110 午四つ(午後12時半) 挑発 郡境高台・堀部本陣・渡辺織部助忠泰(地図)
「槍衆はもっと閧の声を挙げよ! 太鼓も鉦も打ち鳴らせ! 弓隊は、第2陣に向けて矢を放ちまくれ!」
街道のすぐ西にあって、郡境に面した台地の上に、堀部の本陣は置かれている。
「ただ鳴らすな! 祭りの鉦や太鼓のように拍子をつけて、楽しくやれ!」
安田の第1陣は中山道上を南下していく。
第2陣は誰が率いるにせよ、この高台に引き付けねば。
本当なら、第1陣も、第3陣も引き付けたかったが。
柵を越えてきた敵が北と東に背を向け、後続が途切れる。それが御館様の狙い目だ。柵は最初に破られたところからの侵入に留まり、敵の連携が途切れればよい。そのためだけに1里もの柵は無駄のように思えるが、我が軍左翼での梶川隊と柴田隊の牽制合戦を生む効果もあり、やっぱり必要だったのだ。
大局観のある中山様に第1陣を委ね、第2陣として御館様の本陣を高台に晒し、敵の突入してきた隊の背後を突いて一気に破る。そのため、森には梶川隊主力、鈴木隊、内藤隊が潜んでいる。
高台は、一昨日、向こうの御館と会談した場で、柵の材料の丸木を搬入した際に見た時には、郡境から近すぎると思ったが、餌にするには、これくらいでなければ……。
なだらかな下り斜面の真ん中に親指が突き出たような台地。郡境の底地に達する手前のところに「∩」と盛り上がっている。頂上部の高さは10から12間ほど高い。周囲は急斜面で取り巻かれ、南側で自然に斜面の中に収まっていく感じだ。
急斜面には、短めの逆茂木を乱杭として立て、そこここに一昨日の森の出口の封鎖に使った、矢じりや槍の穂先で剣山のようにした板も置いてある。
ただ、それも本陣を堅く守りきりたいという風に見せたいという偽装だ。
両隊が揃って本陣に寄せて来ればよいが、様相は違った。先鋒の安田は中山道を突き進む。第2陣の兵がこれに協力して、我が方の中山道上の兵力を撃破……そして、背面まで突破したら完敗だ。向こうの本陣などの残り戦力に前後挟撃され、完全に詰んでしまう。第二陣だけでもこちらの本陣に攻めさせねば……。
「第二陣の敵兵、東側から斜面に登ろうとしています」
「槍兵! 石を投げろ! 急げ! どんどん投げつけろ!」
「うぉーっ!」
「弓兵! 確固に射よ! 素早くだ!」
「例の鏃は取っておけよ!」
「くそが!」
「死ね!」
「駆け上がれ!……もっと速くだ!」
掛かった。台地の北東から真東にかけ、一昨日の敗残兵であるはずの敵の一門兵が、駆け上がろうとする。
斜面の地盤は、割としっかりしている。
しかし、ところどころの逆茂木と剣山板のおかげで、足が止まる。
そこに石礫が当たれば痛みで、ますます足が進まず、そこに矢が当たる。時々、顔面に石が派手に当たり、それだけで坂を転げ落ちる敵兵もいる。
それでも所々、逆茂木が引っこ抜かれ、剣山板が坂下へと投げ落とされ、ついに前進を始める隊がでる。
冗談じゃない。
こいつらが敗残兵だという計算だったのに、予想外に士気旺盛だ。
奉行どもの手勢の旗印も見えるから、そいつらのせいもあるのかもしれない。
ともかく、この連中をまとめきれる一門の将は残っていないはずなのに……。
しかし、目の前の事態は、その予想を裏切った。敵は激しい闘争心を見せながら、障害物を突破したのだ。
「槍兵! 槍を取れ!」
「叩き落とせ! 突き落とせ!」
槍兵が3列ほどの横隊を形成し、急坂の手前で槍襖を敷く。
「叩け。いつもより楽だぞ。俺に倣え!」
一人の組頭が怒鳴る。それほど頭上の持ち上げずとも、相手の頭の位置は下にある。自分の顔の高さまで槍を軽く持ち上げて、自然に振り下ろすと、いつもと同じ威力で、下まで振り切れる。
それに習って雑兵たちも、槍を上下に振る。
敵の槍兵は、槍を突き上げるしかないが、それには常以上の腕力が必要で、突く速さも今ひとつだ。
「くそ…」
「なぜだ…ぐあ…」
「ぎゃあ」
「うりゃ……叩けば当たるぞ!」
「こいつらの突きなんて大したことねえ!」
「おう……このまま叩き落としてやれ!」
「陣列を崩すな。むやみに前にでるなよ!」
「弓兵……敵の弓兵を制圧しろ!」
敵兵は我々の頭の高さより上に、槍の穂先を出せる位置に来る前に、石が当たったり、我が方の槍に叩かれ、坂を落ちていくことの繰り返しだ。
一時、弓兵が一点に矢を集めてそこを突破しようとしたようだが、それを今度はこちらの弓兵が一網打尽にしつつある。
「いいぞ、不思議と当たる」
「矢がかすめたが不思議と痛くねえ」
ところどころで、そんな声も聞く。そう言えば、槍や甲冑に呪いを仕込んだという話だが、本当に効果があるというのか。
「くそう……なぜ落とせぬ」
「諦めるな! 隊列を組み直せ! 全力で駆け上がるんだ!」
そう叫ぶ敵の第2陣の大将はよくわかっている。自分は駆け上がらない。坂下での督戦に留めているのは、自分が坂を駆け上がる途中に転げ落とされた瞬間に、この隊全体の士気が崩れ落ちるとわかっているのだ。
よく動き、よく将兵を励まし、良い大将だ。
だが、この強壮な士気を活かすなら、ここに攻めて来るべきではなく、安田に後続すべきだった。
そのことが程なく、証明されるはずだ。