走るのが辛くなってくる。日が高くなると、日陰でも空気は暑くなってくる。日が直接当たらないだけましだけど。汗がどんどん流れてくる。
森の東側の所々に田畑があり、そばには水路が引かれている。大抵は森の中からの流れなのできれいだ。十分に飲める。ご飯は食べていなかったが、胡瓜や冬瓜を畑から盗んで、人目に付きにくい木蔭で貪った。
旅支度ではない、ただの町娘の着物姿で、人目に付かない森の辺をうろうろしている。怪しまれてしまう。目立たないようにしなければならない。
巳一つ(午前9時)くらいかな。駆けた最初の一刻で四里は進めた。東に四方村が見える。
できれば四方村で一休みしたかった。だけど、男の駆け足や馬で大津屋の息がかかった連中が先回りしないないとも限らない。
田上城下に着くまでは、集落には近づかない方が無難だろう。
「はぁ……疲れた」
半刻歩いた巳三つ(午前10時)あたりで、北東の秩父へと向かって伸びる小街道を横切ると、また森だ。郡境は過ぎただろうか。
森の縁をゆっくり進む。
さすがに辛くなってきた。草鞋に足袋だけど、足の裏が少し痛い。肉刺ができたかもしれない。
冬瓜と胡瓜が取り入れ期でよかった。しかも、早稲の田んぼの狩り入れ時期と重なっている。百姓は田んぼを優先して、畑に人影が見えない。盗人は殺されても文句は言えない。不幸中の幸いというやつだ。
食べたら少し休もう。もうご領主が違う。氷室郡の者が追いかけてきて狼藉を働くということもないはず。
少し休んでも悪くないはず……
----------
眠ったわけじゃない。でも、体に気力が戻って、また歩けるようになった。今は、多分、申三つ(午後2時)くらい?
というか、時刻がはっきりわからない。
空がどんより曇ってきて、お天道様の場所がはっきりわからないからだ。
しょうがない。暗くなる前に田上城下に行って、旅籠に転がりこもう。
でも……駄目……すぐに足が重くなった。
鉛が入ったよう……というのはこういうことを言うんだろうか。
足の裏の痛みも刻々強くなってくる。
そうこうするうち、足袋の中で足の裏にぬるっと変な感触がする。
肉刺が破れちゃった? 痛みが2倍くらいになった気がする。
膝があがらない。
足先も十分にも持ちあがらないから、木の枝や根っこに簡単に躓いて転んだりする。
町娘風の淡い紅色の着物が土で汚れちゃう。
森が切れ切れになった。
森脇村と多田野村の間で、森からうっかり離れてしまった。でも、もう大丈夫のはず……と思い切って、街道を横切った。
西の方が開け、空模様がわかると、ちょっと不味いかなと思った。
西からすごい量の雲が押し寄せて来ていた。風も強くなってきている。
大風に大雨? 確かに7月だし、そういう季節だ。どうしよう。何の準備もない。村の集落で助けを求めても良いのだけど……。
時が経つ感覚がなくなっていく。今は何刻だろう。
ただただ足が重くて、それでも動かさないといけない。
森を分け進み続けるけど、もうちょっと動けない。
雨が降ったり、風が強くなる前まで、少し休もう。
ちょうどいい具合に、茂みがある。そこで寝そべってしまおう。
暗くなってきた? お天道様が沈んだのか。大雨の前の雲が厚くなったせいか。
もうどうでもいいや……。
----------
やっぱりわたしは寝てしまったのだ。
寝返りを打ち、小さな呻きが出た。
そこへ男たちの声。
「おい? 誰か、そこにいるのか?」
「こんなところで怪しいぞ。気をつけろ」
ぱちぱちという炎が爆ぜる音がする。松明だ。じゃあ、ほとんど夜中だ。
迷った。
助けてと言えば助けてくれるだろうか。
良い人もいれば、悪い人もいるのが世の中だ。佐吉さんみたいにわたしを逃がしてくれた人もいる。旦那のように、おとみさんを折檻し、わたしを言われもなく女郎屋に売ろうとする人もいる。
この人たちはどっちだろう。
どのみち、このままではいられない。わたしは働かない頭のままで茂みから這い出して、立ち上がった。
「助けてください」
「どうしたんだね?」
「氷室城下で不始末をしでかして、女郎に落とされることになったので逃げてきました」
「どういうことだね?」
男たちは、わたしの潜んでいた茂みを四方から取り囲んでいた。
松明がかざされ、わたしの姿があらわになる。
何度も転んだし、今、茂みの中で寝ていたから、着物は乱れていた。
胸元も開きそうだったし、襟も背中の方にずれていた。髪の毛も乱れ放題だ。
尋常ではない。
でも、わたしは大人しく事情を話した。
奉公していた店の女将の浮気がばれて、わたしの見張りが悪いと責められた。女将が旦那に口答えしたら、女将は女中に罠にはめられたとでっちあげられた。年季奉公の給金の証文が女郎屋に叩き売られた。隙を見て逃げだした。
「そいつは大変だったね、番屋で休んでどうするか、話をしようじゃないか」
それが男たちの答えだった。よかった信じてくれた。助けてくれる。
わたしの頭はますます働かなくなっていた。ほっとしたせいだ。
「こんな夜中に、女を連れてるのを誰かに見られたら不審がられる。不審者をとっ捕まえたという風にしたいから、手を後ろ手に縛って目隠しさせてもらっていいかね」
「え? ちょっとよくわからないですが、必要なんですか?」
「ああ、特に女房に見られたらいろいろうるさいんだ。わかってくれよ」
後に回っていた男の1人が、わたしの両手首を捕まえて、腰の後で組ませて縛り上げる。そして、もう一人が、手ぬぐいを顔に巻いて目隠しをする。
「こわいです」
「なぁに、番屋に着くまでの辛抱だ。すぐだよ、すぐ」
男たちの言うとおりだった。痛む足でたどたどしく歩いて、100も数えていないだろう。引き戸の開く音がした。多田野村はすぐそばだった……もう一頑張りして、明るいうちに助けを求めて良かったのかも……。
でも、やっと安心できる。雨風を心配せずに休める。
だけど、そうはならなかった。目隠しはされたまま、手の縛めは解かれたが、ばんざいさせられ、両手首が帯のようなもので縛られた。まるで折檻のために吊りさげられたみたいだ。
「え? うそ? 何でこんなことするんです?」
女郎屋に叩き売られて、折檻されてしまう……そういう怖いことから逃げて来たのに。どうして?
「こんな夜だ。お前さんがどんな咎人か、本当はわからないしな」
「身体改めさせてもらうぜ」
「物の怪かもしれない」
男たちは訳のわからないこと口にしながら、わたしの着物の前を開けた。
そこからのことは、よく覚えていない。
何をされたのか思い出したのは、もっと強い体と心を得てからだった。